笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

初めてお読みになられる方へ

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笑楽日塾とは 埼玉県南部に位置し、全国の市の中で最も面積が狭く、人口密度は全国の市町村で最も高い蕨市で活動する『就労からリタイアした、又はリタイア間近な男の集団』です。

タイトルは『笑楽日塾の事件簿』などと大層な名前を付けましたが、殺人事件は起きませんし名探偵も登場しません。埼玉県と蕨市を愛してやまない管理人が笑楽日塾の活動を前後の脈絡なく淡々と綴る備忘録もどきのもので、タイトルはミステリー好きな管理人の単なる気まぐれですので気楽にお付き合いください。

当ブログは笑楽日塾の活動を現在と過去に行ったり来たりしながら脈絡なく書きなぐりますが、個人情報保護重視の観点から多少理解し難いことがあるかもしれません。ご承知おきください。

また、多くのリタイアされた男性やリタイア間近の方に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで、社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

なお、毎週水曜日の更新を予定していますので、お手すきの時にでもお立ち寄りください。なお、詳細につきましては下記「初回のご挨拶」をご覧ください。

                    2021年01月19日    

≪ 重 要 ≫

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

茅の輪神事(ちのわしんじ)

早いもので今年も半分が過ぎようとしています。地域の氏神を祀る「和楽備神社」でも6月1日から、夏越の祓(なごしのはらえ)の人形(ひとがた)頒布が始まり、私も早々にいただき25日にお納めしてきました。

和楽備神社の大祓式(おおはらえしき)は明日(6月30日)行われますが、人形は頒布開始の1日からお納めすることができ、30日の式に参列された方と一緒にお祓いをしてくださいます。

なお、境内には茅の輪(ちのわ)が6月24日に設置されましたので、その後にお参りされた方は茅の輪をくぐって人形をお納めすることが出来ます。神社の方のお話しでは「茅の輪の設置は梅雨の時期なので雨に降られることが多いのだが、今年は晴天に恵まれたもののこの猛暑には参った」とおっしゃっていました。

≪茅の輪神事とは≫

茅の輪神事とは、お祈りしながら茅で作った輪をくぐり越えることにより、罪や穢れ(けがれ)を取り除き、心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願する行事のこと。なお、この行事は「輪越祭」「茅の輪くぐり」とも言われています。茅(ち=かや)とは、茅萱(ちがや)、菅(すげ)、薄(すすき)などの総称。

≪茅の輪神事の由来≫

神代の昔、北海の武塔(ぶとう)神”素戔嗚尊(すさのおのみこと)”が南海に住む女性に会うため、旅の途中で蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで一夜の宿を頼みました。弟の巨旦将来は大変な金持ちでしたがそれを断りました。しかし兄の蘇民将来は貧しい暮らしだったものの、素盞鳴尊をお泊めして厚いもてなしをしました。数年後に素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れ「今後疫病が流行った時には茅で作った輪を腰に付けていれば、その者は蘇民将来の子孫として助けてやるので病気にかからないですむ」と教えました。この故事に基づき、茅の輪を腰に付けたり、蘇民将来と書いた紙を門口に貼っておけば災厄を免れるという民間信仰が生じたもの。

武塔神素戔嗚に災等から守っていただくために始まった民間信仰茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものだったが時代が経つとともに大きくなり、祓の神事には人がくぐれるほどの大きさになり罪や穢れを取り除くようになったもの。

≪一般的な茅の輪くぐりの作法(茅の輪を4回くぐる)≫

1回目:茅の輪の前に⽴って⼀礼をする:左⾜から茅の輪をまたいでくぐり、そのまま左回りに回る(回っている間「はらいたまえ、きよめたまえ」とお祈りする)

2回目:元の位置に戻って⼀礼:今度は右⾜から茅の輪をまたいでくぐり、そのまま右回りに回る(回っている間「はらいたまえ、きよめたまえ」とお祈りする)

3回目:元の位置に戻り⼀礼:もう⼀度、左⾜から茅の輪をまたいでくぐり、左回りに回る(回っている間「はらいたまえ、きよめたまえ」とお祈りする)

4回目:元の位置に戻り⼀礼:左⾜から茅の輪をまたいでくぐり、ご神前へと進み⼆拝⼆拍⼿⼀拝の作法で拝礼する

以上が茅の輪くぐりを⾏う際の⼀連の流れ(ポイント:① 茅の輪の前に⽴ったら必ず⼀礼 ② 左→右→左(さ・う・さ)の順番で8の字を描くように回り、4回目は直進し神前へ)。

なお、茅の輪をくぐる回数やお祈りする唱え詞は各地に様々な詞があるようですので、機会がありましたら調べてみるのも楽しいかもしれません。

面倒くさい作法を書きましたが「神様はとてもおおらかな方だそうですので、あまりこだわることなく楽しく参加してください」とのこと。

出来るだけ回数多く神社に来て下さる方が喜ばれるとか。

≪和楽備神社 大祓(おおはらえ)の手順≫

①6月1日より神社で人形(ひとがた)が頒布(はんぷ)されるのでいただいてくる。

②いただいた人形に住所、氏名、生年月日を書き、罪・穢れが人形に移るように念じながら全身を撫でる。最後に人形に息を吹きかける。

③人形と※御初穂料を、人形と一緒にいただいた封筒に入れて6月30日午後4時30分までに神社にお納めする。そのときに『大祓御札』または『大祓御札と特別御守り』をいただき、御札は玄関や部屋の戸口に貼る。

※御初穂料:1人500円納の場合は『大祓御札』をいただく。1人1,000円以上納の場合は『大祓御札と特別御守り』をいただく。

④6月30日午後5時より大祓式を斉行し参列者のお祓いと茅の輪くぐりを行う。

以上ですが、今年は所用の為大祓式に参加できませんので少し早めにお納めしてきました。なお、「大祓式」は6月30日に行われる「夏越しの祓」と12月31日に行われる「年越しの祓」があります。しかし年末は何かと多忙なため多くの神社では「夏越しの祓」のみが行われているようです。

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

≪ 重 要 ≫

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広報WARABI(吉田 喜義さん)

蕨市で毎月発行される広報誌「広報WARABI」2019年6月号に笑楽日塾の塾生が取り上げられました。「輝いています ひと」欄に、「国際協力コンサルタント 希望の未来に架かる橋 吉田喜義さん」とのキャッチコピーで紹介されたもの。前々回6月8日には塾生内田茂さんが広報誌に載った記事紹介しましたが、今回は同じく塾生の吉田喜義さんです。

開発途上国に対する支援や技術協力などを行うJICA(ジャイカ)(独立行政法人国際協力機構)。総合建設会社を定年退職後、そのJICAの委託で、主に東南アジアの土木工事の現地調査・施工管理業務を行っているのが吉田喜義さんです。ときには1年半以上も現地に駐在しながら快適で安全な暮らしの実現に尽力しています。(出典:広報WARABI 2019年6月号より抜粋)。

https://www.city.warabi.saitama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/092/201906honsi.pdf

なお、広報誌のキャッチにも書かれていますが「希望の未来に架かる橋」は、当ブログ「笑楽日塾の事件簿」でも2020年9月16日投稿分オンライン公開講座、第2回「世界に橋を架ける」で紹介しています。『1997年に完成したマレーシアとシンガポールを結ぶ海上橋、マレーシア・シンガポール第2連絡橋』『2004年に完成した台北と高雄を結ぶ台湾版新幹線の台南地区の高架橋』『2006年に完成したベトナム世界遺産ハロン湾を臨むPC斜張橋のバイチャイ橋』。多くの国で貢献されてきた中からの3例ですが、日本の技術を世界に知らしめた笑楽日塾塾生吉田さんの情熱に大感動です。

また、2021年11月17日投稿分でオンライン公開講座PartⅡ第3回「海外コンサルタント生活 タイ、カンボジア編」でも、「タイ・バンコク高速道路改修工事」「カンボジアプノンペン信号機工事」について、工事概要とコンサルタントについて、また当地での生活ぶり等を紹介してくださいました。

吉田さんは当笑楽日塾入塾後もお忙しく世界を飛び回っています。2019年11月には嘗てタイ・バンコクの高速道路改修工事や、カンボジアプノンペンの信号機工事でお世話になったコンサルタントさんから要請があり、施工監理の支援のため現地に赴き任務完了後の12月に帰国されています。

≪広報誌を見た塾生の感想≫

海外で活躍されている日本人をテレビで拝見することもかなり頻度でありますが、その多くの方はJICA(ジャイカ)から派遣されているとか。担当される仕事の内容は人それぞれだと思うものの、世界で活躍されている吉田さんが笑楽日塾におられることに誇りに感じています。これからの塾活動の励みになります。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

