笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

ある日車OBの鉄道ボランティア活動記録 ≪第2話≫

2023年5月6日BSフジテレビ放送 「鉄道伝説」マレーシアで復活したブルートレイン物語

「鉄道伝説 マラヤン・タイガー・トレイン~海外で甦ったブルートレイン14系客車~」

マレーシアのブルートレイン「マラヤン・タイガートレイン」。実はこの車両は、以前日本の国鉄で作られた、14系客車である。かつて、人気のブルートレインとして日本で活躍をしていたが、ブルートレインとしては平成20年頃に引退。国内では使い道が無くなっていたが、遠くマレーシアの地で第二の人生を走り始めていたのだ。

この車両譲渡のプロジェクトが動き出したのは平成21年。だが、その過程は一筋縄では行かない、苦労の連続であった。

一時は座礁しかけたプロジェクトだったが、たまたま関わることになった一人の日本人の献身的な奮闘と努力によって、14系客車は無事にマレーシアの地で再び線路の上を走り始めることになった。

ブルートレインの引退】

平成21(2009)年3月15日。寝台特急「富士」と「はやぶさ」のラストランで、東京駅は鉄道ファンの熱気に包まれていた。ブルートレインの愛称で親しまれた、東京と九州を結ぶ長距離寝台特急がこの日で引退を迎えたのである。

ブルートレインは昭和50年代にブームを巻き起こし、東京と九州の間を中心に東北線北陸線、山陰線などでも数多くの列車が運行された。

だがその後、自動車や航空機にシェアを奪われて次第にその数を減らしていた。

そのブルートレインに使われていた代表的な車両が14系客車である。客車の電源を電源車からではなく、床下のディーゼル発電機でまかなう「分散電源方式」を国鉄の特急用客車として初めて採用したため編成の自由度が高く、分割併合を行う寝台特急で活躍した。

だが14系客車は、客車列車自体が減ったこともあってブルートレインがなくなった後は行き場を失い、そのほとんどが廃車となった。

だが、まだ十分使用できる車両も多く、一部の車両は、海を越えて第二の人生を歩むこととなった。その頃、東南アジアのマレーシアでも、旅客需要が増加しつつある一方、現有車両の老朽化が進み、有効車両が不足していた。

そして平成21(2009)年、この車両不足を解消するために、マレーシア運輸省から日本政府に対して中古車両譲渡の要請がなされたのだ。

この要請を受けて日本側では、JR西日本JR九州から、ブルートレインなどで使われていた14系客車を無償で譲渡することを決定。

早速、翌年にマレーシアに向けて14系客車など14両が輸出されることとなり、平成22(2010)年12月10日に、14系客車がマレーシアに到着した。

【マレーシア鉄道への14系客車譲渡】

マレーシアに14系客車が到着してしばらく経った、平成23(2011)年1月。鉄道車両メーカー・日本車両製造OBの荒井貞夫のもとに、国土交通省から一本の電話があった。

「マレーシアで客車の走行試験があるので、それに立ち会ってもらえないだろうか」その話は荒井にとって、まさに「青天の霹靂」であった。

【荒井さんインタビュー】

「私は客車のことなんて全く詳しくないのに、どうして自分なのか、本当に驚いた」荒井は車両メーカーの社員ではあったが客車の専門家ではなかった。ただ、合計12年半インドネシアに赴任していたのでインドネシア語に長けていた。マレー語とインドネシア語はほとんど同じなので、荒井の語学力を見込んでの依頼だったのだ。

しかし、この時点では、どんな客車の試運転かすらわからなかったが、2月に霞が関で行われた関係者のミーティングでようやく概要がわかってきた。

前年にマレーシアに渡った中古の14系客車について、現地でセミナーを行って欲しい、というのが国土交通省からの依頼内容だった。

【荒井さんインタビュー】

「客車の専門家ではない私のところに来るくらいだから、そんなに難しい話は必要ないんだろうと思ったんですよ。だから慌ててJRで客車のメンテナンス指導をやっていた方を紹介してもらって一生懸命勉強して、それで私がマレーシアでセミナーを行うことになったんです」荒井は軽い気持ちでこの依頼を引き受けて、平成23(2011)年5月、単身でマレーシアへと渡り、クアラルンプールから200㎞離れたBatu Gajaにある鉄道研修所でセミナーを開催。朝から夕方まで車両構造とメンテナンスに関する講義を行った。

全ての講義が終了し、荒井が席を離れようとした、その時だった。

「帰ってもらっては困る」「俺たちは図面と取扱説明書はもらっているが、さっぱり理解できない。電源車を使わないで、自車で発電してエアコンやコンプレッサーを動かすなんて全く経験がない。トイレも循環式という電気で動かす方式は初めてだ」セミナーの参加者たちは口々にこういって、荒井に泣きついたのだ。

