笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

オンライン公開講座(1/7)

毎月1回一堂に会して行われていた笑楽日塾の塾会も、新型コロナウイルス感染拡大の影響で集まることが出来なくなり、会の場をZOOMミーティングに変えて開催することになりました。しかし塾生によるZOOMミーティングだけでは盛り上がりに欠けることに気付き、更に上を目指すため「塾生以外の方とも交流の場を作りたい」との思いから、オンラインによる公開講座の開催に至ったことは流石です。

今回から1週間はコロナ禍の活動「オンラインによる公開講座」を振り返り、7日間連続でアップします。塾生だけに拘らず塾外の方にも講師をお願いして20回開催。それぞれの専門分野の方のお話は圧巻そのもの。興味を持たれるお話しも多いことと思いますので是非ご堪能ください。

 

初日の今回は全20回のうち第1回~第4回までをご紹介します。

第1回講座:料理用包丁と砥石

 

第2回講座:世界に橋を架ける

 

第3回講座:江戸の大名庭園

 

第4回講座:鉄道の始まり(1/5)

第4回講座:鉄道の始まり(2/5)

第4回講座:鉄道の始まり(3/5)

第4回講座:鉄道の始まり(4/5)

第4回講座:鉄道の始まり(5/5)

 

明日は第5回~第8回です。

SDGs

前回は久しぶりの投稿でしたのでブログ作成の経緯や蕨市の歴史など、初心に戻って意気込みを思い出してみました。今回も当時の実績を振り返ってみます。

当ブログ「笑楽日塾の事件簿」は管理人である私のボケ防止、暇つぶし、備忘録の他、高齢者の地域活動参加のキッカケ作りに役立ちたいとの思いから書き始めました。時の流れは恐ろしいもので内容も途中からは少し方向が変わり、SDGs 17ゴール13番目の地球環境問題にも多くのスペースを割くようになったことにも驚きです。これには子供たちの未来に私たち大人が禍根を残してはならないとの思いからです。「誰ひとり取り残さず解決し、美しい地球を後世へ繋ぐ。」素晴らしいフレーズですね。笑楽日塾では2018年の暮に「SDGs」という言葉が塾会の話題に上がり、初めて聞いたときには「なんのこっちゃ」と思ったものです。その後は塾生全員と地域社会を巻き込んでの勉強会を行っています。

2019年10月6日(日)蕨市の旭町公民館に於いて、市民の方にも参加に参加していただく講演会としては3回目の「私たちの暮らしと地球温暖化」を開催。講師にはアクティブシニアの地域デビューを後押しする「埼玉県 環境アドバイザー」や「環境省 地球温暖化防止 コミュニケーター」等でご活躍されている前田則義様にお願いし、環境問題をお話しいただきました。この時の内容は8回に分けて投稿していますのでご紹介します。なお、このセミナーは2019年10月に行われたものですのでご考慮ください。

warabijyuku.hatenablog.com

また、2021年10月5日にはマスコミが一斉に報道した『日本人の物理学者真鍋淑郎博士が嘗て発表していた「地球温暖化予測のための大気海洋結合モデル」が評価され、ノーベル物理学賞受賞が決まった』とのニュースで盛り上がりました。

後追いの感はありますが、我が蕨市も広報誌「広報WARABI」2021年11月号にSDGs 12番目の「作る責任 使う責任」の特集を取り上げています。

https://www.city.warabi.saitama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/052/202111honshi.pdf

なお、埼玉県でSDGsの先輩格行政、三芳町の「Miyoshi(広報みよし)」には2019年12月号に特集記事が載っています。これを見た時には身震いするほどの刺激を受けました。

https://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/town/koho/2019_12.html

2019年の笑楽日塾は講演会やシンポジウム・公開講座を開催しましたが、その後は新型コロナウイス感染拡に伴い、大勢の方にお集まりいただく公開講座等は自粛しています。この間の活動は皆様がご自宅から参加できるオンライン公開講座(無料)『あなたの知らなかった世界への扉を開いてみませんか』を計画し、多くの方に参加していただきました。このお話は次回のブログで紹介しますが、オンライン公開講座は終了していますのでご承知おきください。

当ブログの他にも塾生が運営するホームページ『笑楽日塾』もありますので是非そちらも併せてご覧ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

復活のご挨拶

ご無沙汰しております。

勤務先の現場が変わったため昨年11月から超多忙になってしまい、ブログ更新の手抜きをしてしまいました。その慌ただしさもようやく落ち着いてきましたので、これからは目標としている週1回の更新に戻りたいたいと思っています。

ブロブの管理人とマンションの管理人をしている私が、W管理人の『管理太郎』として2020年7月19日から投稿し始め、早いもので3年半経ちました。今回は昨年11月からの復活初回でもあり、3年半の間に途中からご覧いただいている方もおられますので、より分かり易くするために初回投稿分を引用して蕨市や笑楽日塾の紹介から始めてみます。

タイトルは『笑楽日塾の事件簿』などと大層な名前を付けましたが、当ブログでは殺人事件は起きませんし名探偵も登場しません。タイトルはミステリー好きな管理人の単なる気まぐれですので気楽にお付き合いください。埼玉県と蕨市を愛してやまない管理人が笑楽日塾の活動を軸に、構成上の脈絡もなく淡々と綴る備忘録もどきのものとご承知おきください。

笑楽日塾は埼玉県蕨市で活動する団体ということで蕨市の歴史を少し紹介します。

蕨は江戸時代に整備した中山道板橋宿の次に位置する2番目の宿場『蕨宿』として発展し、大名の参勤交代や生活物資の運搬にも街道の中継点として重要な役割を果たしました。蛇足ですが、蕨と板橋の距離について三代目三遊亭金馬師匠は、古典落語『雑排』の中に登場する人物の「八っつぁん」が『蕨とは板橋からは一里半』と詠んでいます。ただし、正確にはもう少し長いようです。また、蕨は江戸時代後期から昭和30年代頃までは織物業が盛んになりました。絹糸に比べて丈夫で着心地の良い綿糸を使った織物は、蕨の特産品双子織の先駆けになる「ニタ子縞」の開発によって大きく町の発展に貢献しました。

今では全国的に行われている成人式(蕨市では成年式と呼ばれ、蕨城址公園の中にこの記念像がある)発祥の町でもあります。

 

笑楽日塾とは 埼玉県南部に位置し、全国に数ある市の中で面積が1番小さく、人口密度は全国の市町村で最も高い蕨市で活動する、『就労からリタイアした、又はリタイア間近な男の集団』です。

男の集団『笑楽日塾』は2018年1月『これまでの人生で得た知識を塾生の間で分かち合おう』『余裕の出来た時間を使って地元のお役にも立ちたい』との意気込みで、既にリタイアした男13名・リタイア間近の男2名の計15名で立ち上げ誕生しました。

笑楽日塾は今から6年前に発足しています。当ブログ内では当時と現在の出来事が混在しており多少混乱するかもしれませんが、出来るだけ分かりやすく進めたいと思っていますのでご承知おきください。また、笑楽日塾6年間の歴史と経緯を綴ったこのブログを、多くのリタイアされた男性やリタイア間近の方に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで、社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

当ブログは笑楽日塾の日々の活動を脈絡なく書きなぐりますが、個人情報保護のため多少理解し難いことがあるかもしれません。スケジュールとしては毎週水曜日の更新を予定していますので、お手すきの時にでもお立ち寄りください。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

笑楽日塾塾会

2023年11月9日は17時30分から笑楽日塾の塾会が開催されました。一堂に集まっての塾会は8月10日以来3ヶ月ぶりで、2時間にわたって楽しい時間を過ごしました。ZOOMを利用した塾会は毎月行っているものの、1ヶ所に集まって顔を突き合わせての塾会に比べたら残念ながらものたりない。今回は軽くお酒も入って場も盛り上がり、本音のトークで楽しさも倍増。塾生には多忙な方も多いため、1年ぶりに出席された方もおられて嬉しい再会。様々な活動をされている蕨の高齢者集団笑楽日塾、塾会の様子をご紹介します。

荒井塾長挨拶:これまで笑楽日塾は塾生の皆さんが体験された仕事や、各種の地域貢献ボランティア活動等々について順番を決めて書いたり語ったりして5年間をやってきました。世の中は今年の5月から変化が見られ、コロナがいつ自分の身に降りかかるのかその心配や、恐れていた日々への人々の認識が薄れ、次第に普通の日常に戻ってきた感じがします。

笑楽日塾も少し変化しても良いかなと考えています。もっと気楽に、語り合えればいい。シニアの心地よい居場所になれば良い。記念誌発行も6号の準備に入りますが、塾生へノルマを設けず気楽にやりたい。

今夜は8月以来の3ヶ月ぶりの対面となりました。皆様のご健勝と塾生Aさんが大好きな阪神タイガースの優勝を祝して乾杯したいと存じます。

 

【塾生の皆さんが最近遭遇した話題を語りました】

世間話を始めいろいろな話題が語られました。意外にも病気とか健康とか体の事が話題に出なかったのは、各自がシニアとして充実した日々を過ごし、いろいろな所で何かしら関わりを持っていて、そこから生み出される豊富な話題を持っているからと感じました。

塾生Aさん:38年前掛布、バース、岡田の大活躍で阪神タイガースが優勝したときはクエートで仕事していた。優勝の感激の瞬間を見られなかった。日本から送ってくれたビデオを何回も観た。今回は第7戦までもつれ込んだ激戦を毎回楽しんだ。最後の優勝の瞬間は感激し泣いた。阪神タイガースを応援してきて良かった。

塾生Bさん:蕨市がマンション住民への関心を高めてきている。マンションの諸問題に関して「マンションアドバイザー」としてマンションへ出向き講演している。派遣費は蕨市が負担。市内7つの公民館の耐震診断、設備診断を全部引き受けることになった。

塾生Cさん:町会の青年部で活動している。お祭りを手伝ったり、包丁や鎌を研いだりして喜ばれている。キッズゴルフ支援で関西へ行った。子供たちの面倒を見て、楽しかった。

 

塾生Dさん:あちこち小さな旅を楽しんでいる。今年の紅葉はかなり遅れているが、これからは紅葉の季節になるのでお出かけしたい。

塾生Eさん:公民館で活動している。生涯学習フェスティバルでは工作教室を開いて感謝された。最近感じるのは、蕨が変化していない、進化していない。何かが欠けている気がする。

塾生Fさん:先月自宅マンションの通常総会。新しい役員を決めようとしたが、なり手が少なかった。高齢化したマンションの共通の悩みだ。一方で、3~4年後には3回目の大規模修繕を予定しているので、経験者が大事だ。これまで理事長をやってきたが、これからも管理組合の副理事長として手伝っていくつもり。

塾生Gさん:高齢化しているマンションと同じで、町会の活動で苦労している。土橋地区の四つの町会が持ち回りで当番町会を担当している。今年の盆踊りはうちの町会だった。4年前同様に盆踊りをやろうとしても詳しく仕切れる人がいないので、結局私が担当する事になった。幸い天気にも恵まれ大勢が来場し、踊ってくれて大成功だった。しかし、いつまでやっていけるかそれが悩みだ。

塾生Hさん:いろいろな事を頼まれて忙しい毎日を過ごしている。福島へ新型発電所の視察にも行った。きょうは子供の時に経験した東京大空襲に関する新聞記事を持って逃げ回ったことを話した。

塾生Iさん:9年間務めたマンションの管理人も75歳で定年退職。もう後期高齢者だから仕事はやらないことにしていたが、知人に近所のマンション管理人を紹介された。自宅からも近いのでやっても良いかと考えている。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

蕨郵便局立てこもり事件

テレビ等マスコミでも大きく取り上げられましたので皆様ご存じのことと思いますが、10月31日14時過ぎに笑楽日塾が活動する埼玉県蕨市の蕨郵便局で、銃を持った男による立てこもり事件が発生しました。

当ブログでは「蕨市は全国の市の中で最も面積が小さく人口密度は全国の市町村で最も高い、今では全国的に行われている成人式(蕨では成年式と言う)発祥の地です。」と紹介し、多くの方に蕨の名前を知っていただき親しんでいただこうとしてきました。しかし、思いもしなかったとんでもない事件で一瞬にして名前が全国区になってしまいました。

埼玉県や蕨市を紹介している「笑楽日塾の事件簿」として取り上げないわけにはいきませんので、今回の事件における私個人の係わりや笑楽日塾との係わりを少し書いてみます。

先ずは蕨市のホームページから

昨日発生した蕨郵便局立てこもり事件は、昨日午後10時20分頃に警察により犯人の身柄が確保されました。蕨市では、警察と連携し、防災行政無線等での注意喚起や子ども達の学校での待機措置と保護者のお迎え、市民体育館への避難所開設など、対応にあたりました。何はともあれ、犯人が逮捕され、郵便局内に取り残されていた2人の職員も無事で、ホッとしました。