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埼玉県美術展覧会(県展)

埼玉県美術展覧会(通称「県展」)が開催中です。日本画、洋画、彫刻、工芸、書、写真の6部門で、参加資格は15歳以上の県内在住、在勤、在学者(中学生を除く)。例年だと3,500点超の出品数があり、その中から入選作品及び委嘱作品、招待作品等の約2,000点が会場に展示されるとか。

前回の展覧会では、15歳から101歳までの方から出品があり、幅広い年代の方が活躍されていることが分かります。101歳とは驚きですね。

そんな県展ですが、先日知人から「応募したら入選したので時間があったら見にいってくれないか」とのお誘いがあり。6月8日(水)会場のJR北浦和駅西口近くの北浦和公園内にある「埼玉県立近代美術館さいたま市浦和区常盤9-30-1)」まで行ってきました。絵心の全くない私ですが、皆さんの素晴らしい作品を拝見し「私にこの半分でも才能があれば」と羨ましい限りです。

この県展は昭和26年3月から始まり今回で70回目だそうですが、会場は月曜が休館で6月23日(木)まで開催していますので、お近くの方で興味のある方は是非とも足をお運びください。戦後間もなくから始まって70年という長い歴史があることにも感動しています。

この美術館は1982年11月設立で40年の歴史があります。館内は綺麗に整備されていて気持ちの良いひと時を過ごすことが出来ましたので、来てよかったなと実感した次第ですが、休息所が少ないと感じたのは美術展巡りの経験が少ない私だからでしょうか。それとも私の見落としか。

帰りに美術館のある北浦和公園を少し散策しようかとも思っていましたが、展覧スペースが広く右往左往した高齢者は少々お疲れ気味。また今度にしましょう。

埼玉県の名菓「草加せんべい」は全国的に有名だと思いますが、私にとって更に美味しいと思っているのが「晴天を衝く」の渋沢栄一氏が生まれた、埼玉県深谷市深谷ネギを使った「ねぎみそ煎餅」。

北浦和駅西口前には「ねぎみそ煎餅」のメーカー㈱片岡食品(埼玉県さいたま市)の直営店があり、以前は蕨から時々購入しに伺ったものです。今では各地の和菓子屋さん等でも販売されていますので、近くのお店で買い求めていますが今回は帰りに寄って購入してきました。お店の中に入ると店内は懐かしく、購入した煎餅は帰宅後に家族で美味しくいただきました。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

≪ 重 要 ≫

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広報WARABI(内田 茂さん)

蕨市で毎月発行される広報誌「広報WARABI」2020年11月号に笑楽日塾の塾生が紹介されました。「輝いています ひと」欄に、「蕨の専門家講座を世界に発信 内田茂さん」とのキャッチで、紹介されたもの。

2月から新型コロナウイルスの感染が拡大。外出自粛で仲間が集まれないなか、内田さんはZoomによるオンライン会合を提案し、高齢で不安があった人も、丁寧なフオローで操作に慣れ、その便利さに目を開きます。(出典:広報WARABI 2020年11月号より抜粋)。

https://www.city.warabi.saitama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/929/202011honsi.pdf

内田さんは当笑楽日塾の塾生(世話役さん)であるとともに、記事内でも紹介されているように、リタイアされた後は現役時代に培ったスキルを生かして、中央公民館のパソコン支援隊などの地域活動をされています。

なお、内田さんは現役時代に「個人情報の取扱い」の制度を指導する立場のお仕事をされていたとのことで、当笑楽日塾の第8回オンライン公開講座で個人情報のお話しを担当されています。『個人情報保護法では個人情報のことを、「生存する個人に関する情報であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの」と規定しています。』などと、1時間にわたり熱く易しく解説してくださいました。

≪広報誌を見た塾生の感想≫

広報WARABI 内田さん出ていました!!良いですね!!

「笑楽日塾って何だ?」と市民の方々は一気に好奇心を持つと思います。

笑楽日塾が有名になればなるほど、アクティブシニア笑楽日塾塾生は「単なるお楽しみ団体」でない塾であることに誇りを持って、ますます笑楽日塾発展の為に日々、活動して行きたいと感じました。また責任感も感じつつあります。

笑楽日塾 荒井塾長を先頭にこれからも皆さんと一致団結して魅力のある、そして品格のある笑楽日塾にしていきましょう(2020年11月1日)。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

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一段落しました

笑楽日塾のオンライン公開講座は、2020年08月19日投稿分「料理用包丁と砥石」から始まり、2022年5月28投稿の「頼朝と義経 ―その栄光と確執―(8/8)」で全20回分が完結しました。

講師として様々な見識を披露していただいた塾生、並びに講師を快諾してくださいました市内在住の識者の皆様が大活躍され、拝聴させていただいた者としては大変有意義な時間を共有させていただいたことに感謝申し上げます。また、20回全てを放送してくださいました蕨ケーブルビジョン㈱様と、毎回受講していただきました沢山の皆様に心からお礼申し上げます。

この後は20回のセミナー一つひとつを振り返り、ブログで正しくお伝い出来たかを確認しながら今後の糧となるよう心掛けたい思っています。初期の頃には講演内容をかなり割愛していましたので、この時に書けなかった分を掘り起こし、さらに中身の濃いものにして後日改めてご紹介したいとも考えています。

新型コロナの感染は以前に比べたらだいぶ落ち着いてきましたがまだまだ油断できず、一つの会場に大勢が集まって行う講演会やセミナーは用心が必要です。それに比べて自宅から参加できるオンラインでの開催は大変有効なツールになりました。笑楽日塾のオンライン公開講座は少しの間お休みになりますので、当ブログ「笑楽日塾の事件簿」は塾生の活動や塾生が生活する埼玉県と蕨市のことなど、地域活動も含めて紹介したいと思います。

蕨市は江戸から昭和にかけて宿場町や機織りの町として栄えた大変歴史のある町ですが、近年は東京のベッドタウン化したため新しくお住まいになられた方が大勢おられます。

蕨市の歴史は今までに諸先輩方がかなりの部分を調べられていますので、これ等を基に「新住民の方にも蕨のことをもっと知っていただきたい」「子供達にも自分が住んでいる町のことをもっと知って欲しい」「笑楽日塾はその仲立ちをしたい」との思いで、就労からリタイアした、又はリタイア間近な男15名が2018年1月に笑楽日塾を立ち上げました。まだ数年の実績しかありませんが、最近では活動にも余裕が出来てきたため社会問題にも取り組むようになっております。

最近世間を騒がせているSDGs達成の取り組みにも力を入れ、SDGs 17の分野の目標の中でも「目標2:飢餓をゼロに」「目標12:つくる責任つかう責任」「目標13:気候変動に具体的な対策を」などに力を入れています。

このようなことを考えながら、当ブログ「笑楽日塾の事件簿」は毎週水曜日の投稿を目標にしていますのでお手すきの時にでもお立ち寄りください。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

≪ 重 要 ≫

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(8/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の7回目の最終回になります。

 義経、京へ凱旋そして鎌倉へ

義経は、捕虜とした平家の総帥宗盛父子と安徳天皇の母徳子を伴って京へ凱旋します。義経の堀川館には宗盛父子を保護し、徳子は朝廷へ引き渡され、その後は大原の里、寂光院で尼となり、建礼門院として安徳天皇と平家一門の御霊(みたま)を祀り、その生涯を閉じるのです。

義経は5月7日には、兄頼朝に平家壊滅を報告し、此度の手柄の慰労を求めて、宗盛父子を伴い鎌倉へと出発するのです。前もって義経の鎌倉行きは頼朝の許に伝達していましたが、それに対しての返事はなく、なんとなく気にはなっていたのですが5月17日鎌倉の外れ極楽寺近くの満福寺(まんぷくじ)まで着いたとき、北条時政が頼朝の使者として現れ、義経の鎌倉入りは禁じられ、宗盛父子の頼朝への面通しだけ許され連れて行ってしまうのです。

義経、その時辛抱強く満福寺に逗留するのですが、頼朝からの許しはなかなか届かず、頼朝の護衛を任じている「弁慶」が義経の功績などを縷々(るる)書き上げた「腰越状(こしごえじょう)」を政所(まんどころ)の別当大江広元(おおえひろしもと)に提出し、頼朝の許しを請うのでありますが、一向に返事がなく、月が替わって6月9日、また北条時政が宗盛父子をつれて、頼朝の命として、宗盛父子を護送し朝廷の裁きを受けさせるようにと伝え、ここで完全に義経と頼朝の涙の対面の絆は崩れてしまうのでした。