翌日の夜の便で帰国予定だった荒井も、この訴えにはすっかり困り果ててしまった。

そのころマレーシアで使われていた客車は、電源車からの電源で客車の照明などが賄われる、いわゆる「集中電源方式」の客車しかなかった。

だが、日本の14系客車は客車にも電源を備えた「分散電源方式」だったため、集中電源方式の客車しか使ったことがないマレーシアの鉄道マンたちにとって全く未知の車両だった。

そのため、たった一日のセミナーで扱えるような状況ではなく、このままでは全く手に負えないことが明らかになったのだった。

そんな状況で、このまま荒井が予定通りに帰国してしまっては、彼らだけで客車を動かすことはできない。

マレーシア政府の要請にこたえて日本から14系客車を譲渡したものの、このままではせっかくの車両も野ざらしとなって、鉄くずになってしまうだけだ。

この状況に気がついている日本人は、いまここにいる荒井のみだった。

とはいえ、客車の専門家でもない自分に一体何が出来るのだろうか。

荒井は悩みに悩んだ末、大きな決断を下した。

「ここは自分が何とかするしかない」

荒井は急きょ帰国を延期して、クアラルンプールの日本大使館へ駆け込み、現在の窮状を直訴した。

「このままでは客車14両はごみになってしまう。これを解決するには日本へ研修生を送って、客車の操作、メンテナンスを教え込まないといけない。なんとか大使館から国土交通省へ依頼して、滞在費と旅費を工面して欲しい」この時対応した矢島一等書記官は、荒井の訴えに驚きながらも真摯に対応。迅速に日本の国土交通省に連絡を取って対応を検討。

そして数日後にはマレーシア鉄道の職員を日本に派遣し研修を受けてもらうことが決まったのである。

14系客車の操作やメンテナンスの研修をするには、実際に14系客車を運用しているところで行うのが望ましい。ところが、すでに日本ではブルートレインがなくなり、14系客車で運用している列車はほとんど無くなっていたため、受け入れ先探しが難航する。

せっかくここまで話が進んだのに、客車14両はやはりこのまま鉄くずとなってしまうのだろうか……

そう思いかけた矢先、あるところが受け入れ先として急浮上してくる。それがJR北海道だった。その当時JR北海道では、札幌〜青森間で急行「はまなす」を14系客車で運行していたのだ。荒井は国土交通省経由でJR北海道に研修受け入れを依頼、なんとか許可を出してもらった。荒井は研修カリキュラムを作り、ついにJR北海道での3週間の研修が決定する。

そうした研修の手配の一方で、荒井は改造工事の指導にもあたることとなり、7月に再びマレーシアへとわたる。

日本から持ってきた14系客車は、そのままマレーシアで運転できるわけではない。日本とマレーシアでは、レールの幅=軌間が異なるためである。

日本のJR在来線は軌間が1067mmだが、マレーシアでは1000mm。そのため、左右の車輪の巾を67mm狭めなくてはならない。それに伴い、ブレーキ等の位置も変える必要がある。

それ以前に、放置されていた客車は赤錆が浮いている状態で、まず外装工事からはじめて、台車の改造に取りかかった。

【マレーシアからの研修生】

平成23(2011)年8月6日。早くもマレーシアからの研修生8名が研修のために来日。

荒井がマレーシアでセミナーを行ってから、まだ3ヶ月も経っていないという、異例の早さでの実現だった。

成田空港に到着した研修生8名は、上野から寝台特急北斗星」に乗車して、一路北海道へ移動。これは、日本の客車列車の素晴らしさを体感してもらおうという、日本側の粋な計らいであった。翌日、北海道に到着した研修生たちは早速、実際の14系客車を用いての研修に入ることになった。

これまでのマレー鉄道公社(KTMB)で使われていた客車は電源車から電気の供給を受けるタイプの車両だった。一方、14系客車は電源車を必要とせず、発電機を搭載している。その電気を使って、照明や空調設備、トイレなどを稼動。さらには電気でコンプレッサーを回し、空気バネやドアエンジンなどに圧縮空気を送っている。

電源制御盤、空調制御盤、トイレ制御盤など多くのスイッチ、さらにはブレーカーやリレーなど、これらの操作方法をわずか3週間で学ばねばならないのだ。

また、日常のメンテナンス方法や始業前・終業後の検査方法、毎月の検査、3か月毎の検査、緊急時の対応など研修生たちが学ばなくてはならないことは山のようにあった。

それを必死で学ぼうとする研修生たちに、日本の技術者たちは経験に裏打ちされた技術を惜しげもなく一つ一つ伝授していった。

昼間は実際の車両を使って実技で学び、夕方からは座学で復習するという、手厚い体制で研修は行われた。

研修の中で荒井が最も重要視したのが、長い間(約30か月間)一度も動かさなかったエンジンや発電機を再起動する際の手順と注意事項であった。

いきなりエンジンのスターターのスイッチを入れると、油切れの状態のピストンが焼き付いてしまい、使用不能になってしまうのだ。

床下に潜って、6気筒エンジンのピストンに手でたっぷりと潤滑油をかけてやり、油が十分に馴染んでから、エンジンのスターターを起動しなくてはならない。

その他にも循環式トイレの汚水抜き取り作業、電気連結器(ジャンパーカプラー)の手入れ方法など、細かい手順についても研修が重ねられていった。

おりしも、この8月はイスラム教のラマダン=断食月(=8月1日から29日まで)にあたっていた、それでもマレーシアの研修生は断食に耐えながら、祖国のためにと札幌で毎日毎晩研修を受け続けた。