この度の一連の事件で被害に遭われた方々に、市長として、心よりお見舞いを申し上げます。また、旧中山道の交通規制や周辺の立ち入り規制、児童生徒などの学校での待機やお迎えなど、市民の皆さんにはご協力をいただき、ありがとうございました。

以上が「郵便局立てこもり事件について(市長メッセージ)令和5年11月1日」の抜粋です。

拳銃を持った男による立てこもり事件が起きた蕨郵便局は事件翌日の11月1日から3日まで全業務を休止し、4日以降はATMなど一部のサービスに限って再開。6日午後からは6日ぶりに通常営業を再開しました。

蕨郵便局から最も近い小学校「蕨市立中央小学校」には400名弱の児童が在籍していますが、安全のために児童を下校させずに校内に待機させました。午後5時半頃から警察車両で近くの市民体育館に移動させ、保護者の迎えを待って引き渡したそうです。3時間以上も校舎内で待機させられた児童には「よく頑張った!」と、褒めてあげたいもの。

この中央小学校では毎週月曜日の午後に「放課後子ども教室」が開設されています。笑楽日塾の塾生1名が実行委員長を務め、私を含めた塾生5名がボランティアスタッフとして活動しています。また、近隣の有志の方々約10名もボランティアスタッフとして活動されています。事件の前日10月30日(月)は放課後子ども教室の開設日で、私達スタッフは午後2時に学校に集合し5時過ぎに解散していました。もし事件が前日に起きていたら塾生6名を含めた教室のスタッフ全員が児童と一緒に校内待機になったことと推察されます。

蕨郵便局から南に約1.5キロ離れた戸田市戸田中央総合病院でも発砲事件が発生しました。戸田市には、以前私がマンションの管理人としてお世話になっていたマンションがあり、戸田中央総合病院は自宅と勤務先の通勤路近くにあるため、私も何かと便利で時々お世話になっていました。嘗て私が2泊3日で入院した鼠経ヘルニアの手術もここでお願いしています。今回の発砲事件では被害に遭った男性2人が負傷したそうですが、1日も早い回復をお祈りします。

今回の事件は犯人の男が「自宅アパートに放火」「戸田中央総合病院で発砲」「蕨郵便局に立てこもり」の順に展開しましたが、犯人の男の自宅アパートは私が戸田市で管理人をしていたマンションの近くにあり、時々お昼の弁当を買いに行っていたスーパーマーケットの側でした。

何時何処で災難に遭うか分かりませんので「街中を歩く時もボケッとしていてはいけない」等、今回の件では身近な問題としていろいろと考えさせられましたが、本来の蕨は自然災害の少ない住みやすい街です。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

会報誌「笑楽日塾だより⑥秋祭り・御神輿の記憶」

私事で暫くの間ブログ書きから遠ざかってしまいましたが、少し落ち着いてきましたので様子を見ながら再開したいと思います。皆様にはご都合の良い時にでもお付き合いいただくと嬉しいです。

私の都合には関係なく笑楽日塾は毎月活動しており、会報紙「笑楽日塾だより」は毎月末に発行しています。2023年10月31日発行分には荒井貞夫塾長が「秋祭り・御神輿の記憶」と題し、子供時代に田舎で楽しんだ記憶や、10月7日・8日の2日間に久しぶり行われた秋祭のことを書かれています。以下に紹介しますのでご覧ください。

子供の頃、私が住んでいた田舎の村では、大きなイベントは5月に雷電神社例大祭、8月に盆踊り、11月に御神輿があった。楽しみの少なかった子供時代はこの三つが大きな印象として残っている。中でも御神輿は地元の小さな八幡神社に納められていて、その日だけ神輿蔵から出されて、担ぎ棒を麻縄で締めて、飾り物を着けて完成。

神輿は集落を回る。神輿が来る合図は直径2尺の鐘(黄銅製)を太い竹竿につるして、それを二人で前後に担いで、鐘を石で叩きながら走ってくる。その鐘の音が、神輿がやってくる合図。神輿は集落毎に有力者の大きな家の広い庭に担ぎ込まれて休息し、接待を受ける。

基本は今も同じだ。

ピーヒャラ♫ピーヒャラと篠笛が鳴り、ドンドンカッカ ドンカッカ♪と祭太鼓が響き、わっしょい!わっしょい!と威勢良く御神輿が練り歩く。

世の中はウクライナ対ロシア、イスラエルハマスパレスチナ)などの悲しいニュースやネットでは心ない言葉が飛び交ってうんざりしている。

それでもそこから一番遠い反対側にあるのがこの秋祭りだ。電波もスマホも要らない顔の見える人間関係はホントにいいもんだと思う。

祭の前日: 10月6日に笑楽日塾塾生の1人が神輿の会場となる広場にテントを設置する作業の手伝いに参加した。

祭の初日:7日には別の塾生が神酒所の設営を手伝い、10時に和楽備神社の神主が来て、神酒所でお祓いをし、御神輿へ御霊入れを行った。

お祓いが済んだミニサイズの「子供神輿・山車」が自宅マンションまでやってきた。祭のはっぴ姿のおじいちゃんやアニキに先導されながら「ワッショイ! ワッショイ!」と子ども達の声が響き渡る。なんてかけがえのない時間なんだろう。

子供神輿・山車が立ち上がるときはマンションを代表して塾生の1人が拍子木を「シャシャシャン シャ シャシャン シャン」と打って癸を入れた。

子供の時に体験した小さな御神輿の手触りと、かわいい「ワッショイ! ワッショイ!」が、大人になって大きく重たい御神輿を担いで威勢の良い「わっしょい!わっしょい!」に繋がっていくだろう。

年に2日の秋祭りは夢のような時間と体験が詰まっていて、このささやかな喜び体験を重ねていくことがキット豊かな人生になっていくのだと思う。

祭の2日目:8日には大人神輿がマンションへやってきて、みんなで担ぎ手の人たちを接待した。

神輿は7分休息後、マンション理事長が拍子木を「シャシャシャン シャシャシャン シャン」と打って癸を入れて立ち上がっていった。。

その夜には、マンションの人たち親子40人で打ち上げのパーティをやって大いに飲んで騒いで祭の締めをした。

子供の頃を思い出し、5年ぶりに復活した秋の祭を手伝って、「お祭りは、伝統文化を引き継ぎ地域の交流を広げ、きずなを深め、街を元気にするとともに、子ども達がふるさと蕨を実感することができる、素晴らしい伝統行事だ」と言う事を実感した。

以上が「笑楽日塾だより10月号」に載った塾長荒井貞夫の「秋祭り・御神輿の記憶」でした。お祭りは子供の時はもちろん大人になってからも楽しいですね。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。


本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

ある日車OBの鉄道ボランティア活動記録 ≪第3話≫

2019年10月14日「新幹線電車発祥の地・記念碑建立」蕨工場の跡地正面に記念碑が建立された

芝園団地の場所は、かつて埼玉県北足立郡芝村と呼ばれていました。芝村は、昭和15年1940年に川口市に合併し、川口市芝となりました。一方、芝園団地の向い側が北足立郡蕨町でした。蕨町は64年前、昭和34年に蕨市になりました。

この場所で、敗戦から15年後の昭和35年に新幹線電車の設計が始まりました。

Q1 どうして記念碑を設置する場所が芝園団地なのでしょうか。

それでは、その歴史といきさつをご説明しましょう。

日本には、世界に誇れる技術がたくさんありますがその中で、開発されてから50年以上ずーと進化し続けて、世界中の鉄道専門家が、あれは日本のオリジナルだ、日本人が世界に先駆けて開発したんだと認める技術、それが新幹線電車です。

59年前、いきなり時速210キロを実現して、世界をあっと言わせた夢の超特急・新幹線電車の第一号車はどこで作られ、どこの駅から出発していったのでしょうか。その源流を探っていくと川口市芝園団地と最寄りの蕨駅に突き当たるのです。

Q2 どうしてこの地で、世界最初の新幹線電車が作られるようになったのでしょうか

それは、今から89年前に東京にあった天野工場が芝村に移転してきたことから始まりました。今から151年前、明治5年(1872)陰暦9月12日、現在の暦で10月14日、日本で最初の鉄道が、皆様ご存じのように、新橋~横浜間 現在の汐留~桜木町間に28.8km開通しました。

このときに使われた機関車・客車・貨車は全てイギリスからの輸入でした。それから二十数年経って、日清戦争から日露戦争の頃に、日本で鉄道車両国産化の機運が芽生えてきます。その先駆けとなったのが、今から127年前、明治29年(1896)9月に名古屋に操業した日本車輌です。

それから2ヶ月後に、東京に天野工場が創業しました。

この両社は、大正9年(1920)に合併し、天野工場が、昭和9年(1934)4月に芝村へ移転してきました。

Q3 どうして、蕨町ではなく芝村になったのでしょうか?

それは当初、日本車輌では蕨町と交渉し、町民・地主の快諾を得ていましたが、そこへ隣の芝村の村民から工場誘致の猛烈な運動が起こり、両町村間で激しい工場の争奪戦が繰り広げられることになりました。

この争奪戦は、芝村の村民が同村の将来の発展のために時価の半額くらいで工場敷地を提供するとしたので結局、日本車輌は蕨町に隣接する芝村に工場を建設することにしました。

日本車輌が購入した土地は38,000坪(約125,000㎡)に及びました。

日本車輌は、昭和9年(1934)4月に東京支店天野工場の芝村への移転を完了し、芝村に移転された同社の工場は、日本車両・東京支店・蕨工場と称されることになりました。

Q4 芝村に鉄道車両工場が出来た頃の日本はどんな時代でしたか?

この蕨工場が出来た頃の日本は戦争の時代でした。昭和6年から、満州事変、日華事変、日中戦争、太平洋戦争と14年間続いた戦時体制は敗戦とともに全て解体されました。昭和20年8月15日、終戦のその日も車も貨車も動いていました。戦争に負けた虚脱感の中でも汽車が動いていたというのは、鉄道関係者の仕事への熱い使命感があったからです。そして鉄道が機能していたことが、戦後いち早く日本が復興する原動力になったのです。

戦争に敗れた日本は、戦後、大きな混乱と苦難の道を歩みました。

戦後、廃墟の中から日本が立ち上がっていく過程には、技術革新に取り組む日本人が持つ不屈の魂があったわけですが、特に鉄道面では国民を鼓舞する新幹線建設へ動き出す訳です。多くの反対を説得して踏み切った大事業が、国民の明日への希望へとつながっていったと思います。

Q5 世界最初の新幹線電車の試運転はいつ、どこで行われたのですか?

新幹線電車の試作車は、昭和37年4月25日に芝にあった蕨工場で完成し、汽車製造による車両と連結して新幹線生みの親である十河信二国鉄総裁を迎えて蕨工場で、試運転が行われました。この試作車はその後、蕨駅から約100km離れた小田原近くの鴨宮の実験線へ運ばれ、数々の速度記録を打ち立てました。

Q6 新幹線が世界に与えたインパクトは大きかったのでしょうね?

東海道新幹線は59年前、東京オリンピックの10日前、昭和39年(1964)10月1日に開業しました。

東海道新幹線は日本の経済発展を支える大動脈になり、日本の高度経済成長期を象徴する存在になったのです。これが刺激になって、17年後にフランスで高速鉄道TGVが、27年後にドイツで高速鉄道ICEが開業しました。

戦後、世界の鉄道界をリードしていた誇り高いフランスが、日本に追いつこうとしましたが、TGVの開発に17年掛かったのです、ドイツでICEが開業したのは、更に10年後でした。

これは新幹線電車の総合技術開発が、いかに難しく、困難で、優れたものであったかを物語るものです。その基礎を固め先端を拓いたのが芝にあった蕨工場なのです。

そこで働いたのは蕨や川口の人たち、その人たちの日々の暮らしを支えたのが川口や蕨の商店街の人たちでした。

Q7 芝にあった蕨工場は何処へ行ったのですか?