頼朝の勘気にふれた義経は、何故に!との疑問が解けないうちに6月17日近江国篠原にて平家の総帥宗盛父子を斬首してしまいます。この場で完全に平家は滅亡してしまいます。

頼朝!義経へ刺客を放つ

頼朝は義経の抹殺を決意し、大倉御所に御家人を召集し、京に滞在する義経の暗殺を述べ、実行者を諮問するのです。そこへ家人の「土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)」が手を挙げ83騎の軍勢にて密かに鎌倉を出立し京へ向かうのです。

この情報は、義経には事前に漏れ聞こえて、また、静御前の機転もあったとなっていますが、いずれにしても、暗殺団は悉く誅され(ことごとくちゅうされ)六条河原にさらされてしまったのです。

義経!立ち上がる

兄頼朝の刺客という卑劣な行為に、純真無垢な義経、怒りが収まらず朝廷の「後白河法皇」の許に向かう。後白河法皇に「頼朝追討」の宣旨を強要するのです。義経の願いを聞き入れ、畏れ多くも「頼朝追討」の宣旨を与えるのです。

そして、すぐに義経畿内の豪族に賛同を求めるのですが、これには殆ど乗ってこないのです。さすがの義経、窮地に立ちます。鎌倉からは頼朝自身が10万騎をもって義経討伐にむかうという報が入ってくる。

義経、一旦九州に落ち延び再起を図ることを決意、摂津の大物浦(おおものうら)から九州を目指し船出する。しかし波浪高く船は難破し弁慶、静御前を伴っての陸路の逃避行がはじまる。

最初に向った吉野山は女人禁制のため静御前とは再会を約し別れ、ここから伊勢、美濃と二年間、頼朝の執拗な追撃を振りほどき、漸く平泉の奥州藤原秀衡(ひでひら)の許にたどり着くのです。文治3年(1187)の春のころであった。

しかし、ここでも、義経に暗雲が漂ってくるのです。奥州藤原家の当主藤原秀衡は秋10月29日死を迎えてしまうのです。

義経の最期

兄頼朝は後白河法皇へ何故「頼朝追討の宣旨(せんじ)」を義経に与えたのか、厳しく問うことにし、北条時政を名代にして1000騎の大軍を京に差し向け、後白河法皇を厳しく糾弾するのであるが、法皇義経に恐喝されたという言い訳で逃げる。時政も戦略を尽くし後白河法皇から全国の「守護」「地頭」の任命権を鎌倉幕府の権力に取り入れることに成功。この「頼朝追討」宣旨の一件は今後の鎌倉幕府のより一層発展していく基盤にもなっていくのです。

さらに後白河法皇から「義経追討」の宣旨を拝戴し、義経追討と同時に奥州藤原をも滅亡させていくことに着手していくのです。奥州藤原家四代藤原泰衡(やすひら)へ頼朝は執拗に義経の引き渡しを迫ります。

泰衡も頼朝の追求に耐え切れず、義経の「衣川館(ころもがわのたて)」を攻めるのです。これに立ち向かい仁王立ちの形相で主君義経を守る弁慶。多勢に無勢、義経、最後の力を絞り立ち向かうも妻子を先立たせ、自らも「源九郎判官義経」の命を絶ってしまいます。

文治5年(1189)4月30日、義経、これからという「31歳」の源氏の若武者でした。

― 終 章 ―

源氏の御曹司として、その将来を期待されながらの頼朝であったが、その生きざまは天国から地獄の大転換をめぐりながら、最後には、日本ではじめての江戸時代まで続く武家政権を作り上げた功績は計り知れないものがあり、そして、その武家政権の土台を作り上げたと言っても過言でない義経の一途な源氏再興の強さは見事なものであった。

しかし、この兄弟の別れは以外にも早かった。

幼少時より雅な世界に育った頼朝は、命の危険に幾度となく遭遇し、その恐ろしさは、また、武家政権を確立していく過程には、次には後白河法皇の朝廷が最も「危険」な存在になってきたことに気付いたのであります。

それは、後白河法皇が、ある時から平家と源氏を戦わせ、最後には、朝廷を守る武士の世界に戻し、朝廷の下に組み入れていくという思惑が、頼朝には「明確」に見えてきたのです。

一方、先祖伝来に「源氏」の興隆へと懸命に導いていこうとする「純粋無垢」な義経には、朝廷の後白河法皇の戦略が全く考えられなかったのではなかろうか?

そして、兄頼朝が最も危険視した左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)にも叙され、さらには、内昇殿(うちのしょうでん)も許される義経を最後には頼朝が抹殺せざるを得ないところまできてしまったのであります。

荒井貞夫塾長より結びの挨拶(これから、笑楽日塾の活動について)

オンライン講座にご参加の皆様やケーブルテレビWinkの視聴者の温かい声援に支えられて、無事に20回を終えることが出来ました。

これからも、笑楽日塾では、宿場町・蕨の歴史を学び、市内の古刹を巡り、地域の伝統産業であった織物の栄枯盛衰、今も残る多くの文化財を調べて、埼玉県の内外に、「蕨市ここにあり」と発信出来る力を蓄え、いつの日か広い会場で皆様にお伝えしたいと存じます。

これからもご支援、ご鞭撻を賜りたくよろしくお願い申し上げます。有り難うございました。

武家政権を開きたい幕府と朝廷の策士「後白河法皇」のせめぎ合い、純真無垢な弟と目的のためには兄弟でも滅ぼす冷徹な兄の確執、後ろには北条氏の影もチラつくとか。何でもありの怖い時代ですね。

頼朝と義経でいえば、小さいころに絵本で読んだ牛若丸と弁慶の出会い(京の五条の橋の上~♫)の記憶が残っているため、どうしても義経びいき(判官びいき)になってしまいます。

「頼朝の写真は別人ではないか」とか「義経はもっとイケメンだったのではないか」など、歴史の研究が進むと今までとは違ったことも言われるようになり、想像していると楽しいですね。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―は今回で終了です。清藤様ありがとうございました。お読みいただきました皆様に感謝申し上げます。

オンライン公開講座の紹介は一旦今回で終了しますが、笑楽日塾では「次に何をやるか」。検討を始めていますのでご期待ください。なお、当ブログ「笑楽日塾の事件簿」はこれからも週一で投稿する予定です。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(7/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の6回目になります。

 奥州藤原家から頼朝へ

奥州藤原家の当主藤原秀衡は、迎え入れた義経の素養を見出さし、行く行くは奥州藤原家の大将軍となるよう育てていた。しかし、義経22歳のとき(治承4年-1180)の9月に入り、兄頼朝の平家打倒の挙兵を知るのです。義経馳せ参ずることを決意し、秀衡に訴えます。当然秀衡止めますが義経の意思固く、最後には藤原家の屈強の武将佐藤継信・忠信の兄弟を含め85騎となって平泉を進発させるのです。

奥州街道走りに走り、途中「こかわぐち」でも軍勢を整え、10月21日には、兄頼朝の「黄瀬川宿」へ到着。義経は肉親との対面することもなく、鞍馬の山の孤独な日々が脳裏をかすめたのか兄頼朝に逢えたのが嬉しく感極まり嗚咽をとめることができなかった。

兄頼朝も涙を拭っていたということでした。そして、平維盛の2万の軍勢を追いやり鎌倉へ義経と同道し凱旋していくのです。

木曾義仲の蜂起

治承4年(1180)の平家打倒に立ち上がった源氏は、頼朝ばかりではなかった。同じ源氏の「木曾義仲」も頼朝に遅れること9月には破竹の勢いで北陸路を制覇していった。この義仲の蜂起も、清盛の神経を逆なでし、翌年2月の清盛の死期を少しばかりは早めた因になったかもしれないくらいの北陸方面への進撃は速かった。

 寿永2年(1183)4月平家は平維盛を総大将として、今度は木曽義仲の討伐に軍を進める、迎え撃つ義仲!俱利伽羅峠を牛の角に松明を括り付け、その数知れずの数百頭を暴走させるという奇策を実行、平維盛軍を圧倒しその勢いで、平氏を京の都から追い出してしまいます。そして、さらには瀬戸内海まで追いかけ義仲深追いしすぎます。

この年、大飢饉の年でした。義仲軍兵量不足も重なり瀬戸内の中央あたりの水島で平家水軍の反撃に敗れ、急いで京に帰ってきます。そして、田舎者の義仲軍、京の町を無差別に荒らしまくります。