【車両試験】

マレー鉄道の職員たちが日本で受ける研修と平行して、マレーシアでは車両の改造作業が進められていた。そして9月になり、最初に完成した4両が工場から運び出される。

この車両を使って、日本での研修を終えて帰国した研修生8名が、早速日本で学んだ技術をマレーシアで確認。

荒井も見守る中、マニュアルを確認して一つずつ手順を確認しながらエンジンを始動。エンジンはうなりをあげて回り出し、照明も作動。2年半ぶりの始動を無事に成功させることが出来た。

その後、不具合の調整作業や各種の試験が実施された後、実際に走行させて乗り心地や各種の性能を確認する試験運転が実施されることとなった。

試運転は10/6から10/12にかけて行われ、現地のマレー鉄道公社のスタッフと、荒井が乗り込んで1730kmを走行。最高速度を日本より低めの時速105kmに設定した高速走行試験や、ブレーキ停止試験などが念入りに実施され、安全性を確認。

また、騒音や乗り心地も日本時代と全く遜色ない、心地よいものであった。

14系客車は車体幅が2900㎜あり、マレー鉄道の従来の客車よりも100㎜以上広い。そのため駅に入るときにはプラットホームに車体がこすられるのではないかという懸念があったため、慎重に目視しながら、ゆっくりと入線。車体とプラットホームとの間がおよそ50mmしかなかったため、その場で煉瓦製のプラットホームを100㎜削るように指示が出された。

荒井たちはこの試験運転の間、ずっと列車で寝起きした。

日本のように、駅近くにコンビニや駅の売店、駅弁などはマレーシアにはないため、時々長時間停車する時に駅前のレストランで食事をとるのだが、停車時間が短い時には屋台の食事を買って食べるしかなかった。

マレーシアならではの大変さもあったものの、試運転も無事に完了。準備の作業が一通り終了し、いよいよ実際の運用に臨むこととなった。

【マレーシアで第二の人生始動】

平成23(2011)年10月25日、タイとの国境に近いワカバル駅で、14系客車のプレ開業式(試乗会)が行われることとなった。

マレー鉄道社長、政府観光省、地元クランタン州のVIPが出席した席上で、この列車は「マラヤン・タイガー・トレイン」(マレーの虎)と命名された。

こうして、見た目もすっかり生まれ変わった14系客車は、12月19日から正式に営業運転を開始。 開業式にはマレーシアの運輸大臣や日本のマレーシア全権大使も出席するなど、生まれ変わった14系客車、マラヤン・タイガー・トレインの門出が華々しく祝われた。

ついに日本のブルートレインが、海を渡った異国の地で第二の人生を走り始めたのである。

マラヤン・タイガー・トレインの車内は、内装があらたに施されてきれいになったものの、寝台などは日本で走っていた時とほぼ同じままであった。

初便の運行でも大きなトラブルもなく終点まで運行されて、

乗車した人々は「振動や騒音も少なく乗り心地は大変良い」「まるでホテルのようだ」と口々に絶賛。

【荒井さんインタビュー】

「思えば1月19日の一本の電話から始まったプロジェクトですが、その時点では、このような大きな注目を浴びるプロジェクトになろうとは想像つきませんでした。

私は多くの人に教わりながら、手探りでプロジェクトに取り組んできました。」

昭和50年代に、日本で大人気だったブルートレイン。ブームが去った後、一部の車両は海外で第二の人生を歩み始めることとなり、マレーシアの地にも14系客車が渡ることとなった。

だが、日本からマレーシアに渡ったのは、車両だけではない。荒井たち日本の鉄道マンは、長年培った技術と、鉄道にかける熱い情熱をマレーシアへと伝えた。

そしてマレーシアの鉄道マンは、見事にそれにこたえてみせた。その証がマラヤン・タイガー・トレインなのである。

14系客車がマレーシアで再び引退しても、日本から伝えた技術と情熱は失われることはなく、これからもマレーシアの鉄道を支え続けていくだろう。

鉄道を愛する人々の、飽くなき努力と英知によって生み出された伝説は、永遠に輝き続ける。

【シナリオ原稿・監修】  荒井貞夫

【映像写真協力】 荒井貞夫

【演出】 野田真外

 

次回の第3話は2019年10月14日に、蕨工場の跡地正面に「新幹線電車発祥の地・記念碑建立」の物語です。

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに載せていますので是非ご参照ください。

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