蕨工場は51年前、昭和47年4月に、愛知県豊川市に移転しました。

豊川では、世界最初の新幹線電車を生んだ偉大な蕨工場の名前を生かして、その工場の名前を豊川蕨製作所と改名しました。 

蕨工場で開発され培われた0系新幹線電車の技術が豊川に引き継がれ、2019年8月2日に豊川で、新幹線電車製造4,000両という大記録が打ち立てられました。

10月14日の記念碑の除幕式にはかつて、蕨工場で汗を流し、営業や、設計や製造に携わった人たちも参列されました。

かつてこの場所で、強い信念と大きな使命感を持って、厳しい仕事に取り組み、激しい情熱を傾けながらも、失敗を重ねたときの苦労や辛い思い出、多くの失敗を乗り越えてつかんだ成功への喜びが、この記念碑にいっぱい、いっぱい詰まっています。

Q8 この記念碑を製作したのは誰ですか

記念碑の原案デザインは私がやりました。2枚の新幹線電車の写真は日本車輌が提供してくれました。これを川口市栄町にある株式会社一粒工芸・栗原社長が最終デザインと製作を担当しました。

Q9 新幹線に関係する記念碑は他にもありますか

新幹線発祥の地・記念碑という物は、既に2つございます。それじゃ今日で3つ目かと言うと全く違う物です。

二つの内の一つは、東海道新幹線のモデル線・鴨宮基地があった所に建っています。

これは、日本国有鉄道東海道新幹線開業10周年を記念して49年前の昭和49年8月に建てた物です。東海道線鴨宮駅から西へ約600mの所に建っています。線路の内側にあって、一般の人には見ることが出来ません

もう一つは、東海道線鴨宮駅南口に14年前の平成21年4月に地元の人たちが建てた物です。

これら二つの記念碑は【新幹線発祥の地】となっています。それは新幹線という車両・架線・軌道・信号・通信・変電・駅舎・運転制御などの高速鉄道全体を示す物です。

一方、私たちがこれから除幕しますのは、それらの中で最も重要な車両・新幹線電車なのです。こちらは【新幹線電車発祥の地】なのです。新幹線発祥の地と新幹線電車発祥の地は違う物なのです

Q10 記念碑の協力者はどなたですか

この記念碑は芝園団地自治会の皆様、川口北ロータリークラブ会員の皆様、蕨ロータリークラブ会員の皆様、日本車輌OBの方々とUR都市再生機構の絶大なご支援とご協力により建立されました。

Q11 代表の荒井さんのお気持ちを:

この記念碑がこれから世界に誇れる新幹線電車の輝かしい歴史を伝える礎になることを願っています。(これは10月14日除幕式での私の挨拶をQ&Aで表現したものです。2019年10月11日FMラジオ川口で放送された内容とほぼ同じです。年月は現在に置き換え)

≪除幕して頂いた人々≫

日本車輌OB有志 新幹線電車設計者   代表 石田昌彦 様

川口北ロータリークラブ         会長 田中一任 様

日本車輌OB有志 日車100友会      会長代行 前田 功 様

ロータリークラブ                会長 中村泰司 様

日本車輌OB有志 日車蕨工場OB会     会長 野澤三郎 様

芝園団地自治会                       会長 真下徹也 様

東日本旅客鉄道株式会社大宮支社 蕨駅 駅長 丸山 浩 様 

(独)都市再生機構 埼玉エリア経営部団地マネージャー 遠藤正毅 様

川口芝園商店会            会長 金澤暢徳 様

新幹線電車発祥の地 記念碑建立実行委員会代表 荒井貞夫

≪除幕式に参列して≫

日本車輌OB  前田 功様から⇒荒井貞夫への手紙(2019年10月19日)

10月14日開催の【新幹線電車発祥の地記念碑】除幕式では大変お世話になり誠に有り難うございました。

立派な記念碑が完成し、席上、荒井さんの挨拶もそれに相応しい立派なご挨拶でした。原稿も見ずによくあれだけの内容お話しされるものだと荒井さんの頭脳明晰さに感心いたしました。集まられた方々も理解されたことと思います。

その後、祝宴の席で偶々荒井さんと対面で座り、今回の記念碑建立について更に詳しく話を聞けて、このプロジェクトに掛けた荒井さんの執念と熱意に感動しました。

その情熱がなければ、到底実現されなかったものと思います。

私は48年間日本車輌に在籍しましたが、日本車輌を退職した後、本体の日本車輌JR東海の傘下に入り、子会社となり、出向先の日車開発(株)かずさCCはアコーディア・ゴルフに売却されました。私は日本車輌国鉄はじめ民鉄、産業車両、海外の鉄道営業に携わった25年間、その後出向して房総の名門コースを目指したかずさCC運営の23年間は一体なんだったのだろうと忸怩たる思いを持っていました。

それが今回の記念碑建立により永久に私の名前が刻まれたことは当時新幹線電車の営業を担当した者として望外の喜びであります。

私は、この記念碑を前にして、日本車輌JR東海蕨市川口市、地域のロータリークラブ芝園団地自治会、UR都市再生機構等数多くのセクションの壁を説得しクリアして乗り越えられた荒井さんのご苦労を忘れることは出来ません。

この記念碑は、今は芝園団地となり、跡形もない日本車輌の蕨工場こそが世界に冠たる新幹線電車の発祥の地なんだと言うことを世間に知らしめるべくその執念と熱意が実ったものであり、正にそれを実行された荒井貞夫氏の金字塔であります。

私はいったん消え去ってしまった日本車輌の輝かしい足跡がここに残されたことを心から喜んでおります。誠に有り難うございました。感謝と心からのお礼を込めてご挨拶と致します。

≪なぜ記念碑を建てようとしたのか≫

私は2007年8月に、それまで約9年間暮らしたインドネシア合弁会社から帰国後、鉄車工の代表として、国立科学博物館に2年間勤務し、鉄道の歴史を研究発表する機会に恵まれました。

これが契機になってその後、経産省から頼まれてベトナムのコンテナ輸送計画、国交省・JICAから依頼されて「富士」と「はやぶさ」のブルートレインをマレーシアで復活させるプロジェクトを任され、JICAの依頼でカイロ地下鉄を手伝うなど日車退職後に活躍の場が広がりました。これは私の力ではなく日本車輌というブランドへの信頼と尊い歴史のお陰です。

その後は地元で学校や市役所、公民館などのボランティア活動を通じて蕨や川口とつながりを持つようになりました。

国立科学博物館での調査研究が実って、川口や蕨で、埼玉県庁や科学博物館、電気学会で鉄道の歴史を発表する機会がありました。

鉄道の歴史、新幹線の歴史を語りながら、私が18歳から育った蕨工場の歴史・世界最初の新幹線電車が蕨工場で開発された歴史を語る内に、新幹線電車の開発・製造に従業員が一丸となって取り組んだ情熱と輝かしい成果を話だけでなく形として後生に残しておきたいと言う熱い想いが湧いてきました。そして記念碑を建立したいという気持ちが高まり、機会ある毎にあちこちでその実現を訴えるようになりました。

特に大きかったのは平成25年(2013)に蕨駅開業120周年記念事業を実施したことでした。このとき私は蕨駅開業120周年記念事業実行委員会事務局長として各方面へ働きかけました。その中で記念碑建立を訴え続けました。また、蕨や川口で講演する度に記念碑を設置しようと呼びかけました。

蕨では、和樂備神社境内に約1m四方の大きな赤御影石があって、これをただで使っていいと申し出てくれました。また、御影石への彫り込みは地元の石屋さん(石勘)がこれも無料で彫ってくれると地元の神社総代表・野島善蔵氏が話をつけてくれました。

ここまでは良かったのですが、思わぬ落とし穴が待っていました。期待していた駅前広場への設置がかなわず、諦めざるを得ませんでした。

その後も川口郷土史会や公民館事業で講演したり、川口のFMラジオを通じて講演したりして機会ある毎に記念碑建立を提案してきました。その頃は、建設資金はどうするのか等は考えていませんでした。動き出せばなんとかなると。

しかし、なかなかその機会はやってきませんでした。それから4年経って、芝園団地が平成30年に開業40周年を迎える事を聞きつけ、平成29年8月に芝園団地自治会(韮沢会長)を訪問し記念碑設置の構想をお話しました。しかし、このときは前へ進めませんでした。

それから更に1年ほど経って、芝園団地自治会・事務局長/岡﨑広樹氏に私が塾長を務める笑楽日塾(ワラビジュク)で「外国人との共生」と題して平成30年10月18日に講演していただき、このとき40周年事業として記念碑の構想を岡崎氏へ説明し、岡崎氏から前向きの感触を得ました。

銀座で弁護士事務所を開いている須田清氏から川口北ロータリークラブでの講演(「世界最初の新幹線電車は蕨工場で生まれた」)を依頼されました(平成30年10月24日に講演)。このとき記念碑のこと、設置場所のこと、予算のことを訴えました。須田会長からロータリークラブが「協力する、資金援助もする」との力強い発言を頂きました。

一方、岡崎氏と設置場所について団地内の候補地を探して歩き、岡崎氏から土地の所有者であるUR都市再生機構へつないでいただき、設置場所が決まりました。

懸案だった設置場所が決まったので、2019年6月になって、日本車輌OBへ働きかけ募金活動を始めました。川口北ロータリークラブ田中会長)から蕨ロータリークラブ(中村会長)へお口添えしていただき蕨ロータリークラブからも資金援助の確約をいただきました。

もう一つの壁は「0系新幹線電車」という用語の使用や記念碑に刻む写真の提供についてJR東海日本車輌のご了解を得ることでした。幸い日車・総務部・野田逸男氏が根回ししてくださり2019年7月に了解を得ました。

最初は安価なアルミ複合板に印刷する事を考えていましたが、これでは耐久性に問題がある事から、頑丈なステンレス製に設計変更しました。価格は3倍以上になりましたが、結果的にはこの決断は正解でした。

碑文は蕨工場OB・大川浩平氏のアドバイスを受けました。制作者の一粒工芸にはポリスチレンの板に実物大に印刷した碑文と写真を貼り付けて、設置現場へ持ち込んでいただき、大きさや高さなどの感触を確かめました。

記念碑の設置作業はUR都市再生機構が設置場所の整地を含め、頑丈な基礎工事、設置工事を施工してくださいました。

こうして、多くの関係者の絶大なご支援とご協力により99名が参列の元に2019年10月14日鉄道の日に除幕することが出来ました。

私がこのようなプロジェクトを完遂出来たのは日本車輌というブランドのお陰と感謝しています。日本車輌への深い愛着と郷愁はOBの方々の誰もが持っています。

いま、ここに記念碑が出来てあなたが来るのを、そして全国の鉄道フアンが来られるのを蕨駅でお待ちしております

新幹線電車発祥の地記念碑建立実行委員会 代表 荒井貞夫

 

蕨工場物語(抄録)

≪蕨工場への愛着と誇り≫

蕨工場がなくなってから52年経ちました。当時40歳前後のバリバリの働き盛りの人たちにとっても、まだ入社間もない頃の人たちにとっても小田急の特急車・0系新幹線電車・長野電鉄秩父鉄道福島交通・富山鉄道・小湊鉄道、数多くのタンク車など日車蕨工場が世に送り出した多くの優れた製品と係わってきたことへの誇りはその後歩んだ道が異なっても一生忘れえぬ思い出となっていることでしょう

≪昭和45年12月14日 蕨工場閉鎖発表のころ

日本車輌社長 清水靖夫氏の回想 (40年前の出来事)平成21年9月2日聴取

  • 夜中の12時が回る頃、組合の提示は、3ヶ月間給料は要りません。無給で働きますということ。
  • そして朝方4時頃の提案は,社員みんなが親戚などから一人3百万円ぐらいを集めてきます。それでも蕨は救えないのですかというものでしたと聞いています。
  • 天野社長は新幹線一番列車で泣きながら、顔からハンカチが離せなかったと、本人から聞いています。
  • その後、出社せず、1ヶ月ぐらいかな、出社してきて、社長室の連中に神経性下痢で食べたもののすぐにトイレで会社に来られなかったと打ち明けてくれました。つらかったと思います。
  • 今、皆さんが蕨工場OB会で昔の上下の隔てなく、蕨工場を懐かしみ会えることは本当に有り難いことだと思いますし、その原点は天野さんの苦渋の決断と蕨工場を支えた皆様の真心にあると今でも私は思っています。
  • 毎年の蕨工場OB会を何時までも末永く続けてください。

≪豊川の声≫

52年前、耐え難い苦難を乗り越え、辛い別れを忍んで1,540名が退職されました。 

豊川へ転勤された方々は慣れない土地で蕨の技術を生かして豊川蕨製作所に新しい命を吹き込み、素晴らしい製品を作り上げていきました。元製造部次長中根進氏は【移転前後に蕨から多くの事を学んだ。蕨があったから今日の日車がある】と語っていました。

≪或る日の蕨での語り≫

蕨工場閉鎖から52年が経ちました。きょうお集まりの皆様は誰もが日車を愛し、蕨工場の発展に尽くされました。しかし突然遭遇した苦難の道を歩まねばなりませんでした。これからの人生・仕事探し、家族のことを思いどんなに心細い日々を過ごしたことでしょうか。正に耐えがたきを耐えて、暗い坂道を上ってきました。遠い昔の出来事とはいえ一生忘れることが出来ません。来年も様々な思い出を語り合いまし ょう!