頼朝への密勅

都の京での乱暴には、当初協力的であった「後白河法皇」も手のひらを返したように、鎌倉の頼朝へ「義仲討伐の密勅」を送ります。頼朝それを拝戴し、ただちに弟源範頼(のりより)を追討軍大将として瀬田の唐橋から、また、この時初めて義経を搦手として伊勢方面から宇治へ向かい義仲を攻めさせます。義仲、愛妾巴御前と共に戦うも敗れ誅殺されてしまいます。これが寿永3年(1184)1月20日の義仲短い天下人の歴史に残る享年31歳の人生であった。

義経の大活躍

木曾義仲と鎌倉頼朝軍(範頼、義経)が争っているとき、九州大宰府まで落ちていた平家は勢力を盛り返し、京の目の前、福原(神戸)と屋島高松市)へ陣を張り、京の奪還を目論んでいた。これには後白河法皇も慌て、すぐさま鎌倉頼朝へ「平家打倒」の「宣旨(せんじ)」を下し、頼朝それに呼応し、まず福原を落とすこととした。

この時も引き続き大将は源範頼ですが、山陽道を攻め下ります。一方義経丹波道から一万騎を率いて三草山を守る平家軍を蹴散らし、畠山重忠を含め70騎で山中を地元の地形に詳しい鷲尾義久に案内させ、福原の平家の陣地を真下にした鵯越(ひよどりごえ)に到着する。義経は義久に「この急坂は獣が通っているか?」と問えば「山羊が上り下りします」との答え。それでは馬も通れると判断した義経は一気に下りるのです。これが世にいう「鵯越の逆さ落とし」と伝わることになります。

この時、陣を張る平家、予想もできない義経軍の背後からの攻撃に逃げ回り、大方は向かいの屋島に逃げ込んでしまうのです。寿永3年2月7日のことであります。

義経の叙爵

一の谷の戦いが終わると兵量不足もあり、次の戦いの準備に入るため平家と源氏は一時休戦状態となります。源範頼は鎌倉へ帰ります。義経は幼少時代京育ちで、頼朝から都の治安と屋島長門彦島の平家の監視をまかされるのです。その間約一年間です。

この時の義経の京の治安は非常に評判がよかった。これに目をつけた「後白河法皇」は8月6日左衛門尉(さえもんのじょう)、検非違使(けびいし)の官位を義経に授け、さらには内昇殿(うちのしょうでん)までゆるすのであります。鎌倉の頼朝はかねがね朝廷からの官位は、頼朝が申請してから叙爵するというきつい掟を設けていた。この義経の叙爵は予想外で、後白河法皇の手足となることを義経には危惧し大激怒するのであります。これが後々の兄弟の確執となっていきます。

しかし、当面の敵は目の前の平家です。頼朝は平家討滅の作戦を鎌倉で行い、義経へは平家水軍と対抗し得る水軍の調略を命じているのです。

平家の滅亡

頼朝の作戦は約一年間の休戦状態の中で朝廷の後白河法皇の行動を観察していたのかもわかりません。まず、範頼を平家が九州へ渡らないように九州豊後国の制圧に派遣します。その中には、後の北条政権を確立していく北条義時も大切な役割を背負って範頼軍勢に加わっています。

山陽道を下るのですが、未だに平家へ味方する豪族が後を絶たず苦戦をしいられながらの行軍でしたが、四国の河野水軍や周防水軍の平家からの寝返りもあり、ようやく豊後国に渡り、この地の豪族少弐(しょうに)氏を従え万全の体制を敷くのです。

一方の義経は、満を持して熊野水軍も調略し、平家水軍と同格になった事を確認し、また、範頼軍の進捗情報も得て、いよいよ屋島の平家陣地を攻めることになりますが、天候不順となってきます。ここで義経攻撃の強行を主張するのですが、副将の梶原景時の反対に合い犬猿の仲となっていきます。このことも後々景時の讒言(ざんげん)により頼朝の不興を買い確執の因の一つになっていきます。

いずれにしても、義経の行動は常識を覆す戦いで、まず悪天候を突いて小人数で阿波国へ渡り、屋島を背後の陸地から攻めるのです。そして民家に火を放ち、大軍が攻め込んできたように敵陣を混乱に陥れます。

ここで、那須与一の物語や熊谷直実(なおざね)と平敦盛(あつもり)の後世に伝わる場面が展開されますが、義経は勝利し、2月18日には屋島から平家軍を一掃し、長門国彦島の平家本部を標的に攻めるのです。この時には、もはや水軍は平家水軍を上回る規模となって一気に攻めていくのです。そして、平家軍九州を範頼軍に抑えられ、ここ彦島海上で決戦しなければなりません。

また、この決戦の場でも先陣争いが義経梶原景時との間でおこり、これも頼朝に報告され、確執の種の一つとなったかもしれません。

この時には、また義経奇手を使います。それは伝統として水上の戦いは漕ぎ手や水子(かこ)は殺(あや)めないのですが、義経これを無視し、最初に水子・漕ぎ手を殺め船の動きを止めてしまうのです。地上戦に似た戦いに持ち込み、開戦からわずかな午の刻(正午)には、平家の武将を悉(ことごと)く蹴散らしてしまうのです。あっという間の戦いで平家を再起不能にまで壊滅してしまいます。

この平家追討にあたり、後白河法皇は頼朝へ「神璽(しんじ)」と「安徳天皇」は必ず奪い返すようにと命じています。当然義経にも伝わってはいましたが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙の剣)は海中に没してしまいます。また、安徳天皇二位尼時子(ときこ)に抱かれ「波の下にも都はあります」と言い聞かされ入水してしまうのです。時に8歳の天皇でした。総帥の平宗盛、宗清父子は泳いでいるところを捕まり、天皇の母徳子皇后は助けられ京に護送されることになりますが、栄華を極めた平家の時代は文治元年(1185)3月24日義経の大活躍により、長門国は壇ノ浦で滅亡してしまうのです。

次回は5月28日投稿予定で「義経、京へ凱旋そして鎌倉へ」から始まります。ご期待ください。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(6/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の5回目になります。

 ≪第二章 源義経の波乱万丈≫

源義経の出自

父は源義朝、母は常盤御前の三男として平治元年(1159)京で生まれる。名は「牛若」と名付けられた。母の常盤御前近衛天皇中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、絶世の美女と言われ、九条院で雑仕女を募った時には千人の応募があり、その中から選ばれたという誉れの高い方であった。兄は「今若」、「乙若」と名乗った。牛若の生まれた平治元年には「平治の乱」が勃発し、父の義朝が清盛に敗れ、敗走途中で暗殺されていた。この時に母常盤御前は、やはり乳飲み子の牛若を抱き必死で奈良の宇田に逃げるのですが、都で実の母が折檻されているという報を聞き、九条院の許に戻り、九条院から清盛の六波羅に出頭し、子供の命乞いをするのです。23才の美貌の常盤御前は清盛の愛妾となり、三人の子の命は助かるのです。

今若-(醍醐寺)、乙若-(園城寺)に入寺、牛若は母と清盛の六波羅に6年間住まいすることとになり、その時には父は清盛と思っていたのです。母は清盛との間に女子を産み、それが清盛の正妻時子に知られ、清盛から離れ一条(藤原)長成に再婚することになります。

母と長成との間にも男子が生まれ、「牛若」は、鞍馬の寺に預けられることとなった。

その経緯は、鞍馬寺別当「東光坊阿闍梨(とうこうぼうあじゃり)」は父義朝の祈りの師であったことが常盤御前は知っていたので入寺をお願いした。阿闍梨別当は快く引き受けて、名を「遮那王」と名乗らせたのであります。その時遮那王11歳になっていた。

鞍馬の遮那王

鞍馬の山へ入った遮那王、ここで初めて父の仇が清盛であると知り愕然とする。遮那王、剃髪せず鞍馬の山を駆け巡り剣術の修行に励んでいたという。伝説で天狗から剣の極意を伝授され、都の五条の橋で刀狩りの猛威を奮っていた「武蔵坊弁慶」とも出逢い、そして戦い破り、終生家臣として伴っていたということです。

また、鬼一法眼(きいちほうがん)が秘蔵する「六韜三略(りくとうさんりゃく)」という兵法書を、法眼の娘を通じて学んだと義経記に書かれているといいますが、この兵法書は中国周の時代(紀元前千年~四百年前)の太公望呂尚(りょしょう)が著した六巻から成り、この中の四巻目の「虎の巻」が特に、これが源平の戦いのときの義経の戦術・戦闘の基本になっていたのではないかと推考しています。

遮那王—奥州藤原家へ

遮那王16才になりました。この年齢になると平家から何らかの新たな処分が下されるかもしれない。それを見越して、遮那王は奥州藤原家の御用商人「金売り吉次信高」に伴われ平家の支配する京の都から逃げるのです。

