笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

十牛図(前編)

設立以来毎年度末に発行している記念誌「笑楽日塾』もついに第6号になり3月6日(木)の塾会で配布されました。内容は「塾長の挨拶」から始まり、今回の主体で当ブログでもご紹介している「シニアの風」、最後は編集担当者による「編集後記」。その編集担当者の作品で挿絵(水墨画)の「十牛図」が編集後記に載っていましたので、今回と次回の2回に分けて紹介します。

先ずは塾長挨拶です。

記念誌「笑楽日塾」の編集担当者から2023年10月頃、記念誌6号発行の相談を受けて、「塾生の皆さんがこれまで寄せて下さった貴重な経験談が創刊号(平成31年4月)から第5号まで沢山載っている。第6号では塾生がその時々の思いや体験を綴った「シニアの風」を主体にして、そのほか塾生からの自主的な投稿を載せましょう」と提案がありました。どうしてそのような提案をしたのか、それは書き物に素人の私自身を振り返っても普段書き慣れていない事を苦手な文章に仕上げるにはかなりのエネルギーが必要で、それは私だけでなく塾生の皆様も似たようなことかなと勝手に解釈し、塾生の負担を軽くしたいと考えたからです。少し言い訳がましい話になってしまいました。

十牛図

十牛図は、悟りにいたる10の段階を10枚の図と詩で表したもので「真の自己」が牛の姿で表されているため十牛図と言います。真の自己を求める自己は牧人の姿で表されていて、十牛禅図や牧牛図とも言います。作者は、中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧。廓庵(かくあん)です。

第1段階 尋牛(じんぎゅう)牛を尋ね探す

自分とは何か。なぜ自分は存在し、生まれて、生きて、死んでいかなければならないのか。自分探しの旅に出ましたが、まださがしているものが分らず、手探りの状態です。(人には仏性が本来備わっているが、人はそれを忘れ、分別の世界に陥って仏性から遠ざかる)

第2段階 見跡(けんぜき/けんせき)牛の足跡をみつける

歩きまわって疲れが限界にきていた旅人は、自力で牛を探すことをやめました。そこでお経を読み、いろいろな人から教えをうけて牛のゆくえを追いました。そのたびに、いったい、誰の言うことが正しいのか、何を信じればいいのか分からなくなってきました。なぜなら、お経に書かれたり教えられたりした牛は、自分の牛ではないからです。

第3段階 見牛(けんざゅう)牛を見つける

ようやく牛を見つけました。しかし、牛はその姿の一部しか現れていません。向かいあう旅人と牛。そこには、まだ少しの距離があります。つかまえようとすれば、牛は逃げてしまうかもしれません。牛は、「こうなりたい」という自分自身の姿です。自分の本来持っている感覚や日々の行いなど、決して特別なものではない、というのが「十牛図」の教えです。

第4段階 得牛(とくぎゅう)牛を捕まえる

旅人は、牛を探し、足あとを見つけ、牛の姿を見ることができました。牛は自分の心です。旅人は、牛に縄をかけてつかまえました。でも安心はできません。油断をすれば、牛に引っ張られてケガをするし、見失ったり、道に迷ってしまいます。旅人が牛(自分の心)をおとなしくできるのか、それとも牛に引きずられてしまうのか。お互いを結ぶものは、一本の縄だけです。その牛は、長いこと野外の草むらにかくれていて気づかなかったですが、今になってようやく会うことができました。

第5段階 牧牛(ぼくぎゅう)牛を飼いならす

牧牛とは、「牛を飼いならす」という意味です。牛とは、自分自身のことでした。自分にとっての幸せや、こうなりたいという目標をあらわしています。厳しい修行の結果、妄想を絶ち切り、煩悩を脱して、ようやく飼いならすことができました。しかし、一度捕まえたからといって「悟った!」と油断してはなりません。飼いならし続けるには、常に鞭を打って戒めなければなりません。ひたすら心牛のことだけを想い、十分に飼いならした結果、牛の方から自分のところに近づいてきました。つまり、自分自身を飼いならすとは、自分のことを本当に知る、自分の知らない自分に気づく、ということです。

次回は十牛図の後半をお送りします。

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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