≪蕨工場は新聞に何回か取り上げられました 3件ご紹介いたします≫

終戦記念日埼玉新聞が取り上げました。

蕨は埼玉県で熊谷に次いで2番目に大きな空襲・爆撃を受けました。しかし、蕨工場は一度も被害に遭いませんでした。それはそこに米軍の捕虜がいたこと及び、

これは私の説ですが、

連合軍は戦後復興を考えて、鉄道車両工場を爆撃しなかったというものです。これは私の調査結果です。これを裏付ける記録があります。国はGHQ連合軍総司令部)の指令により、昭和20年(1945)9月18日に、向こう1年以内に完成すべき車両として、蒸気機関車310両、電気機関車86両、客車・電車1,200両、貨車2,100両の合計3,696両の大量発注を行いました。これはまだ終戦後一ヶ月余りのことでした。

終戦時物資が極端に不足して、国民が空腹を抱えて飢えに苦しんでいた最も困難な時期に、ほとんどの工場が戦争による内地空襲で壊滅的打撃を受けて停止状態のこの時期に、これだけ大量の鉄道車両生産が始まったことは信じがたいことです

が、これは事実です。当時「戦後復興は鉄道から….」

というスローガンがありましたが、これはそれが本当であったことを裏付けるものであります。

 

≪昭和37年(1962)4月25日 蕨工場試運転線 あれから60年≫

2023年5月 日本車輌・車輌技術部OB会に寄せてこの冊子を作りました

笑楽日塾の活動は下記ホームページに載せていますので是非ご参照ください。

笑楽日塾塾長荒井貞夫の鉄道に対する思いを3回に分けてご紹介しました。当ブログはまた少しお休みしますが、10月中頃には復活したいと考えています。その節はまたよろしくお願いします。

 

ある日車OBの鉄道ボランティア活動記録 ≪第2話≫

2023年5月6日BSフジテレビ放送 「鉄道伝説」マレーシアで復活したブルートレイン物語

「鉄道伝説 マラヤン・タイガー・トレイン~海外で甦ったブルートレイン14系客車~」

マレーシアのブルートレイン「マラヤン・タイガートレイン」。実はこの車両は、以前日本の国鉄で作られた、14系客車である。かつて、人気のブルートレインとして日本で活躍をしていたが、ブルートレインとしては平成20年頃に引退。国内では使い道が無くなっていたが、遠くマレーシアの地で第二の人生を走り始めていたのだ。

この車両譲渡のプロジェクトが動き出したのは平成21年。だが、その過程は一筋縄では行かない、苦労の連続であった。

一時は座礁しかけたプロジェクトだったが、たまたま関わることになった一人の日本人の献身的な奮闘と努力によって、14系客車は無事にマレーシアの地で再び線路の上を走り始めることになった。

ブルートレインの引退】

平成21(2009)年3月15日。寝台特急「富士」と「はやぶさ」のラストランで、東京駅は鉄道ファンの熱気に包まれていた。ブルートレインの愛称で親しまれた、東京と九州を結ぶ長距離寝台特急がこの日で引退を迎えたのである。

ブルートレインは昭和50年代にブームを巻き起こし、東京と九州の間を中心に東北線北陸線、山陰線などでも数多くの列車が運行された。

だがその後、自動車や航空機にシェアを奪われて次第にその数を減らしていた。

そのブルートレインに使われていた代表的な車両が14系客車である。客車の電源を電源車からではなく、床下のディーゼル発電機でまかなう「分散電源方式」を国鉄の特急用客車として初めて採用したため編成の自由度が高く、分割併合を行う寝台特急で活躍した。

だが14系客車は、客車列車自体が減ったこともあってブルートレインがなくなった後は行き場を失い、そのほとんどが廃車となった。

だが、まだ十分使用できる車両も多く、一部の車両は、海を越えて第二の人生を歩むこととなった。その頃、東南アジアのマレーシアでも、旅客需要が増加しつつある一方、現有車両の老朽化が進み、有効車両が不足していた。

そして平成21(2009)年、この車両不足を解消するために、マレーシア運輸省から日本政府に対して中古車両譲渡の要請がなされたのだ。

この要請を受けて日本側では、JR西日本JR九州から、ブルートレインなどで使われていた14系客車を無償で譲渡することを決定。

早速、翌年にマレーシアに向けて14系客車など14両が輸出されることとなり、平成22(2010)年12月10日に、14系客車がマレーシアに到着した。

【マレーシア鉄道への14系客車譲渡】

マレーシアに14系客車が到着してしばらく経った、平成23(2011)年1月。鉄道車両メーカー・日本車両製造OBの荒井貞夫のもとに、国土交通省から一本の電話があった。

「マレーシアで客車の走行試験があるので、それに立ち会ってもらえないだろうか」その話は荒井にとって、まさに「青天の霹靂」であった。

【荒井さんインタビュー】

「私は客車のことなんて全く詳しくないのに、どうして自分なのか、本当に驚いた」荒井は車両メーカーの社員ではあったが客車の専門家ではなかった。ただ、合計12年半インドネシアに赴任していたのでインドネシア語に長けていた。マレー語とインドネシア語はほとんど同じなので、荒井の語学力を見込んでの依頼だったのだ。

しかし、この時点では、どんな客車の試運転かすらわからなかったが、2月に霞が関で行われた関係者のミーティングでようやく概要がわかってきた。

前年にマレーシアに渡った中古の14系客車について、現地でセミナーを行って欲しい、というのが国土交通省からの依頼内容だった。

【荒井さんインタビュー】

「客車の専門家ではない私のところに来るくらいだから、そんなに難しい話は必要ないんだろうと思ったんですよ。だから慌ててJRで客車のメンテナンス指導をやっていた方を紹介してもらって一生懸命勉強して、それで私がマレーシアでセミナーを行うことになったんです」荒井は軽い気持ちでこの依頼を引き受けて、平成23(2011)年5月、単身でマレーシアへと渡り、クアラルンプールから200㎞離れたBatu Gajaにある鉄道研修所でセミナーを開催。朝から夕方まで車両構造とメンテナンスに関する講義を行った。

全ての講義が終了し、荒井が席を離れようとした、その時だった。

「帰ってもらっては困る」「俺たちは図面と取扱説明書はもらっているが、さっぱり理解できない。電源車を使わないで、自車で発電してエアコンやコンプレッサーを動かすなんて全く経験がない。トイレも循環式という電気で動かす方式は初めてだ」セミナーの参加者たちは口々にこういって、荒井に泣きついたのだ。

翌日の夜の便で帰国予定だった荒井も、この訴えにはすっかり困り果ててしまった。

そのころマレーシアで使われていた客車は、電源車からの電源で客車の照明などが賄われる、いわゆる「集中電源方式」の客車しかなかった。

だが、日本の14系客車は客車にも電源を備えた「分散電源方式」だったため、集中電源方式の客車しか使ったことがないマレーシアの鉄道マンたちにとって全く未知の車両だった。

そのため、たった一日のセミナーで扱えるような状況ではなく、このままでは全く手に負えないことが明らかになったのだった。

そんな状況で、このまま荒井が予定通りに帰国してしまっては、彼らだけで客車を動かすことはできない。

マレーシア政府の要請にこたえて日本から14系客車を譲渡したものの、このままではせっかくの車両も野ざらしとなって、鉄くずになってしまうだけだ。

この状況に気がついている日本人は、いまここにいる荒井のみだった。

とはいえ、客車の専門家でもない自分に一体何が出来るのだろうか。

荒井は悩みに悩んだ末、大きな決断を下した。

「ここは自分が何とかするしかない」

荒井は急きょ帰国を延期して、クアラルンプールの日本大使館へ駆け込み、現在の窮状を直訴した。

「このままでは客車14両はごみになってしまう。これを解決するには日本へ研修生を送って、客車の操作、メンテナンスを教え込まないといけない。なんとか大使館から国土交通省へ依頼して、滞在費と旅費を工面して欲しい」この時対応した矢島一等書記官は、荒井の訴えに驚きながらも真摯に対応。迅速に日本の国土交通省に連絡を取って対応を検討。

そして数日後にはマレーシア鉄道の職員を日本に派遣し研修を受けてもらうことが決まったのである。

14系客車の操作やメンテナンスの研修をするには、実際に14系客車を運用しているところで行うのが望ましい。ところが、すでに日本ではブルートレインがなくなり、14系客車で運用している列車はほとんど無くなっていたため、受け入れ先探しが難航する。

せっかくここまで話が進んだのに、客車14両はやはりこのまま鉄くずとなってしまうのだろうか……

そう思いかけた矢先、あるところが受け入れ先として急浮上してくる。それがJR北海道だった。その当時JR北海道では、札幌〜青森間で急行「はまなす」を14系客車で運行していたのだ。荒井は国土交通省経由でJR北海道に研修受け入れを依頼、なんとか許可を出してもらった。荒井は研修カリキュラムを作り、ついにJR北海道での3週間の研修が決定する。

そうした研修の手配の一方で、荒井は改造工事の指導にもあたることとなり、7月に再びマレーシアへとわたる。

日本から持ってきた14系客車は、そのままマレーシアで運転できるわけではない。日本とマレーシアでは、レールの幅=軌間が異なるためである。

日本のJR在来線は軌間が1067mmだが、マレーシアでは1000mm。そのため、左右の車輪の巾を67mm狭めなくてはならない。それに伴い、ブレーキ等の位置も変える必要がある。

それ以前に、放置されていた客車は赤錆が浮いている状態で、まず外装工事からはじめて、台車の改造に取りかかった。

【マレーシアからの研修生】

平成23(2011)年8月6日。早くもマレーシアからの研修生8名が研修のために来日。

荒井がマレーシアでセミナーを行ってから、まだ3ヶ月も経っていないという、異例の早さでの実現だった。

成田空港に到着した研修生8名は、上野から寝台特急北斗星」に乗車して、一路北海道へ移動。これは、日本の客車列車の素晴らしさを体感してもらおうという、日本側の粋な計らいであった。翌日、北海道に到着した研修生たちは早速、実際の14系客車を用いての研修に入ることになった。

これまでのマレー鉄道公社(KTMB)で使われていた客車は電源車から電気の供給を受けるタイプの車両だった。一方、14系客車は電源車を必要とせず、発電機を搭載している。その電気を使って、照明や空調設備、トイレなどを稼動。さらには電気でコンプレッサーを回し、空気バネやドアエンジンなどに圧縮空気を送っている。

電源制御盤、空調制御盤、トイレ制御盤など多くのスイッチ、さらにはブレーカーやリレーなど、これらの操作方法をわずか3週間で学ばねばならないのだ。

また、日常のメンテナンス方法や始業前・終業後の検査方法、毎月の検査、3か月毎の検査、緊急時の対応など研修生たちが学ばなくてはならないことは山のようにあった。

それを必死で学ぼうとする研修生たちに、日本の技術者たちは経験に裏打ちされた技術を惜しげもなく一つ一つ伝授していった。

昼間は実際の車両を使って実技で学び、夕方からは座学で復習するという、手厚い体制で研修は行われた。

研修の中で荒井が最も重要視したのが、長い間(約30か月間)一度も動かさなかったエンジンや発電機を再起動する際の手順と注意事項であった。

いきなりエンジンのスターターのスイッチを入れると、油切れの状態のピストンが焼き付いてしまい、使用不能になってしまうのだ。

床下に潜って、6気筒エンジンのピストンに手でたっぷりと潤滑油をかけてやり、油が十分に馴染んでから、エンジンのスターターを起動しなくてはならない。

その他にも循環式トイレの汚水抜き取り作業、電気連結器(ジャンパーカプラー)の手入れ方法など、細かい手順についても研修が重ねられていった。

おりしも、この8月はイスラム教のラマダン=断食月(=8月1日から29日まで)にあたっていた、それでもマレーシアの研修生は断食に耐えながら、祖国のためにと札幌で毎日毎晩研修を受け続けた。

【車両試験】

マレー鉄道の職員たちが日本で受ける研修と平行して、マレーシアでは車両の改造作業が進められていた。そして9月になり、最初に完成した4両が工場から運び出される。

この車両を使って、日本での研修を終えて帰国した研修生8名が、早速日本で学んだ技術をマレーシアで確認。

荒井も見守る中、マニュアルを確認して一つずつ手順を確認しながらエンジンを始動。エンジンはうなりをあげて回り出し、照明も作動。2年半ぶりの始動を無事に成功させることが出来た。