この義経の奥州行の手配したのも母常盤御前の力が発揮されたのであります。それは「平治の乱」に父義朝と一緒に戦った藤原信頼の兄・藤原基成が、奥州藤原家三代当主藤原秀衡に娘を嫁がせ、四代泰衡を誕生させているのです。また、常盤御前の夫一条長成藤原基成の遠い縁戚関係にあたるため遮那王の身を依頼したと思われるのです。

遮那王から義経

金売り吉次信高に伴われ、近江国鏡宿(滋賀県竜王町)に着いた義経は、この地で、一人で元服の儀を行うのです。事前に準備していたと思われますが、「源九郎判官義経」と自ら名のり上げるのです。「義」は源氏の通字、「経」は源氏の姓の初代「経基王」からいただいたと思われるのです。

次回は5月25日投稿予定で「義経奥州での挙兵」から始まります。ご期待ください。

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頼朝と義経 ―その栄光と確執―(5/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の4回目になります。

 頼朝の挙兵を知る平家

以仁王の平家打倒の流れは、東国に於いて頼朝の挙兵につながっていった。京の平家は、この情報を9月初めには大庭景親石橋山の戦いで勝利したとして捉えていた。平家の総帥清盛も、福原への遷都構想や厳島神社への周遊をしていたころで、9月5日には、朝廷より「源氏討伐の宣旨(せんじ)」をいただくのですが、14才当時の頼朝を思い浮かべたのか、全体的に状況を軽く見ていたのか、頼朝に対しての対策が遅かった。燎原の火のように広がる源氏の反攻に、慌てるように、長男の平宗盛に討伐軍を召集させたのですが、公家的生活に20年浸かった平家はなかなか軍の整備ができず時間がかかった。ようやく源氏の御曹司頼朝への討伐軍2万の兵を10月13日に清盛の孫・平維盛(これもり)を総大将として京を進発させるのです。

富士川の戦い

京を進発した平家軍は実戦の経験のない軍勢で、士気もそれほど上がっていなかったのではと考えられるのですが、10月18日の夕刻には駿河国富士川の河畔まで進み、頼朝討伐の陣を張ったのです。

これを迎える頼朝軍は20万の大軍をもって鎌倉を進発し、10月18日には駿河国「黄瀬川宿」に陣を張り、明日にも富士川で平家軍との決戦と意気込み、士気は非常に高い状態であったろうと考えられるのです。

10月19日の早暁、陽もまだ上がらずの富士川の上流から、北条時政を先陣として甲斐の武田軍は決戦の場にひたひたと下ってきた。そこには渡り鳥が数万羽、羽を休めていた。武田軍の進軍の響きに驚いた渡り鳥、一斉に飛び立つ。この轟音に驚いたのは戦いに慣れていない平家軍、雲の子を散らすように逃げてしまいます。

10月20日には、頼朝戦わずして勝利してしまうのです。頼朝勢い余って平家を追いかけ、京まで軍勢を走らせようとするのですが、臣従してきた千葉常胤や上総介広常等は、「東国が未だ治まらずの時に、まだ京へ攻め上る事は早すぎる」という諫言(かんげん)を受ける。これには、頼朝は受け入れ鎌倉の地で東国を固めることを決意する。

10月21日鎌倉へ凱旋しようかというところへ奥州から駆け付けた弟義経の軍団が到着する。しかし、家人の土肥実平や熊谷義実等は、会ったこともないこの義経を怪しみ直ぐには面通しはさせなかったのです。しかし、頼朝の「会ってみよう」の一言で涙の対面となったのです。そして鎌倉へ同道するのでした。

平家軍の敗退と清盛の遺言

源氏の御曹司頼朝と一戦も交えず敗退した総大将の維盛は11月2日に清盛へ報告する。清盛!怒りに怒り、それが因の一つになったかもしれないが、原因不明の熱病に侵されるようになる。そして、自分の死期を感じたのか、ますます勢力を拡大しつつある頼朝を腹に据えかね、平家の次の総帥に期待する平宗盛に壮絶な「遺言」を残したという。それは、

伊豆の国の流人、前の右兵衛佐頼朝が首をついに見ざるつるこそやすからね。吾に万一のことあらば、後には堂塔を建て、孝養をもなすべからず。我が塚(墓)の前に頼朝の首を晒し、それぞ孝養にあらんずる。』平家物語 巻六)

ということで、14歳の頼朝に命乞いされ斬首しなかったのが、余程憎かったことが如実に表れた「遺言」なのであります。

その清盛、翌治承5年(1181)2月4日死を迎えるのであります。

頼朝の鎌倉

京の都、天皇家に仕え、乳母が4人とも5人とも歴史の文献に書かれているが、56代清和天皇から始まる軍事貴族源氏の御曹司として期待されてゆく頼朝は、父義朝が平家の総帥清盛に敗れたことにより、一転にして一族の壊滅となる。命を助けられた頼朝は14才の幼き頃から父母と死別し、そして罪人として伊豆は蛭ヶ小島で20年間の流人生活となったのであります。

しかし、その流人も乳母の一人比企尼(ひきのあま)から絶大な援助を得、流人の生活は苦しくはなかった。当初は孤独ではあったかもしれないが、成長するにつれ「佐殿(すけどの)」と呼ばれるように、側近もでき北条宗時のように「平家打倒」をあからさまに唱える武士とも交遊し次第に平家打倒を真剣に考えるようになっていくのです。

そして芯の強い北条政子と出逢い大姫を誕生させるのですが、「平家にあらずんば人にあらず」と豪語することに反旗を翻した「以仁王の令旨」が叔父の源行家が伊豆の北条館の頼朝を訪ね、令旨を手渡す。頼朝これに呼応し果敢にも「平家打倒」に立ち上がる。

三島神社の祭礼の日を選び、政子と大姫を伊豆権現に守らせ、東国武士を従え、幾多の難関を突破し、ついには「鎌倉」は大倉郷に堂々と鎌倉幕府を築いていくのです。

次回は5月21日投稿予定で「義経の出自」から始まります。ご期待ください。

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頼朝と義経 ―その栄光と確執―(4/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の3回目になります。

伊豆配流の日々

蛭ヶ小島」に配流された頼朝は、伊東荘の豪族「伊東祐親(すけちか)」と北条郷の豪族「北条時政(ときまさ)」の監視下に置かれ、当初は、父母を弔い毎日のように読経と写経に打ち込んでいたと伝えられています。

日常の生活は、乳母の一人「比企尼(ひきのあま)」は頼朝が伊豆配流と決まると夫の「比企掃部允(かもんのじょう)」とともに武蔵国比企郡を請所として下ってくるのです。そして、頼朝の生活を支え続けているのです。さらには娘三人を安達盛長河越重頼、伊東祐清に嫁がせ頼朝の側近として育て上げているのです。

また、もう一人の乳母の息子・三善康信からは月三度、康信の家人を使い洛中の情報を、届けてさせていたということです。時が経つにつれて監視が薄くなり頼朝に近い年代の若者、北条宗時三浦義村(よしむら)たちと伊豆の山野を駆け巡っていたというのです。

それから、頼朝は恋多き方とも伝わり、一つには伊東祐親の娘「八重姫」と恋に落ち子どもを誕生させています。しかし、この頼朝の行動に大激怒したのは、まぎれもなく父の祐親でした。大番役から帰ってきてすぐさま、家人を使い子供を狩野川へ菰に包み流してしまいます。そして、頼朝の征伐に向います。これには側近として育った伊東祐清が知らせ、北条宗時に助けられ北条館に匿われることになります。この北条館にて運命の遭遇が待っていました。政子との出逢いであります。

当初は大番役から帰ってきた北条時政も反対し、政子を目代山木兼隆に嫁がせようとしますが、政子の頼朝への愛には勝てず黙認し、治承2年(1178)頃、長女の大姫が誕生し、時政は頼朝を北条の婿として迎え入れるのであります。

流人頼朝20年間の平家の驕り

平治の乱を制した清盛は、父忠盛の築いた「日宋貿易」を独占し、世界最先端の磁器や宋銭などを輸入し、その財力によって朝廷の天皇家は勿論、摂関家や貴族の中にも、清盛の支持者を増やしていった。

特に二条天皇の親政を育み、日宋貿易の拡大を図り、自らは太政大臣となり、日本の政治を動かすという武家政権を作ったのが、日本で最初との見方も出てきます。さらには厳島神社の造営、また福原(神戸)への遷都構想など多岐に亘り日本の現在の文化遺産を造りあげているのであります。

