笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

十牛図(後編)

前回に続き塾生の作品「十牛図」の後半5点を紹介します。このような素晴らしい作品を見ると絵心が全くない私にはうらやましい限り。邪心を払い心穏やかに至福のひと時を過ごし、悟りを開けたら最高だと思います。

 

第6段階 騎牛帰家(きぎゅうきか)牛に乗って家に帰る

十牛図」も後半に入ります。牛を飼いならした旅人が、その牛に乗って家に帰る「騎牛帰家(きぎゅうきか)」の場面です。旅人は、見つけた牛(目標)を何とかつかまえ、飼いならしていくうちに、牛と自分がぴったりと、ひとつのものになっていることに気づきました。「十牛図」は、突然、ある人が牛を探して旅に出たところからはじまりました。その旅も今回で終わりです。自分たちの本来いた場所に、戻っていくのです。旅人は、なぜ楽しそうに歌を歌ったり、笛を吹いたりしながら、のんびりと家に帰って行くのでしようか。「十牛図」の説くところには、旅人も牛も、もともと同じもので、やっとの思いで牛をつかまえ、手なずけても、「元に戻った」にすぎないのです。

第7段階 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)あるがままに生きる:牛のことを忘れる

牛にまたがって、私はわが家にたどり着きました。私は穏やかで、牛も休むことができます。夜明けが、至福の休息のうちに訪れ、私の草屋の中で、私は鞭も手綱も捨ててしまった。牧人はとうとう家に帰り着き、牛を小屋に入れて庭でくつろいでいます。牛が消えたことで、最後に残った煩悩やエゴがなくなるという境地を表しています。

第8段階 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)空白になる

今回の「十牛図」には、何も描かれていません。第1図からずつと描かれてきた旅人の姿も見えません。まさに「空(くう)」です。自分の都合も、立場も知識も、経験も、すべて空っぽになった状態です。旅人は、自分のやるべきことは何か、幸せとは何かを探していました。「さとり」とは、その答えが自分のなかにすでにあつたと気づくことです。

第9段階 返本還源(へんぼんかんげん/へんぼんげんげん)本源に還る

この絵には、牛も牧人もいなくなった絵で、只々美しい自然が描かれています。でも、この絵は単なる風景を描いたものでしようか?この絵の大自然の「教え」は、「特別な人になれ」とは教えていないのかと思います。風が吹けば花びらは散ります。でも、だからといつて本が枯れるわけではありません。花にこだわるより、根をしっかり張ることのほうが大切なのだとも教えています。

第10段階 入鄽垂手(にってんすいしゆ)町に出て生活する

入鄽垂手―悟りは開いたとしても自分ひとりで、そこに止まっていては無益です。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要があります。図に描かれている布袋(ほてい)さんは、牛を探していた、かつての旅人です。日標を見つけ、見失っていた自分を取りもどした旅人は、町に行って人々と交わります。身なりにこだわらず、威厳(いげん)もありません。仏教で禁じられているお酒も飲むし、魚も食べます。そうして、出会った人の考えや行いに影響を与えていきます。そして、それは同時に自分自身の成長にもつながっていくのです。その人は胸をあらわにし、はだしになって町に入ってきました。土にまみれ、泥をかぶりながらその顔は笑いに満ちています。仙人が持っているという不思議な力があるわけでもありません。ただ、枯れ木に花を咲かせるように、人々を救っていくだけです。

「まとめ」

十牛図」とは、人が悟りの境地に至るまでの段階を10枚の絵で表したものでした。全員が最終的な悟りの境地にまでは至るわけではありませんが、これらのプロセスを知ることは、私たち一人ひとりが内的成熟を進めていく上でとても参考になるものと考えます。

また、このプロセスを歩んでいくことは、自分自身が成熟していく道のりでもあり、自分自身を解放していく道でもあります。このプロセスを進めていくには長い年月がかかり、また良き師との出会いも必要になってくるでしょう。長い道のりですが、「ありのままの自分」で塾生の皆さん、一歩ずつ歩んでいきましよう。  ~完~

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

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