その後、不具合の調整作業や各種の試験が実施された後、実際に走行させて乗り心地や各種の性能を確認する試験運転が実施されることとなった。

試運転は10/6から10/12にかけて行われ、現地のマレー鉄道公社のスタッフと、荒井が乗り込んで1730kmを走行。最高速度を日本より低めの時速105kmに設定した高速走行試験や、ブレーキ停止試験などが念入りに実施され、安全性を確認。

また、騒音や乗り心地も日本時代と全く遜色ない、心地よいものであった。

14系客車は車体幅が2900㎜あり、マレー鉄道の従来の客車よりも100㎜以上広い。そのため駅に入るときにはプラットホームに車体がこすられるのではないかという懸念があったため、慎重に目視しながら、ゆっくりと入線。車体とプラットホームとの間がおよそ50mmしかなかったため、その場で煉瓦製のプラットホームを100㎜削るように指示が出された。

荒井たちはこの試験運転の間、ずっと列車で寝起きした。

日本のように、駅近くにコンビニや駅の売店、駅弁などはマレーシアにはないため、時々長時間停車する時に駅前のレストランで食事をとるのだが、停車時間が短い時には屋台の食事を買って食べるしかなかった。

マレーシアならではの大変さもあったものの、試運転も無事に完了。準備の作業が一通り終了し、いよいよ実際の運用に臨むこととなった。

【マレーシアで第二の人生始動】

平成23(2011)年10月25日、タイとの国境に近いワカバル駅で、14系客車のプレ開業式(試乗会)が行われることとなった。

マレー鉄道社長、政府観光省、地元クランタン州のVIPが出席した席上で、この列車は「マラヤン・タイガー・トレイン」(マレーの虎)と命名された。

こうして、見た目もすっかり生まれ変わった14系客車は、12月19日から正式に営業運転を開始。 開業式にはマレーシアの運輸大臣や日本のマレーシア全権大使も出席するなど、生まれ変わった14系客車、マラヤン・タイガー・トレインの門出が華々しく祝われた。

ついに日本のブルートレインが、海を渡った異国の地で第二の人生を走り始めたのである。

マラヤン・タイガー・トレインの車内は、内装があらたに施されてきれいになったものの、寝台などは日本で走っていた時とほぼ同じままであった。

初便の運行でも大きなトラブルもなく終点まで運行されて、

乗車した人々は「振動や騒音も少なく乗り心地は大変良い」「まるでホテルのようだ」と口々に絶賛。

【荒井さんインタビュー】

「思えば1月19日の一本の電話から始まったプロジェクトですが、その時点では、このような大きな注目を浴びるプロジェクトになろうとは想像つきませんでした。

私は多くの人に教わりながら、手探りでプロジェクトに取り組んできました。」

昭和50年代に、日本で大人気だったブルートレイン。ブームが去った後、一部の車両は海外で第二の人生を歩み始めることとなり、マレーシアの地にも14系客車が渡ることとなった。

だが、日本からマレーシアに渡ったのは、車両だけではない。荒井たち日本の鉄道マンは、長年培った技術と、鉄道にかける熱い情熱をマレーシアへと伝えた。

そしてマレーシアの鉄道マンは、見事にそれにこたえてみせた。その証がマラヤン・タイガー・トレインなのである。

14系客車がマレーシアで再び引退しても、日本から伝えた技術と情熱は失われることはなく、これからもマレーシアの鉄道を支え続けていくだろう。

鉄道を愛する人々の、飽くなき努力と英知によって生み出された伝説は、永遠に輝き続ける。

【シナリオ原稿・監修】  荒井貞夫

【映像写真協力】 荒井貞夫

【演出】 野田真外

 

次回の第3話は2019年10月14日に、蕨工場の跡地正面に「新幹線電車発祥の地・記念碑建立」の物語です。

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに載せていますので是非ご参照ください。

ある日車OBの鉄道ボランティア活動記録 ≪第1話≫

ご無沙汰しております。イレギュラーですが、今日から3日間は当笑楽日塾塾長荒井貞夫が、現役時代に仲間達と歩んできた鉄道人生の回想録をアップします。短めの記事を良しとしてきたブログですが、今回の三篇はいずれも少し長めの読み応えのある作品になりました。ご堪能ください。

第1話:2023年1月14日、BSフジで放送されたドキュメンタリー番組「鉄道伝説 フレームレスタンク車開発物語」(9月16日アップ)

第2話:2023年5月6日、BSフジで放送されたドキュメンタリー番組「鉄道伝説 マレーシアで復活したブルートレイン物語」(9月17日アップ)

第3話:2019年10月14日、蕨工場の跡地正面に「新幹線電車発祥の地・記念碑建立」の物語(9月18日アップ)

以上の3話をご紹介しますが、第1話の「フレームレスタンク車開発物語」はかなり専門的な内容で、多くの方はご存じないお話しだと思います。懐かしいタンク車の写真もあり、その変遷を知ることが出来ます。皆様にとって新しい発見になるものと思いますので是非ともお楽しみくださいください。

≪第1話≫

2023年1月14日BSフジテレビ放送「鉄道伝説」フレームレスタンク車開発物語

鉄道伝説 放送シナリオ。

それは鉄路に命をかけた「男」たちの伝説。時代をつくった「列車」たちの伝説・・・

今回はタンク車・タキ9900形の物語

「鉄道伝説 タンク車・タキ9900形

~台枠をなくしてタンク車を軽量化・大容量化せよ~」

昼夜を分かたず、物流を支えて走り続ける貨物列車。

同じ量の荷物を運ぶのに排出される二酸化炭素の量は、トラックや船に比べて貨物列車の方が低いため、環境に優しい輸送手段として近年注目を集めているが、普段私たちが貨車を目にする機会は少ない。

そんな貨車の中でも、独特のフォルムをもつのがタンク車だ。産業の血液とも呼ばれる石油などを運ぶタンク車は貨車の中でも重要な存在である。

近年は活躍の場が減っているタンク車であるが、平成23年東日本大震災では、被災した道路が使えない状況で、日本中から集めたタンク車が被災地にいち早く大量の石油を送り届ける活躍を見せたことは記憶に新しい。

そんなタンク車の歴史を振り返ると、少しでも多くの石油をより効率的に運ぶために、各車両メーカーがさまざまな技術を生み出してタンク車の開発にしのぎを削ってきた。

中でも愛知県の車両メーカー・日本車両が送り出した斬新なタンク車が昭和35年に登場した異形胴タンクのタキ50000形、そして昭和37年に登場したフレームレスタンク車のタキ9900形である。

それ以前のタンク車よりも飛躍的に多くの石油類を運ぶことを可能にした新技術は、60年経った現在のタンク車にも使われている画期的なものだった。

【日本の私有貨車の歴史】

日本の鉄道による貨物輸送は明治6(1873)年9月に開始された。それは新橋~横浜間に最初の鉄道が開通したわずか1年後のことであった。

貨物を運ぶ貨車には、国鉄や私鉄などの鉄道会社が所有する貨車の他に、一般企業が所有する「私有貨車」がある。

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この「私有貨車」が日本に初めて登場したのは明治33(1900)年2 月。「浅野セメント」の創業者・浅野総一郎が、新潟の石油を運ぶために鉄製筒型タンク車を作ったことに端を発する。そのタンク車は鉄と木で作られた台枠と、直径およそ1.5m の鉄製円筒型リベット構造のタンクで、荷重6トン積の2軸車だった。

大正時代になると、石油以外の化学品の輸送も行われるようになり、濃硫酸や希硫酸などを運ぶタンク車も出現。

また大正3(1914)年には秋田県黒川油田で突然大量の石油が噴出。これを緊急に輸送するため、20トン積タンク車・フア27200形(後にタサ1形)が誕生した。

このようなタンク車のほとんどは、鉄道会社ではなく、企業が所有する私有貨車であった。

国鉄向け貨車の設計は、国鉄が各車両メーカーの設計陣と定期的に「貨車研究会」を開催。そこでの研究を元に国鉄が中心となって標準の設計を定めて、各メーカーに発注を行っていた。

一方タンク車のような私有貨車は、台車やブレーキ、連結器などは国鉄向け貨車と基本的には同じだが、それ以外は各社の独自技術による開発となっていた。

安全面などは国鉄の監督下にあるものの、営業面では全くの自由競争だったのである。

戦後、荒廃した日本。その復興をいち早く進めるために、物流を支える鉄道貨物輸送は必要不可欠な存在だった。

しかし、戦後の日本に進駐してきたGHQは容積が6000ガロン、荷重でおよそ20トンよりも大きい私有タンク車を接収し、海軍の20トン積みタサ700形などが進駐軍の燃料輸送のために使われた。

この接収を回避しようと、この時期は15トン積のタム形式のタンク車が主に製作されたが、その後は次第に20トン積のタサ形式の車に移行していった。

そのような背景で生み出されたのが、昭和21年に作られた20トン積のタンク車、ガソリン専用のタサ1700形と、石油類専用のタサ2400形である。

昭和22(1947)年には30トン積のタンク車、ガソリン専用のタキ3000形(及び石油類専用のタキ1500形)が登場。その後しばらくは タキ3000形が石油輸送の主役として活躍する。

その後の昭和30年代、日本の重厚長大産業の著しい発展は、石油類や化成品の鉄道輸送需要の増大をもたらし、タンク車も目覚ましく進展。昭和30(1955)年度末には4,329両であった私有貨車の総数は、昭和39(1964)年度末には12,735両に達した。

そのような中で、一度により多くの積荷を運ぶことの出来る大型のタンク車の登場が切望されていた。だが、タンク車の重量には制限があるため、容量を増やすために単にタンクを大きくすればいいというわけではない。

鉄道車両において、車軸にかかる重量を「軸重」と呼ぶが、日本の鉄道は区間によって、線路の「耐えられる重さ」=許容軸重がまちまちである。当時は許容軸重によって、特別甲線(18トン)、甲線(16トン)、乙線(15トン)、丙線(13トン)の四等に分けられていた。

タンク車を含む貨車は全国で運用できるように、軸重が13トン以内になるように作られていた。(レール面上は13.5トン)

当時、20トン積み以上の石油タンク車は二軸のボギー台車が前後に付いているのが一般的だったので、一つのタンク車に車軸は4本。つまり全体の重量は13.5かける4で54トンまでとなる。したがって貨車自体の重量が24トンとすれば積荷を30トンまで積むことが出来るが、この「30トン積み」というのが当時のタンク車の限界だった。

だが、「一度の輸送で、できるだけ多くの石油を運びたい」という企業の声は大きく、それに応えるために各車両メーカーでは30トンを超える大型タンク車の開発に乗り出していたが、そのメーカーの一つが、愛知県の日本車輌製造であった。

日本車輌明治29年(1896)の創業以来、電車や客車、貨車を中心に製造。戦後は私有貨車の分野においても技術力や先進性でトップを走っていた。

その日本車両ではタンク車の容量を大きくするために、使用する区間を軸重15トンの乙線までの幹線に限定し、さらに台車の車軸を二軸から三軸に増やすことで一両あたりの総重量を15かける6、つまり90トンまで増やすことにした。

だが、タンクを大きくして積載量を増やす場合、車両限界の関係で幅や高さはこれ以上大きくできないため、長さを伸ばすしかないが、それでは編成が長くなってしまうので車両効率が悪い。

そこで車長を短くするために日本車両が開発したのが「魚腹型異径胴タンク体」である。

それまでのタンク車は、端も真ん中も同じ太さの直胴タンク体を使用していた。だが日本車両は容量を増やすために、中央部分が下に大きく膨らんだ「異径胴タンク体」を開発。タンクの内径は、細い部分で2050mm、大きい部分で2500mmであった。

こうして日本車両では、昭和35(1960)年に日本初となる50トン積のタンク車、(ガソリン専用の)タキ50000形と(石油類専用のタキ55000形)を開発する。

このタキ50000型には、さらにもう一つの新技術として「積空切換ブレーキ」が使われていた。

タンク車ではタンクに積荷が入っている積車時と入っていない空車時で重量が大きく異なるため、ブレーキの利き方が変わってくる。重量が重い時の方がブレーキは利きにくくなるのだ。

そこで重量によってブレーキを使い分けるために、重量が重いと台車枕バネが沈み込む時に高さが変わることを利用して自動的に積車と空車を切り替えるという、画期的な装置を開発した。それが積空切換ブレーキだ。