さらには娘徳子を高倉天皇に入内(じゅだい)させ、安徳天皇外戚(がいせき)となり、その権勢には後白河上皇をも凌ぐほどになっていきます。その勢いは地方にももたらされ、東国の目代(代官)などの中には目に余る暴挙の者も出てきた。それにつけてか妻時子の弟・平時忠は「平家にあらずんば人にあらず」と豪語するほど平家の時代が続いていたのであります。

以仁王(もちひとおう)の令旨

平家の権勢は、後白河法皇院政をストップさせ、あまつさえ大内裏後白河法皇を幽閉に近い立場に立たせたことから、安元3年(1177)6月、「鹿ケ谷(ししがだに)」の平家打倒の陰謀も発覚するようになってきた。このような平家の暴挙を按じた後白河法皇の第三皇子の「以仁王」は治承4年(1180)4月9日に各地の源氏に対し平家打倒の武装蜂起を呼びかける令旨を配するとともに、自らも立ち上がることを決意する。この令旨は叔父の源行家が4月27日北条館にいる頼朝にも届くのです。

ところが、この令旨の一件は平家には早々と発覚してしまい、以仁王は京を脱出し園城寺に逃げ込みます。さらに興福寺を頼って奈良に向かうが、途中の宇治で平家の軍勢に追撃され以仁王は5月26日に誅殺されてしまいます。

これにより、各地の源氏を討伐する平家の作戦が開始され、いち早く土佐に流された弟の「希義(まれよし)」が討伐されたとの報が頼朝の館にも報せが入ってきた。京の三善康信からも以仁王の敗死とともに頼朝の身にも危険がせまっていることを伝え、弟の康清(やすきよ)に休暇をとらせ頼朝のもとへ事態の緊迫していることを伝えているのです。

頼朝の挙兵

これら一連の動きに対し、いよいよ頼朝の挙兵を決意し、頼りの北条時政一家と家人の安達盛長を父義朝の「源家累代御家人(げんけるいだいごけにん)」を訪ねさせ援軍の要請に走らせる。すぐに参じた土肥実平(さねひら)、熊谷義実、三浦義澄(よしずみ)など馳せ参じた家人には「慇懃の御詞(いんぎんのみことば)」をかけるパフォーマンスで、平家打倒に奮い立たせるのです。

先ず標的としたのは平兼隆(かねたか)とその後見・堤信遠(のぶとお)であった。8月17日三島神社の祭礼の日、目代館の護衛が少ないことを事前に察知した北条時政は夜陰に乗じて、山木館へ、佐々木経高の軍団は堤館に攻め上がり、これから続く4年7か月の源平の合戦の火ぶたは切られたのです。

翌早朝には頼朝の挙兵の初戦は勝利を飾ったが、すぐさま次の作戦行動を起こしていきます。8月20日ようやく300騎を揃えた頼朝軍は、土肥実平の館に(湯河原町)に陣を張る。海上を馳せ参じる三浦軍の合流を待つのであるが、天候は次第に嵐模様になり波浪高く海を渡れず三浦軍陸路での援軍となった。

これに対し頼朝討伐軍の大将・大場景親(かげちか)は軍勢3000騎をもって襲い掛かる体制を整え、また伊東祐親(すけちか)も300騎の軍勢もって頼朝の首に狙いを定めた。

8月23日頼朝軍は石橋山(小田原市)を拠点とし三浦の援軍を待つのでありますが、ますます悪天候となり豪雨となってきた。酒匂川も氾濫し三浦軍の合流はここにきて難しくなってきた。夜になり大庭軍、伊東軍は石橋山を取り囲み臨戦態勢を敷いてきた。

この時、頼朝軍!時の声を上げ夜陰に紛れて戦闘に入っていくのですが、多勢に無勢。士気の高い頼朝軍であったが、翌朝には大惨敗となり、それぞれ別れ別れとなり箱根山中に逃げ込むのです。

頼朝も執拗な大庭軍の追求を逃れ、小人数で土肥実平の巧みな案内で逃げ回り、湯河原の「しとどの窟(いわや)」で疲れを休めることとした。そこに大庭軍の「梶原景時」が現れるが、わざと見逃していくのです。また、箱根の山には超詳しい箱根権現別当行実(ぎょうじつ)にも助けられ、大庭景親の追跡を振り切り、8月28日には土肥実平真鶴岬から海路で安房に向けて脱出していくのです。

安房から鎌倉へ

ようやく安房の猟島(千葉県鋸南町竜島)に着いた頼朝を出迎えたのは、援軍の主力三浦一族であった。また、北条時政、義時も合流した。そして、父義朝が京で活躍していた時、源氏の御曹司頼朝の幼少時を知り尽くしていた家人安西景益(かげます)も出迎え、その館を頼朝へ提供するのでした。

休む暇もなく、平家打倒の作戦を開き、下総の千葉常胤(つねたね)に安達盛長(もりなが)を使者として援軍要請、上総の上総介広常には和田義盛を派遣する。また、北条時政には甲斐源氏武田信義の援軍要請に走らせる。

根回しの終わった頼朝、9月13日には主力の三浦軍を率いた300騎で鎌倉を目指し進発するのです。

9月の17日には千葉常胤軍も合流。援軍には懐疑的だった上総介広常も源氏の嫡流としての頼朝の威厳に圧倒され9月17日には兵2万騎を率いての援軍となった。

10月3日には隅田川を渡り武蔵国に入る。この頃になれば頼朝を頼り馳せ参ずる武将豊島清元、葛西清重足立遠元(とおもと)等が続々と帰順し、その数3万に膨れ上がってきた。翌10月4日には、敵対していた畠山重忠河越重頼江戸重長等も投降し、畠山重忠を先陣に千葉常胤を後陣として、10月6日には、6万の大軍勢として堂々と父義朝ゆかりの「鎌倉」の地を踏むのです。

次回は5月18日投稿予定で頼朝の挙兵を平家が知ったところから始まります。ご期待ください。

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頼朝と義経 ―その栄光と確執―(3/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の2回目になります。

保元の乱

頼朝10歳の時の保元元年(1156)7月、世にいう「保元の乱」の事件が起こります。この時朝廷は、皇位継承問題で揺れていました。

鳥羽天皇は長子の顕仁(あきひと)親王を「崇徳(すとく)天皇」とし、自らは「上皇」となり、さらには「法皇」となって「院政」を始め権力を振るいます。そして、次の天皇には第4皇子の雅仁(まさひと)親王を「後白河天皇」とし、この系統に皇位継承させることにしたのです。

これには、「上皇」となった崇徳上皇は怒ります。藤原摂関家(せっかんけ)を巻き込み、武士の力を利用し「後白河天皇」排除を企みます。「後白河天皇」も同じような行動を起こします。

ここに於いて二つに割れた朝廷はお互いの陣営に武士を召集し、京の町を揺るがす争乱に発展してしまいます。

結果は平清盛源義朝の武力が勝り、後白河天皇が勝利するのです。敗れた崇徳上皇は讃岐(さぬき)に流され生涯この地にとどまり崩御(ほうぎょ)していき、この時の武力の源為義(義朝の父)は斬首、為朝(弟)は弓を二度と使えなくなるように腕の腱を切られ、伊豆大島へ遠流されてしまうのです。

そして、戦後処理は、信西(ふじわらしんぜい)が辣腕を振るい勝利に加担した平家方に恩賞の多くを与え、源氏方には少ないという不公平感があり、その後の「信西」の朝廷での剛腕ぶりの反発もあり、世情はまた混とんとしてくるのでした。

頼朝の叙爵(じょしゃく)

保元の乱を制した「後白河天皇」は、父義朝を佐馬頭(さまのかみ)という要職にも任じ、また内昇殿(うちしょうでん)をも許します。義朝ますます軍事貴族としての源氏の地位を高めていきます。

また、「上西門院」は後白河天皇の姉にあたり皇室の官位も非常に高く、このことも影響するのか頼朝は保元3年(1158)2月皇后宮権少進(こうごうぐうごんのしょうじょう)に任じられていくのです。

時に頼朝12才の春のことであった。そして、翌年の平治元年(1159)2月には、母由良御前の力も加わり、さらに上位の「上西門院蔵人(じょうさいもんいんくらうど)」に任じられていくのです。

しかし、悲しいことに母由良御前は、この年3月死去してしまうのです。

平治の乱

保元の乱の収束から、朝廷の政権に辣腕を振るってきた「藤原信西」はますます権力を強め、さらに平清盛の勢力も引き入れ、後白河上皇の寵臣「藤原信頼(のぶより)」と対立するようになる。ここに、もう一人「信西」に恩賞の一件で大不満の「源義朝」が居り、この藤原信頼と組み「信西」打倒を目論んでいたのです。