日本車両の開発した新技術で生み出された大型タンク車・タキ50000形の導入に際しては、これまでに前例の無い大型タンク車ということで、国鉄も含めて度重なる協議が行われた。また完成後も日本車両構内,新鶴見操車場構内で慎重に確認試験が行われ,運転制限は設けられるものの問題なく運用できることが確認された。

この完成後の試験において、異形胴タンクは中央が膨らんでいるので、一般的な直胴タンクよりも重心が低くなり、走行安定性が増すという、思わぬメリットも確認された。

それまでのタンク車の常識を打ち破り、30トン積が主流だった日本に突如登場した50トン積タンク車、3軸ボギー台車・異形胴タンクのタキ50000形は好評で、国鉄では他のメーカーでも50トン車は日本車両式で製造するよう指導した。

こうして日本車両は一躍、タンク車の世界をリードする存在に躍り出たのであった。

【タンク車を軽量化せよ】

主に幹線用に開発された50トン積のタンク車、タキ50000形は従来よりも多くの積荷を一度に運べるので好評を博した。

その一方で、タキ50000形は軸重が大きいため、幹線以外での使用は難しかった。

したがって、地方の線路などに石油などを運ぶためには、内容物を載せかえる手間を考えると、依然として30トン積のタンク車を使わざるを得なかった。

この30トン積のタンク車と同様の長さと重量で、より多くの石油を運びたい、という発注元からの声は、タキ50000形の開発後もますます大きくなっていた。

そこで日本車両は、従来の30トン積のタンク車と同じ総重量で、より多くの積載物を運ぶことの出来る新しいタンク車の開発に着手する。

当然、線路の許容軸重は従来と同じなので、積載物の重量を増やすためには、タンク車自体の重量を減らすしかない。

【タンク車自体は軽量化しながら、タンクは大型化する。】

この一見、相反する命題に取り組んだのが、日本車両で貨車の設計を担当していた植松康忠だった。

植松はまず、車長を増やさずに積載量を増やすために、タキ50000形で使われた「魚腹型異形胴タンク」の採用を決めた。しかしそれだけでは積載量を増やすことは出来ても、自重も増えてしまうので、車両のどこかを5トン分も軽量化しなくてはならない。

一体どこを削って軽量化するのか……? 植松は悩んだ揚げ句にあるアイディアに到達する。

【タンク車の台枠は無くても大丈夫なのではないか?】

タンク車は、前後につけられた台車と、石油などを入れるタンクと、それを支える台枠で構成されている。だが台車とタンクを省略することは出来ない。そこで5トンもの軽量化を実現するためには、台枠を軽くするどこらか、台枠そのものを取っ払って無くしてしまうという、奇想天外なアイディアを植松は実現しようと考えたのだ。

とは言え台枠は、タンクの重量を支えるだけではなく、前後から受ける衝撃に耐えると言う重要な役割がある。特に、タンク車を連結させる時には時速7km前後で衝突させて連結するので、積荷を載せた重い状態でその衝撃に耐えることが必要となる。

台枠無しでこの衝撃にいかに対抗するか……だが植松にはある考えがあった。

【タンク自体に前後からの衝撃を受け止めてもらおう】

当時のタンク車の胴板の厚みは9mmだったが、荷重を支えるだけなら理論的には5mmでも十分であることを植松は知っていたのだ。タンクの強度には問題がないと考えた植松は、タンクの断面に衝撃が均等に分散する設計を苦心して開発する。

そして、タンク体に直接台車を取り付けた試験車両を製作。積荷を載せた状態で150tとも言われる強い衝撃に耐えなくてはならない。実際に時速7kmでぶつけて連結させる試験を実施。その結果、台枠が無くても安全性に問題がないことが確認された。

こうしてそれまでの発想を覆すような、台枠の無い「フレームレスタンク車」、35トン積(ガソリン専用の)タキ9900形と(石油類専用の)タキ9800形を昭和37(1962)年に日本車両が投入する。

驚くべきことには、タキ9900形は積載量を5トン増やして35トン積を実現しながら、全長は30トン車(13.4m)よりも1mも短くなっていた(13.32m)。

たったの1mとはいえ、何両も連ねて走る貨物列車にはメリットは非常に大きかった。

またタンク車の重量が減ると言うことは、輸送全体で見ると石油以外の輸送量が減るので運賃が安くなることになる。タキ9900形は経済的なタンク車として大好評を博し、一時期は日本のガソリンタンク車の市場をほとんど独占する。

昭和37年から41年にかけてタキ9900形(546両)・タキ9800形(496両)合計で1042両が製造されることとなり、北海道から九州まで日本全国で広範囲で、根岸や四日市といった石油基地から発送される大編成の石油専用列車から,1両によるローカル線の少量輸送まで幅広く活躍した。

タキ9900形はフレームレス構造でタンク車の世界に革命を起こした、まさに画期的な車両であった。

【さらに大型化するタンク車】

昭和40年代、高度経済成長に伴ってタンク車はさらに発達。私有貨車全体で昭和49(1974)年度末には20,100両になり、昭和30(1955)年度末の4.6倍に達した。

そんな中、昭和40(1965)年9月には車両メーカー5社によって「貨車研究会タンク車分科会」、後の「私有貨車研究会」が発足する。

この研究会を母体に、各メーカーの共同設計で作られた35トン積の標準タンク車が昭和41(1966)年に登場した、(ガソリン専用の)タキ35000形と、(石油類専用の)タキ45000形である。

タンクは葉巻型の異径胴タンクで、通常の鉄よりも強度を高めた耐候性高張力鋼板=SPAを使用。またそれまでのタンク車は、石油などの内容物が気化するためにタンク上部に「ドーム」と呼ばれる出っ張りを備えていたが、このドームの役割をタンク自体に持たせてドームを無くした「ドームレス構造」を初めて採用した。

このタキ35000形は、初めてフレームレス構造を実現したタキ9900形の後継車両と位置付けられた車両であり、また私有の国鉄貨車としては初めてメーカーの間で仕様を統一した「標準設計方式」を採用した記念すべき車両でもあった。

タキ35000形の登場によって、タキ9900形の製造は昭和41年で終了したものの、その後もタキ35000形などとともに各地でタキ9900形の使用が続いた。

一方でその後もタンク車の大型化は進み、昭和42(1967)年には43トン積タンク車、(ガソリン専用の)タキ43000形と、(石油類専用のタキ44000形)が登場。

これは内陸部の石油中継基地への専用列車用に開発されたタンク車で、運用区間が幹線に限定されていたため軸重を15トンとした。

そして耐候性高張力鋼板とフレームレスで軽量化を図り、それまでの35トン積から43トン積を実現した。

これまでに培われた技術を集めて作られた、タンク車の決定版とも言うべきタキ43000形は「走るパイプライン」ともいわれ、大好評を博した。

その後、保安度の問題で昭和49年からフレームレス構造の製造が中止になるという逆風もあったが、昭和57年から製造が再開された。

平成元年(1989)にはタンク付属品の構造・材料を見直して軽量化を図った、44トン積の(ガソリン専用タンク車)タキ43000形(243000番台)が登場。

さらに平成5(1993)年には、更に荷重を1トン増やした45トン積(ガソリン専用タンク車・)タキ1000形が完成。

最大荷重を実現しただけではなく、運用効率を向上させるためにタンク車では初めての最高速度95km/hの高速走行を可能にした。

最高速度が時速75kmのタキ9900形は、老朽化もあってこの頃から急速に淘汰が進行。

かつてフレームレス構造でタンク車の世界に革命を起こし一世を風靡したタキ9900形は平成20年までにすべての車両が廃車となり、形式消滅した。

タキ9900形が消滅する以前の平成12年、JR北海道が夏季のレール膨張対策のためにタキ9900形などを購入・改造し、散水車として使っていたが、この車両も平成26年に廃車となってしまった。

廃車となって以後、残念なことに保存されたタキ9900形・タキ9800形は一両も存在しない。わずかに、茨城県神栖市の鹿島臨海工業地帯で、災害時用の水タンクとして、タキ9900形のタンクだけが、台車を取り外した状態でいまも残されているが、タンク車の状態のタキ9900形は写真や模型にその姿をとどめるのみとなってしまった。

戦後の高度経済成長を支えて、石油類の輸送を担ってきたタンク車。そのタンク車に「異形胴タンク」を引っさげて革命を起こしたタキ50000形。そして「フレームレス構造」でタンク車の新しい時代を切り開いたタキ9900形。

異形胴タンクとフレームレス構造は、タンク車の輸送効率を飛躍的に高めて、日本の経済成長に大きく貢献。これを開発した植松の名は貨車設計史に永遠に輝き続ける。

普段は経済を支えて走る黒子のような存在のタンク車であるが、タンク車の歴史を大きく塗り替えたタキ50000形とタキ9900形は日本の貨物輸送史に燦然と輝く画期的なタンク車であった。

鉄道を愛する人々の、飽くなき努力と英知によって生み出された伝説は、永遠に輝き続ける。

【シナリオ原稿】 荒井貞夫

【監修】 荒井貞夫 植松康忠 宮坂達也

【演出】 野田真外

【参考文献】

A 「貨車の技術発達系統化調査」(荒井貞夫/国立科学博物館

B 荒井さん資料「貨車とは何か」)

C 荒井さん資料「画期的な石油輸送タンク車の開発」)

D 荒井さん資料「貨車とフレームレスタンク車への質問集」)

E 「貨物鉄道130年史上巻」日本貨物鉄道株式会社

F 「日本の貨車―技術発達史―」社団法人 日本鉄道車両工業会

G 「私有貨車ハンドブック」(私有貨車セミナー編/第三出版)

H 「私有貨車図鑑」(吉岡心平/ネコパブリッシング)

 

次回の第2話は2023年5月6日BSフジテレビ放送 「鉄道伝説」マレーシアで復活したブルートレイン物語です。

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに載せていますので是非ご参照ください。

 

蕨の機まつり(七夕装飾とイベント)

蕨の夏の風物詩「わらび機まつり(はたまつり)」が開催され、当ブログでは前回まつりの由来と機神社で行われた神事「機まつり」をご紹介しました。今回は商店街の七夕装飾やイベントを紹介します。

8月4日から7日まで、蕨駅西口ロータリーから商店街を旧中山道蕨宿へと続く約1㎞の間には、七夕飾りや露店などが沢山並ぶ他、様々なイベントが開催されて大いに盛り上がりました。

綿織物の町として名を馳せた蕨の歴史や文化の継承と産業振興を願い、1951年(昭和26年)7月7日に第1回が開催された「わらび機まつり」も、今年は第71回となり8月4日~7日までの4日間開催。2020年と2021は新型コロナ感染拡大の影響を受けて中止になったものの、昨年は規模を縮小しての開催。今年は4年ぶりに通常開催に戻しての開催でした。

西口商店街で行われる機まつりの由来(七夕装飾や各種イベント)。

1826年(文政9年)七夕の夜眠っていた二代目高橋新五郎は、日ごろ信心していた関東大権現(徳川家康)の霊夢を見て、「高機渡世を営むべし(機織りをしなさい)」とのお告げがあったと言われています。二代目高橋新五郎が亡くなった後に、霊夢を見たと言われる七夕の日を蕨の織物業創始の日として同業者が集まり、綿織物業の繁栄を祈願してお祭りをするようになった。その後町長高橋庄次郎や織物組合・商工会議所などが中心になり、このお祭りを町全体で取り組むことにした。織物業の他にも商業の繁栄や蕨町全体の発展を祈願して1951年(昭和26年)7月7日に蕨駅西口商店街で「第1回・わらび機まつり」を挙行し、1953年に七夕装飾コンクールを実施しした。1955年からは8月7日を中心に開催するようになり、「わらび機まつり」は現在まで「機織りの町わらび」の伝統を大切にし、町全体の産業発展を願いながら機織りで栄えた蕨の歴史を今に伝え、蕨の誇る観光事業に発展しました。

機織りの歴史と文化が織りなす蕨の七夕

色鮮やかに飾り付けられた吹き流し、夜を照らす箱飾り、約1kmの西口駅前通りでは様々な七夕飾りが楽しめます。

スタートの西口駅前ロータリーでは「2023スターライトステージ」が設置され、地元のミュージシャンやプロのミュージシャンが毎日祭りに彩りを添えてくれます。我が笑楽日塾塾生からも1名がメンバーに加わっている「ピアロードファミリーバンド」も祭を盛り上げています。スターライトステージ右側七夕飾りを抜けていくと商店街が続き、その通り沿いに並ぶ様々な露店群からは食欲をそそる美味しそうな臭いを醸し出しています。