平治元年12月9日(1159)平清盛が熊野参詣に出た留守中に藤原信頼は、父義朝に大内裏だいだいり)を占拠させ、後白河上皇二条天皇を確保する。そして、すぐさま「信西」を追い込み殺めてしまうのです。平治の乱の勃発である。

初戦を成功したことに酔った信頼は一時的に天下を治め、ここで、官位をばら撒くのです。この時、頼朝は朝廷よりの官位「右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)」を12月14日に授与されるのであります。

この右兵衛権佐に任じられたことは、有力な院の近臣(いんのきんしん)の子弟なみの待遇であった。頼朝は都の貴族社会の一員としての道を昇っていくはずであった。このような頼朝への道筋は、父義朝の勢力拡大の政策であったのだろうと考えられています。義朝は庶子(しょし)の義平へ東国の地盤を委ね、義平は父義朝の期待に副(そ)うべく北関東まで勢力拡大し、父の弟・源義賢(よしかた)(木曾義仲の父)をも排除していったのです。

こうした東国における武力の背景を見せながら京都政界で活躍することが、将来の頼朝には期待されていたのです。まさに頼朝は「東国知らずの源氏の御曹子」として成長していたのであった。

信頼、義朝のクーデターを聞きつけた清盛は、急遽京の六波羅に入り、最初は対抗する意思を見せずにいたが、信頼、義朝の隙を突き二条天皇を自宅の六波羅に、後白河上皇仁和寺に逃避させ、信頼・義朝を朝敵(ちょうてき)としてしまうのです。

そして、間髪を入れず清盛は、信頼・義朝軍に戦いを挑みます。平治の乱の勃発です。そして、たちまち、信頼、義朝軍を敗戦に追い込んでしまうのです。

この時、頼朝13才の初陣であったが、敗れた父・義朝や兄たちと東国を目指し敗走する。しかし、途中で一行とはぐれてしまい、翌年の永暦元年(1160)2月に近江国平清盛の弟頼盛(よりもり)の郎党平宗清(むねきよ)に捕らえられてしまう。

一方、再起を目指した父・義朝は尾張の国で、年来の御家人であった長田忠致(おさだただむね)・景致(かげむね)父子によって謀殺され、次兄朝長(ともなが)は戦闘中深手を負い敗走中に命を落とし、長兄善平(よしひら)は義朝一行と別れ、清盛暗殺を画策していたが、京での潜伏中捕らえられ処刑されてしまうのであります。

池禅尼の嘆願

平宗清に捕縛され、清盛の前に引き出された「頼朝」。「死にとうない。生きて父と母の弔いをしていきたい」と願い出るも死罪が確定する。しかし、この時奇跡が起こるのであります。

死刑が当然の頼朝に、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)が清盛へ助命の嘆願を申し出て断食を始めたとも伝えられ、これには清盛も折れ、頼朝は罪一等を減ぜられ「伊豆の蛭(ひる)が小島」への流罪が決定されたのです。

翌月の3月11日には流罪となった頼朝は、この時14歳であった。また、この日には頼朝の同母弟希義(まれよし)も土佐に配流がきまり旅だったとされています。

流人 頼朝の旅立ち

ここに源義朝の一家は壊滅状態となり、京を追われる頼朝は母由良御前の弟藤原祐範(ゆうはん)が人をつけて見送ってくれたほかは、ごくわずかな人々が供をしただけの寂しいものだったという。保元の乱に勝利し叙爵(じょしゃく)も果たし貴族社会の仲間入りと若くして殿上人(てんじょうびと)にも上り詰めようとした矢先、平治の乱により一転して流人に落ち人生の暗転となっていったが、これら一連の出来事が、後々の頼朝の性格を形作っていくものと推考されるのです。

次回は5月14日投稿予定で、頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流されたところから始まります。ご期待ください。

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本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(2/8)

NHKで放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されています。時を同じく当笑楽日塾の塾生清藤孝さんが頼朝と義経 ―その栄光と確執―を、より深くより分かり易く解説してくださいました。今回から本編に入りますのでご期待ください。

「わらび」地名由来の伝説

蕨市のホームページに「わらび地名の由来」の諸説が載っていますが、その中の一つに、源義経の「立ちのぼる煙を見て藁火村と名付けた」という説が記載されています。では、義経はどの場所からこの煙をみたのでしょうか。

義経の煙を眺めた場所は?

蕨市の隣町、川口の江戸時代には日光社参(しゃさん)のため、徳川将軍が通ったという元例幣使街道(れいへいしかいどう)の荒川スーパー堤防の前に「鎌倉橋記念緑地」(川口市本町8-19)があり、その中に「鎌倉橋の碑」が建てられています。そして、鎌倉時代以前からの主要な幹線道「中ノ道」でもあったことで、「義経記(ぎけいき)」の文も刻まれ、義経はこの地で軍勢を整えたということであります。

物語として、この時、西の方に「煙」が立ちのぼって いた。義経は家臣に「あの煙は何じゃ?」と問えば、「藁(わら)を燃やしているのです」と答えた。義経は「オー藁火(わらひ)か」とつぶやいた。この情景が「藁火」伝説の素になったのではないかと推考するのであります。

≪第一章 源 頼朝≫

江戸時代後期の斎藤月岺(げっしん)が親子三代三十年かけて著した、江戸のガイト誌‐御府内(ごふない)は勿論、江戸の近郊まで長谷川雪旦(せつたん)の描写と相まって超有名な「江戸名所図会の五」に「川口の渡し」の項があり、次のような文が記載されています。『川口の渡し』  (往古(おうこ)は、こかわぐちといへり)。

義経記(ぎけいき)には、九郎御曹子[源義経、1159―89]奥州より鎌倉に至りたまふといへる条下に、『室の八島(むろのやしま)をよそに見て、武蔵国足立郡(あだちごうり)「こかわぐち」に着きたまふ。御曹子御勢(おんぞうしおんぜい)八十五騎にぞなりにける。

按ずるに、渡し場より壱丁ほど南の方の左に府中道と記せる石標(みちしるべ)あり。これ往古(むかし)の奥州海道なり。板橋には附きて、「兵衛佐(ひょうえのすけ)殿[源頼朝、1147-99]は」と問いたまへば、「おととひ、ここを立たせたまひて候」と申す。これより、府中の六所町(ろくしょまち)より玉川を渡りて、相模の平塚へは出でしなり。・・・・』

義経の軍勢、走りに走り平塚に至りなば、頼朝すでに武蔵、相模を制し。さらには、富士川平維盛(これもり)が率いる軍勢2万を迎え討つべく黄瀬川宿(きせがわじゅく)に陣を張る。そこへ義経の軍団ようやく到着するのであります。

乳飲み子の義経と別れて20年、頼朝の家人、土肥実平(どいみさねひら)や熊谷義実(くまがいよしざね)等の警戒は解けず、すぐには面通し叶わず、暫くの時間を要したが、漸く頼朝の面前に迎えられ涙の対面となったのです。

しかし、この瞬間から、頼朝と義経の栄光と確執は、ここから始まるのであります。

源頼朝の出自

源頼朝は、源義朝(よしとも)(河内源氏源為義嫡流)を父に、熱田大神藤原季範(すえのり)の娘・由良御前(ゆらごぜん)を母として、久安3年(1147)に誕生した。場所は京都である。すでに母親の違う二人の異母兄義平(よしひら)、朝長(ともなが)がいたが、母親の違う二人の兄達より、頼朝の母は身分の高い貴族の出身であったがため、頼朝は、生まれながらにして源氏の嫡子に立てられたとされている。

父・義朝の躍進

当初、父の義朝は京都で生まれ成長し、東国の源氏の地盤を強固にしていこうという目論見か京都を離れ、伝来の鎌倉を拠点に南関東にその勢力基盤を築きあげていった。当時の東国では武士たちを中心に様々な 紛争が頻発していたと考えられています。

義朝はそれらに積極的に介入し、上総氏や三浦氏といった周辺の武士団と結託し、千葉氏や大庭氏を服属させ、この武士団の棟梁(とうりょう)として頭角を現してくる。そうした中で生まれたのが頼朝の異母兄の、義平と朝長であった、義平は永治元年(1141)ころの生まれで、母は三浦義明(よしあき)の娘であった。朝長は、天養元年(1144)ころの生まれで、相模の豪族波多野義道(はたのよしみち)の妹であった。

この東国での活躍は、遠く離れた京でも話題となり、鳥羽天皇は、義朝を大抜擢し「下野守(しもつけのかみ)」に任じ、鳥羽天皇や後の後白河天皇となる雅仁(まさひと)親王内親王の「上西門院(じょうさいもんいん)」の皇族たちも含めての護衛を行う軍事貴族とするのです。その時、鎌倉の守りは長男の「義平」に譲り東国を任せていきます。そして、上西門院の女官として仕えていた由良御前と出逢うのです。