右手のVRアトラクション会場では、360°の迫力ある映像で、風や水しぶき・振動を感じながらボートのハンドルとレバー操作を体験できます。

物産販売会場では「ふれあい交流協定」を結んでいる群馬県片品村から出品された、農産物の直販コーナーが主婦に大人気。「災害時における相互応援に関する協定」を締結している栃木県大田原市のコーナーでは、串に刺して焼かれた鮎の塩焼きが美味しかった。

また、蕨ブランド認定品コーナーでは蕨らしさ(歴史、ストーリー性など)を有したものの物品販売を行っています。あまりなじみのない文字「蕨」の書き順をプリントしたTシャツや、サンドブラスト・ガラス彫刻の工芸品「蕨硝子」。蕨で研究開発して作られた日本一早く成るりんご「わらびりんご」で作られた「わらびりんごジュース」。なめらかガナッシュにモチッとわらび餅とサクッとパイ生地をしのばせた新食感のチョコレート「わらびもちショコラ」等が並びます。

通りを横切る桜橋通りではお姉さま方による「手おどり」の行進が4年ぶりに復活。

商工会議所のコーナーでは機織りで栄えた蕨の特産品「双子織関連商品」等を販売。

織姫広場では、住民によるキッズダンス、チアリーディング、フラダンス、ヒップホップ、ジャズダンス他、「ふるさと蕨・みんなで楽しむ発表会」が楽しめます。

今年はこの1キロメートルの通りに4日間で24万人の見物客が来場されたとか。大勢の人混みの中を歩くのも大変な労力ですが、熱中症に気を付けながら来年もまた楽しみたいもの。西口駅前通りを埋め尽くす七夕飾りには「装飾コンクール」の発表も表示されています。

ちなみに、蕨宿はお江戸日本橋を出発して板橋宿の次にある2番目の宿場で、南北1キロメートルほどの旧中山道沿いでは毎年11月3日(文化の日)に「中仙道武州蕨宿 宿場まつり」が執り行われます。昨年は機まつり同様に規模を縮小して行いましたが、今年は記念すべき第40回として通常開催に戻す予定とのこと。

ここからは二十四節気と七十二候です。

8月23日から9月7日の間は二十四節季の一つで「処暑」。暑さが峠を越えて穀物が実り始めるころ。朝夕には涼しい風が吹き心地よい虫の音が聞こえてくる。立春から数えて二百十日(9月1日)は台風の警戒日。稲をなぎ倒す風を鎮めるため各地で風祭が行われ、富山県の「おわら風の盆」もその一つ。秋の七草は、春の七草のように七草粥にするのではなく観賞用として親しまれている。

七十二候も8月23日から8月27日の間は「綿柎開(めんぷ ひらく)綿を包む咢(がく)が開く」。柎(咢)が開くと中からふわふわした綿が飛び出す。綿から糸を紡いで布を織る。綿が日本にやってきたのは平安時代の初期だが、栽培がはじまったのは安土桃山時代後期とか。8月29日から9月2日の間は「天地始粛(てんち はじめて しじむ(しゅくす)ようやく暑さが鎮まる」。「粛」は縮む、しずまる、弱まるという意味があり、北国や山などではこれから急速に季節が動き始める。ただし、暑さが鎮まるとは言っても最近の日本はまだまだ暑い日が続く。

 

突然のお知らせですが、最近野暮用が重なりてんてこ舞い状態になってしまいました。したがいまして当ブログを暫く(1ヶ月位)お休みします。なお、再スタートの節はよろしくお願いします。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

蕨の機まつり(機まつりの由来)

蕨の夏の風物詩「わらび機まつり(はたまつり)」が開催されましたのでご紹介します。祭りの開催場所は二カ所。一カ所は8月7日に蕨駅の東口にある塚越3丁目の塚越稲荷神社境内内社「関東宮機神社」。神職による御祈祷やお祓い、地域の要職に就かれている方々による玉串のお供えです。もう一カ所は8月4日から7日まで蕨駅西口ロータリーから商店街を旧中山道蕨宿へと続く約1㎞。七夕飾りや出店などが沢山並ぶ他、様々なイベントが開催され、大いに盛り上がりました。

蕨市は1889年(明治22年)に蕨宿と塚越村が合併して蕨町が誕生し、1959年(昭和34年)に市制を施行して今日に至っています。全国の市の中では面積が一番小さく人口密度も一番高い市です。江戸時代には宿場町として発展し、江戸時代の終わりから昭和の中頃までは綿織物業が盛んな町として繁栄したため、財政は豊かで大きな町になる必要がなかったようです。

機神社で行われる機まつりの由来(なぜ蕨で織物業が盛んになったのか)。

塚越村に高橋家の四代目で新五郎(1766年~1816年)という木綿商を営む商人がいました。新五郎の子供で高橋家五代目の国太郎(1791年~1857年)は父親から継いだ木綿商を営み、やがて二代目新五郎を名のるようになった。

1826年(文政9年)旧暦の7月7日(新暦の8月7日)の夜、二代目新五郎が眠っていると夢の中に神様(関東大権現=徳川家康)があらわれて『高機渡世を営むべし(機織りをしなさい)』とのお告げがあり、新五郎はお告げに従って織物業を始めたと伝えられています。(高橋家では代々関東大権現を信仰しており敷地内にお祀りしていました。また、高機(たかばた)とは織物を織る機織機のこと)。

これまでは農家が個々に綿を植えて収穫した後に自宅で綿織物を織っていましたが、二代目新五郎は自宅の敷地内に大きな織物工場を作り、10年後の1837年(天保8年)には100台以上もの織機を備える機織り工場を構え、蕨に綿織物業の基礎を築き一大産業にしました。

100台以上の高機は家族だけでは動かせないため近隣の住民を雇い、人々に働き口を与えて労働の対価として給料も支払われるようになり、農業以外の収入源を地域の人々にもたらした。

二代目新五郎によって考案された靑縞(あおじま)と呼ばれる織物は江戸で大評判になり、この技術を引き継いだ三代目新五郎(高橋家としては六代目)が蕨の特産となる二タ子織(後に双子織に進化)を開発。蕨は昭和30年代まで綿織物の一大生産地として栄えることとなったのです。

蕨の織物は大量生産をしたことにより安価な商品を作ることができ、庶民の着物として愛用されました。また、綿織物は絹織物より丈夫であったことから、商人が前掛等の仕事着としても使われるようになった。

高橋家の織物業が成功した理由の一つには、蕨が消費地の江戸に近かったという立地条件があったことと、時代を先取りした生産体系によるところが大きく、大量に生産された丈夫で質の良い織物をより安く江戸で販売することができたことがあります。

また高橋家の成功を目の当たりにした近隣の裕福な人達が高橋家から織物業を習って始めるようになり、さらに近隣農家の副業としての収入源を広げた。

塚越村の髙橋家が1708年(宝永5年)に関東大権現徳川家康公を自所に勧請し、塚越稲荷神社境内内社「関東宮」に祀ったことをはじまりとし、蕨機業の始祖である二代目新五郎はその死後に功績を称えられ、妻のいせと共に「関東宮機神社」に機祖神として併祀された。

機神社で行われる機まつりの由来は、二代目新五郎が関東大権現の霊夢を見たと伝えられる七夕の日に織物業を営む人々が機神様をお参りし、商売の繁栄を祈願するようになったことが起源と言われ、明治から今日まで続いています。

今回は蕨の機業の由来から機神社で行われた神事「機まつり」をご紹介しましたが、次回は商店街の七夕装飾やイベントを紹介します。

ここからは二十四節気と七十二候です。

8月8日から8月22日の間は二十四節季の一つで「立秋」。初めて秋の気配が現れてくる頃とされる。立秋から立冬(11月8日)の前日までが秋となる。季節の挨拶も暑中見舞いから残暑見舞いに替わり、期間は白露(9月8日)の前日まで。盆踊り、送り火、灯籠流しなどに家族が集まり、先祖と命を思う。

七十二候も8月13日から8月17日の間は「寒蝉鳴(かんせん なく)蜩(ひぐらし)が鳴き始める」。ひぐらしは早朝や夕方に鳴くことが多く、鳴き声は行く夏を惜しんでいるかのよう。8月18日から8月22日の間は「蒙霧升降(もうむ しょうごう)深い霧が立ち込める」。朝や夕暮のひんやりとした立ちこめる霧(春は霞、秋は霧)により、空気も涼しくなり夏の終わりを感じる。早朝の森や水辺では白く深い霧がたちこめ幻想的な風景は視界が遮られるほど。前日に雨が降り空気が湿り気を含んでいるときに多く発生する。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

会報誌「笑楽日塾だより」シニアの風㉑

シニアの風も今回で21回目の投稿、31編目になりました。シニアの風には笑楽日塾塾生が硬軟様々な思いを書かれており、それぞれの多彩なお話しに敬服しっぱなし。

今回は笑楽日塾も支援している持続可能な開発目標(SDGs)を、古典落語にも登場する江戸時代のリサイクルに絡めて紹介しています。

なお、この記事は笑楽日塾だより2021年4月号にコラムとして載ったものです。当時の時代背景をご考慮のうえお読みください。(塾生全員が持ち回りで書いています)。

 

「落語に学ぶ江戸時代のリサイクル」

古典落語の中には今でも多くの噺家さんが演じる「らくだ」や、五代目古今亭志ん生が得意とした「井戸の茶碗」など、屑屋さんが重要な役割を担って登場するものがあります。

「らくだ」には人の良い屑屋の久六さん、「井戸の茶碗」では、屑屋で正直者の清兵衛さんが良い味を出しています。何れの噺も屑屋さんは町内の事情に詳しく、周囲の人たちに信頼されていたことがよく分かります。

江戸の町では紙屑や金物屑、生ごみから落ち葉に至るまで様々な屑が拾い集められ、分別した後に専門業者が引き取って再生・再利用していたとのこと。おかげで江戸はごみの落ちていないきれいな町だったそうです。

紙屑を例にとると、集められた後に浅草寺近くの紙漉町で漉き返し、浅草紙と呼ばれる再生紙として江戸の名産品になった。世界的に見ても紙のリサイクルを最初に始めたのは日本人と言われ、その歴史は平安時代からという説もある。江戸時代になってその伝統の花が開いたものか。

上方落語には桂春団治お家芸とした大変楽しい噺で「いかけ屋」があります。いかけ屋とは、道端に店を出して壊れた鍋や釜などを修理する業者のことで、江戸時代から昭和初期まで商売として成り立っていました。いかけ屋さんがある町内の道ばたで店を出したところ、近所の悪ガキどもが遊びに来てしまい大混乱。子供たちとのやりとりや子供たちの仕掛ける悪戯が大変面白いのですが、いかけ屋さんは商売にならず可哀そう。昔の人は壊れた(穴の開いた)鍋や釜なども修理しながら大切に使っていたことが分かります。

江戸の町では正にリサイクル・リユースを実行しており、今を生きる私達も「物を大切に使う」という伝統を絶やさないように努力したいもの。粘り強く持続可能な行動が重要です。

以上

江戸時代の人々は物を大切にする「もったいない」精神から、使い終わったものでも屑として捨てることなく、再生できるものは徹底して何回も再利用・再資源化して使っていたようです。

 

ここからは二十四節気と七十二候です。

8月8日から8月22日の間は二十四節季の一つで「立秋」。初めて秋の気配が現れてくる頃とされる。立秋から立冬(11月8日)の前日までが秋となる。季節の挨拶も暑中見舞いから残暑見舞いに替わり、期間は白露(9月8日)の前日まで。盆踊り、送り火、灯籠流しなどに家族が集まり、先祖と命を思う。

七十二候も8月8日から8月12日の間は「涼風至(りょうふう いたる)涼しい風が立ち始める」。日照時間は少しずつ短くなり日差しは和らいでくる。日影が長くなり、吹く風は秋を感じるようになる。夕方には虫が鳴きはじめ、涼しさを感じさせてくれます。8月13日から8月17日の間は「寒蝉鳴(かんせん なく)蜩(ひぐらし)が鳴き始める」。ひぐらしは早朝や夕方に鳴くことが多く、鳴き声は行く夏を惜しんでいるかのよう。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

会報誌「笑楽日塾だより」シニアの風⑳

シニアの風も今回で20回目の投稿、30編目になりました。シニアの風には笑楽日塾塾生が硬軟様々な思いを書かれており、それぞれの多彩なお話しに敬服しっぱなし。

今回は蕨市内の町内会で会長を経験された塾生が、ご自身の体験をもとに「ご近所の付き合いが大切だ」との思いを紹介してくださいました。

なお、この記事は笑楽日塾だより2021年6月号にコラムとして載ったものです。当時の時代背景をご考慮のうえお読みください。(塾生全員が持ち回りで書いています)。

 