頼朝の母「由良御前」の家柄

熱田大宮司藤原季範家は、鳥羽天皇や皇后待賢門院(たいけんもんいん)に一族を上げて近侍し、貴族社会にネットワークを強めていた家柄でした。長子の範忠(のりただ)は雅仁親王に仕え、後に後白河天皇として践祚(せんそ)すると藤原家の家名も強くなっていくのです。そして、この後白河天皇の姉が「上西門院」であり、ここに由良御前が女官として仕えていたのです。

この母の関係から、頼朝は幼少時代から朝廷の仲間入りを果たし「上西門院」に仕えるようになるのです。

御曹子頼朝

その勢いのある義朝のもとで、頼朝は誕生したのである。成人後も、常に二寸(約6センチ)の銀製の正観音像を信仰していますが、これは頼朝が三歳の時、その将来を祈願して、清水寺に参篭(さんろう)した乳母が、霊夢のお告げを受けて忽然として得たものだという。

頼朝は終生これを髷に結わいつけ大切にしていくのです。

その乳母は文献に4名登場しています。頼朝に仕えた乳母は東国武士出身の女性が多く、下野の武士小山政光(おやままさみつ)の妻寒河尼(さむかわのあま)、相模の武士山内俊通(やまのうちとしみち)の妻山内尼(やまのうちのあま)などである。

また、武蔵国比企(ひき)郡を請所(うけしょ)として下ってきた比企掃部允(ひきかもんのじょう)の妻比企尼(ひきのあま)、そして、下級貴族三善康信(みよしやすのぶ)の伯母(母の姉)も頼朝の乳母を司(つと)めています。清水寺に参篭(さんろう)した乳母がどなたかはわかりませんが、いずれにしても大切に育てられたことは事実であったのです。

次回は5月11日投稿予定で「保元の乱」から始まります。ご期待ください。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

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頼朝と義経 ―その栄光と確執―(1/8)

2022年3月10日(木)20時より、笑楽日塾 オンライン公開講座 PartⅡ第8回「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」が開催されました。

笑楽日塾のオンライン公開講座も今回が20回目となり、予定していた講座すべてが終了いたしました。

奥州から頼朝の下へ85騎で駆け付ける義経が、蕨のお隣川口で軍勢を整えたという話からスタートし、今NHKで放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では描ききれない世界を詳しく解説してくださいました。今回は公演内容を8回に分けて水曜日と土曜日に投稿しますが、まずは塾長の挨拶とこれまでにご紹介しました19回の講座を振り返ってみます。

≪荒井塾長挨拶≫

皆さん こんばんは 笑楽日塾の荒井貞夫です。

今夜はオンライン公開講座にご参加いただき、誠に有り難うございます。オンライン講座開催に当たり、一言ご挨拶申し上げます。

実は、今夜がオンライン公開講座の最終回です。これまでの講座を振り返りたいと存じます。

一回目から今夜の20回目までをご紹介いたします。

1回目 2020年8月13日  :高木輝雄  料理用包丁と砥石

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2020/08/19/083000

2回目    9月10日   :吉田喜義  世界に橋を架ける

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2020/09/16/060000

3回目    10月8日   :先崎 隆  江戸の大名庭園

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2020/10/21/060000

4回目    11月12日  :荒井貞夫  鉄道の始まり

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2020/12/02/063000

5回目    12月10日  :八木 守  弓道の真善美

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/01/13/060000

6回目 2021年1月14日  :南 英倫  電動機と製鉄

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/02/10/060000

7回目    2月11日   :菊地正浩  蕨の土地

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/03/10/060000

8回目    3月11日   :内田 茂  個人情報の話

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/04/07/060000

9回目    4月8日   :荒川徳広  ビールの話

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/05/12/060000

10回目    5月13日   :新井 斉  マンションの話

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/06/09/060000

11回目    6月10日   :清藤 孝  蕨城主 渋川公の話

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/07/07/060000

12回目    7月8日   :栗原秀人  下水道のふかーい話

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/08/11/060000

ここからPart-2に入りました

13回目 2021年8月12日  :新井邦夫  シニアの地域活動

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/09/15/060000

14回目    9月9日   :前田則義  地球に優しい緑のカーテン

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/10/20/060000

15回目    10月14日  :吉田喜義 海外コンサルタント生活タイ・カンボジア

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2021/11/17/060000

16回目    11月11日  :岩田好廣  日本人だから知っておきたい箸のマナー

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2022/01/05/060000

17回目    12月9日   :荒井貞夫  新幹線電車発祥の地は何処ですか

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2022/01/19/060000

18回目 2022年1月13日  :菊地正浩  手漉き和紙の里・探訪記

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2022/03/02/060000

19回目    2月10日   :岩田好廣  加速する温暖化

https://warabijyuku.hatenablog.com/entry/2022/03/30/060000

20回目    3月10日   :清藤 孝  頼朝と義経 その確執と栄光 ≪5月7日投稿分から本編に入ります≫

この20回の中にはSDGsに関係の深い講座がありました。それは、12回目 栗原さんの「下水道のふかーい話」、14回目 前田さんの「地球に優しい緑のカーテン」、19回目 岩田さんの「加速する温暖化」です。

これら20回分を記念誌にまとめました

第一集として 第1回から第6回まで 2021年6月1日 発行。

第二集として 第7回から第12回まで 2021年10月1日 発行。

第三集1/2として 第13回から第16回まで 2022年4月1日 発行。

第三集2/2として 第17回から第20回まで 2022年5月1日 発行。

皆様に支えられて20の講座を修了することが出来ました。

この講座を蕨ケーブルビジョンがWinkの番組で放送して下さり、多くの視聴者からご声援を頂きました。

また、いつの日か皆様とお会い出来る事を願って、オンライン講座最終回の挨拶とします。

今日の講座は塾生清藤孝さんによる「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」でございます。

 

次回の5月7日から清藤孝さんが解説してくだました「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の本編に入ります。まずは、「わらび」地名の由来伝説や源頼朝の出自(しゅつじ)からです。ご期待ください。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

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東京の小さな美術館

当笑楽日塾の塾生間では様々な情報が飛び交い、皆さんが知識として共有しています。先日は塾生のお1人からメールが届き『美術館・博物館巡りのご趣味が高じ「東京の小さな美術館」を調べ、まとめられた』とか。早速塾内で共有いたしましたので、皆様にもご紹介します。

以下はご本人のメッセージですが、お近くにお住いの皆様は是非ともご参考にしてください。

『大きな美術館や博物館はありますが住宅街の一角とか、閑静な場所にあったりとか、特定のジャンルだったりとかの「ちいさな美術館リスト」を閑にまかせて作成しましたので宜しければ、ご活用願います。

すでに行ったところもあるのですが、まだ行ったことのない所はコロナ禍でなかなか行けません。

終息したら一気に行こうと考えています。

埼玉県坂「ちいさな美術館」リストもあると楽しいと思います。

蕨には「河鍋暁斎記念美術館」がありますね。』

なお、ご本人は弓道に精通しておられ、笑楽日塾の第5回オンライン公開講座弓道の真善美」では熱弁を振るっていただきました。

また、書画にも深い知識をお持ちで、全く才能のない私にはうらやましい限り。昨年7月14日には当ブログ『塾生の趣味(特技)紹介「絵手紙」』でご紹介しています。

 

蕨の小さな美術館「河鍋暁斎記念美術館」をご紹介します(河鍋暁斎記念美術館HPより)。

公益財団法人 河鍋暁斎記念美術館 にて、今後開催予定の展覧会

5月の企画展は「古今東西暁斎人物図鑑」展(仮称)

開催期間:2022年5月1日(日)〜2022年6月25日(土)

〒335-0003 埼玉県蕨市南町4-36-4

電話:048-441-9780

開館時間:10:00~16:00

休館日:木曜日、毎月26日~末日、年末年始

料金:大人300円(200円) ※500円(400円) 中~大学生200円(100円) ※400円(300円) 小学生以下100円 ※200円(100円) ※は特別展時の料金 ( )内は団体(20名以上)料金 (要予約)

アクセス:京浜東北線西川口駅」下車。徒歩約15分 (西川口駅西口の交番に当館までの地図あり) 「西川口駅」よりバスの場合:国際興業バス西川64 (西川口駅西口 ー蕨駅西口ゆき)にて、「南町ボンプ場前」で下車、 徒歩3分 【お車の方】 駐車場 7台分 有

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません

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