「向こう三軒両隣」「遠くの親戚よりも近くの他人」

昭和22年から28年に、NHKにて「向こう三軒両隣」というホームドラマが放送されていました。喜怒哀楽を交えた明るい番組が当時の視聴者に好評だったと聞いております。

現在ではこのような言葉(慣用句)が当てはまる地域、地区は都心に近づくほど少ないのではないかと思います。ところが、姉(81歳)の住む地方の町に様子を見に行くと、「向こう三軒両隣」という言葉を強く感じさせられました。

近所の方に限らず誰かが毎日顔を出し、気軽に声かけし、一休みしていきます。

また、野菜や果物が朝早く玄関前に置かれていることもありますが、姉には「誰だれさんからの頂きものだ」とすぐにわかるようです。姉(義兄逝去)が転居して42年、姉夫婦はその地を第二の故郷と申しており近所の方々との親交が、いかに深いものであるのかを行く度に感じております。

昭和17年、蕨町で誕生した私は、小学生の頃から「向こう三軒両隣」の大人たちに良く声をかけられたものです。また、母親は近所の主婦仲間と息抜きのお茶付き合いをしていたことも度々ありました。そのような光景が脳裏を掠め、姉の日常と重なることで、誰かに見守られているように感じ、何か安心した気持ちにさせられます。

これを思うと「遠くの親戚よりも近くの他人」まさにこの言葉通り近所の方々の声掛けに感謝し頭が下がる思いです。

経済・文化の発展とともに住環境は大きな変化をもたらし、隣近所の方たちと顔を会わすことも少なくなった今の社会、姉を思う度に慣例となっているこの言葉が脳裏を掠め、「近くの他人」という存在のありがたみを思い出させてくれます。

災害時の住人安否確認が話題にのぼるたび、普段から当たり前の挨拶や声掛けに注意せねばと強く思います。

式亭三馬作の滑稽本浮世風呂」(1810年前後)にもこんな言葉があるようです。「向こう三軒両隣の付き合いをしらねへとんちきだ」

200年も前の作者に叱られないよう、自分を振り返って見直すことも大切だと反省させられます。

     以上

 

今回ご紹介した塾生は最近まで町内会の会長を務められ、退任した今でも町内会の活動に精を出されています。行政と住民のパイプ役や、町内の防犯、防災、親睦、福祉、情報伝達などを行うのも大切な役割。これ等全てををこなすのは大変なことだと思います。コロナ禍後の今年は7月21日と22日に町内の公園で盆踊りが行われ、前日(19日)には櫓の組み立て、終わった翌日(23日)は猛暑の中での解体作業。ご自分が生まれ育った町に恩返しとはいえ、大活躍に頭が下がる思いです。

 

ここからは二十四節気と七十二候です。

7月23日から8月7日の間は二十四節季の一つの「大暑」。快晴続きで気温が上がり、夏の暑さが極まる頃。立秋の前日(今年は8月7日)までが暑中で、暑中見舞いはこの時期に送る。全国的にお祭りや花火大会もこの時期に多く、夏の風物詩が目白押し。8月8日から8月22日の間は初めて秋の気配が現れてくる頃とされる「立秋」に変わります。

七十二候も8月2日から8月7日の間は「大雨時行(たいう ときに ゆく(ときどき おこなう))時として大雨が降る」。台風の発生や暑い日の夕立で激しい集中豪雨が降る頃。入道雲が湧くと夕立の前触れで、雲の頭が入道の頭に見えることから付いた名前。8月8日から12日の間は涼風至(りょうふう いたる)涼しい風が立ち始める」。日照時間は少しずつ短くなり日差しは和らいでくる。日影が長くなり、吹く風は秋を感じるようになる。夕方には虫が鳴きはじめ、涼しさを感じさせてくれます。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

祝・蕨駅開業130周年!「わらてつまつり」

7月16日(日)、笑楽日塾が活動する埼玉県蕨市蕨駅が開業130周年を迎え、15日と16日の2日間「わらてつまつり実行委員会」が主催する「わらてつまつり(蕨の鉄道祭)」が開催されました。

日本初の私鉄「日本鉄道」が東京の上野と埼玉県の熊谷間に開通したのは1883年(明治16年)7月28日のこと。現在の路線名はJR高崎線(厳密には上野~大宮間は東北本線)です。

蕨駅は鉄道開通の10年後、1893年明治26年)7月16日に誕生し、蕨の発展に大きく貢献してきた歴史のある駅です。2013年には蕨駅開業120周年記念行事が行われ、「この歴史を受け継ぐ新しい祭りを始めよう」と決意。地元の町会など市民の方々が実行委員会を立ち上げ、翌年の2014年に「第1回わらてつまつり」が開催されました。

蕨駅開業120周年を記念して始まった「わらてつまつり」は、コロナ禍の3年間は中止になったものの、今年は4年ぶりに復活。開業記念日の7月16日(日)とその前日15日(土)の2日間行われ、130周年を盛大に盛り上げました。開催時間は両日ともに10時~16時。会場は駅前の「蕨市立文化ホールくるる」とその周辺。駅も階段にラッピングをして盛り上げています。

初日午前のオープニングセレモニーでは実行委員会会長、蕨市長、蕨駅長が挨拶された後に、こども駅長による上越新幹線北陸新幹線を走る「E7系ミニ新幹線の出発式。ミニ新幹線試乗会は大勢の親子連れなどに大人気。ちびっこ乗客はレール横からの写真撮影に笑顔で手を振りながら楽しんでいました。

レトロ感満載の「線路保守用車両体験乗車」はトロッコ列車がちびっこ達に楽しそう。祭には絶対に欠かせない模擬店や屋台村も充実。熱中症対策のミストも設置して準備は万全。

文化ホール「くるる」の中では、親子で仲良く紙を切ったり糊付けしたりのペーパークラフト「親子紙電車模型教室」にお父さんとお母さんが奮闘し、「伸びる電車工作」は完成した車両が伸び縮みしてアイデアが楽しい。幼い子には「プラレールコーナー」があり、自宅よりも広いスペースで友達と遊べるのが嬉しそう。子供から大人まで楽しめる「Nゲージ展示運転会」では、主催者側が用意した車両の他に自分で持ち込んだものも走らせることもできる。駅長の制帽・制服に身を包んだ「こども駅長制服撮影会」は、みんな凛々しく見えるから不思議。鉄ちゃん垂涎の「鉄道グッズ販売」には大勢の鉄道ファンが訪れ、毎回大混雑の人気イベント。他にも電車好きの子どもから大人まで楽しめるコンテンツが沢山そろっていますので、また来年の開催を楽しみにしています。

この「わらてつまつり」には、地域活動の一環として笑楽日塾の塾生6名が実行委員やスタッフとして頑張っています。塾生の皆さんは人生経験が豊富で、来場された方々に手際よく適切に対応されていました。コロナ禍後の人手不足はマスコミで盛んに取り上げていますが、飲食業界等に限らず様々なイベントでもスタッフを集めるのに苦労されていると聞きます。現役をリタイアされた方が、不足しているところを少しでもカバー出来たら良いですね。

以上、笑楽日塾の塾生も貢献している「わらてつまつり」についてご紹介しました。

 

ここからは二十四節気と七十二候です。

7月23日から8月7日の間は二十四節季の一つで「大暑」。快晴続きで気温が上がり、夏の暑さが極まる頃。立秋の前日までが暑中で、暑中見舞いはこの時期に送る。夏の土用は平賀源内が発案した土用の丑の日(今年の夏土用は7月20日~8月7日で、丑の日は7月30日)に鰻を食べる。また、夏土用の丑の日には夏バテ防止に「うなぎ」「うどん」「うり」「梅干し」など、「う」のつくものを食べるのは暑気払いに欠かせない習慣だ。全国的にお祭りや花火大会もこの時期に多く、夏の風物詩が目白押し。

七十二候も7月23日から7月27日の間は「桐始結花(きり はじめて はなをむすぶ)桐の実が生り始める」。桐は高貴な色とされる紫色の花を咲かせるため、皇室の紋章や武家の家紋に使われる他、500円玉硬貨にも描かれている。7月28日から8月1日の間は「土潤溽暑(つち うるおいて あつし)土が湿って蒸暑くなる」。梅雨明けの猛暑が続き熱気が肌にまとわりつく。コンクリートの道路は陽炎がゆらゆら揺れ、蒸し暑さが厳しくなるため打ち水などに涼を求める。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

オンライン塾会(防災訓練) 

7月13日(木)、笑楽日塾定例のZOOMを使ったオンライン塾会が開催され、今回は塾生の1人が住むマンションで行われた防災訓練について紹介されました。防災対策委員として防災訓練に係わり、準備段階から訓練当日までの活動内容について報告されたものですが、蕨市に特化したものもありますのでご了承ください。

まず、防災対策委員会として決めることは ①訓練の日時 ②どんな訓練を行うか ③消防署との打ち合わせ ④当日のタイムテーブル作成 ⑤当日の配置人員決め ⑥当日使用する用具や備品の準備、などがあります。

今年の訓練で消防署から借りたものは「水消火器20本+的2個」「訓練用AEDを2セット」、市役所からは「煙ハウス一式」でした。防災訓練を行うことが決まったら実施日を早く決め、他から借りて使用する用具を確保しておくことが大事。万全な計画を立てても借り使用する物に先約が入っていたら元の木阿弥になります。

消防署に防災訓練を実施する旨を伝え「消防訓練通知書」「管理者選任(解約)届出書」「消防計画作成(変更)届出書」を提出します。消防署からは訓練用AEDを借りて心肺蘇生訓練を行うのですが、その場合蕨では消防隊員の立会いが必要です。用具を送って訓練を受けた方に任せるところもあるようですが、日本一小さな市(コンパクトシティ蕨)だから隊員の方と一緒にになって訓練が出来ます。これは消防隊員から丁寧に指導していただけるうえ、質問にも分かり易く答えていただけるので大変ありがたい。

今回の訓練は次の8項目を行いました「安否確認訓練:場所は全戸の玄関ドア」 「避難訓練:ご自宅から敷地内の広場(消防訓練に必須)」 「通報訓練:敷地内の広場」 「初期消火訓練:敷地内の広場(消防訓練に必須)」 「煙ハウス体験訓練:敷地内の広場」 「心肺蘇生・AED訓練:管理棟内集会所(消防訓練に必須)」 「緊急時の水対策」 「非常食の配布」。

8項目の中から一般的にはあまりなじみのないと思われる「煙ハウス体験訓練」を取り上げてみます。市役所で所有している「煙ハウス」を借りてきました(写真は煙ハウスの入口側をアップで写したものと出口側です)。ハウス内を煙で充満させて周りが見えない状況を作り、6メートルくらいの距離を通過する訓練です。高齢者の方が怪我をしても困るので、消防隊員も中に入り手をたたきながら音で誘導していました。

煙ハウスは消防署からお借りしたものではなかったのですが、最初に消防隊員から火災で煙が充満した中での危険性や避難方法について説明していただきました。「火災現場での煙は高い所に集まりやすいので体を低くして逃げる。煙が酷い場合は一呼吸しただけで倒れてしまうことがある。ハンカチやタオルで口を覆って呼吸してもほとんど効果はない。ハンカチやタオルを水で濡らしても同様だ。」ということでした。なお、ハウス内に充満させた煙の成分は水蒸気のようなもので、人間には無害なものだそうです。

 

ここからは二十四節気と七十二候です。

7月7日から7月22日の間は二十四節季の一つ「小暑」で、暑さも本格的になる。梅雨明けが近付き、蝉が鳴き始め、暑中見舞いを出す頃。小暑の終わりごろに夏の土用に入る(今年の夏土用は7月20日~8月7日で、丑の日は7月30日。夏土用の丑の日には夏バテ防止に「うなぎ」「うどん」「うり」「梅干し」など、「う」のつくものを食べる。)7月23日から8月7日の間は「大暑」に変わり、全国的にお祭りや花火大会もこの時期に多く行われ、夏の風物詩が目白押し。

七十二候も7月18日から7月22日の間は「鷹乃学習(たか すなわち がくしゅうす)鷹の幼鳥が飛ぶことを覚える」。5月~6月に孵化した鷹の雛が飛び方や、餌の取り方を学習して巣立ちの準備を始める頃。7月23日から7月27日の間は「桐始結花(きり はじめて はなをむすぶ)桐の実が生り始める」。桐は高貴な色とされる紫色の花を咲かせるため、皇室の紋章や武家の家紋に使われ、500円玉硬貨にも描かれている。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

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