笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

コロナ禍明け初のリアル塾会

昨年の夏(2023年8月3日)、荒井貞夫塾長から次のようなメールが届きました。

塾生各位

年々暑さが厳しくなって、今日も外はもう36℃です。

お変わりございませんか。

8月10日はリアルな会合を行います。

当日は事前に人数分の買い物(飲食用)をしますので、各自出欠の確認を8月7日(月)までに返信してください。

17時30分開始―19時30分解散です。

という内容でした。

塾生全員が一堂に会して話し合う塾会は新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、2020年2月20日開催以降中止。その後は感染者数も増減を繰り返していたためリアルな会合には踏み切れず、この後はパソコンに向かいZOOMと格闘の日々。各自が自宅から参加できるZOOMはコロナ禍において大変貴重なツールでした。そんなコロナ騒動も3年半経った2023年8月10日には落ち着いたと判断し、待ちに待った全員が同じ場所に集まり顔を合わせて行うことに。

≪会合の様子を翌日(2023年8月11日)塾長がまとめてくださいましたのでご紹介します。≫

2020年2月20日以来となる顔の見える塾会となりました。

会場は3年半前と同じ部屋でエアコン適度に効いて快適。気軽に楽しく談笑する事が出来ました。

事前に有志4名が近所のスーパーマーケットで食料の買い出し。お酒に詳しい塾生から美味しいワインの差し入れも場を盛り上げます。

世間話を始めいろいろな話題が語られました。意外にも病気とか健康とか体の事が話題に出なかったのは、各自がシニアとして充実した日々を過ごし、いろいろな所で何かしら関わりを持っていて、そこから生み出される豊富な話題を持っているからと感じました。

例えば、

・夏祭り(盆踊り)の準備を6月から始めて、8月に決算が終わった(約80万円近い費用)。2日間で4千人ぐらい踊った。

・公民館の建物検査を蕨市の委託を受けて実施した。それぞれの公民館で何らかの欠陥が見つかった。

マイナンバーカードのエラーが多い。入力間違いは何処にでもある。初期故障のようなもんだから軌道に乗るまで騒がない方がいい。同姓同名同誕生日もあり得るから名寄せしてもミスは生じるだろう。

・みんなが注目したことは蕨駅西口再開発だった。

蕨駅西口再開発の工事はいつから始まるのか気にされている方が多くおられます。8月2日に指名された大手建設会社3社による入札の結果、M建設が新築工事(28階建て2棟420戸)を受注したようです(公式発表はない)。9月から工事着工の見込みのようですがその前に近隣への住民説明会が開催されます。2022年8月から解体工事を請け負っていたT建設は今年6月20日に解体工事が完了した。

・議会も問題視していない問題としては、高さ3mの真っ白な塀で囲まれて中は見えないものの、その塀に「建設計画の概要」が貼り付けてある。それには竣工予定が2025年8月と記載されている。これから2年で完成する訳がない。コンサルタント会社は、竣工は2027年3月と見ている。

これから4年近く我々は駅へ行くのに迂回せねばならない。ロータリーが整備された蕨駅西口を一日も早く見たいもの。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

オンライン公開講座(7/7)

コロナ禍における笑楽日塾の活動「オンライン公開講座」を再度ご紹介しています。今回の第19回~第20回分が最終回になります。

第19回講座:加速する温暖化(1/5)

第19回講座:加速する温暖化(2/5)

第19回講座:加速する温暖化(3/5)

第19回講座:加速する温暖化(4/5)

第19回講座:加速する温暖化(5/5)

 

第20回講座:頼朝と義経~栄光と確執~(1/8)

第20回講座:頼朝と義経~栄光と確執~(2/8)

第20回講座:頼朝と義経~栄光と確執~(3/8)

第20回講座:頼朝と義経~栄光と確執~(4/8)

第20回講座:頼朝と義経~栄光と確執~(5/8)

第20回講座:頼朝と義経~栄光と確執~(6/8)

第20回講座:頼朝と義経~栄光と確執~(7/8)

第20回講座:頼朝と義経~栄光と確執~(8/8)

 

コロナ禍の笑楽日塾が開催したオンライン公開講座、20回分を再度ご紹介しました。講座の内容が皆様にとって興味をお持ちいただけましたら幸いです。

オンライン公開講座(6/7)

コロナ禍における笑楽日塾の活動「オンライン公開講座」を再度ご紹介しています。6日目の今回は第17回~第18回になります。

 

第17回講座:新幹線電車発祥の地はどこですか(1/6)

第17回講座:新幹線電車発祥の地はどこですか(2/6)

第17回講座:新幹線電車発祥の地はどこですか(3/6)

第17回講座:新幹線電車発祥の地はどこですか(4/6)

第17回講座:新幹線電車発祥の地はどこですか(5/6)

第17回講座:新幹線電車発祥の地はどこですか(6/6)

 

第18回講座:手漉き和紙の里探訪記(1/6)

第18回講座:手漉き和紙の里探訪記(2/6)

第18回講座:手漉き和紙の里探訪記(3/6)

第18回講座:手漉き和紙の里探訪記(4/6)

第18回講座:手漉き和紙の里探訪記(5/6)

第18回講座:手漉き和紙の里探訪記(6/6)


明日は第19回~第20回分が最終回になります。

オンライン公開講座(5/7)

コロナ禍における笑楽日塾の活動「オンライン公開講座」を再度ご紹介しています。5日目の今回は第14回~第16回になります。

 

第14回講座:環境にやさしい緑のカーテン(1/3)

第14回講座:環境にやさしい緑のカーテン(2/3)

第14回講座:環境にやさしい緑のカーテン(3/3)

 

第15回講座:海外コンサルタント生活タイ、カンボジア編(1/4)

第15回講座:海外コンサルタント生活タイ、カンボジア編(2/4)

第15回講座:海外コンサルタント生活タイ、カンボジア編(3/4)

第15回講座:海外コンサルタント生活タイ、カンボジア編(4/4)

 

第16回講座:日本人だから知っておきたい箸のマナー(1/4)

第16回講座:日本人だから知っておきたい箸のマナー(2/4)

第16回講座:日本人だから知っておきたい箸のマナー(3/4)

第16回講座:日本人だから知っておきたい箸のマナー(4/4)

 

明日は第17回~第18回になります。

オンライン公開講座(4/7)

コロナ禍における笑楽日塾の活動「オンライン公開講座」を再度ご紹介しています。4日目の今回は第11回~第13回になります。

 

第11回講座:蕨城主 渋川氏の話(1/4)

第11回講座:蕨城主 渋川氏の話(2/4)

第11回講座:蕨城主 渋川氏の話(3/4)

第11回講座:蕨城主 渋川氏の話(4/4)

 

第12回講座:下水道の深~い話

 

第13回講座:シニアの地域活動(1/6)

第13回講座:シニアの地域活動(2/6)

第13回講座:シニアの地域活動(3/6)

第13回講座:シニアの地域活動(4/6)

第13回講座:シニアの地域活動(5/6)

第13回講座:シニアの地域活動(6/6)

 

明日は第14回~第16回になります。

オンライン公開講座(3/7)

コロナ禍における笑楽日塾の活動「オンライン公開講座」を再度ご紹介しています。3日目の今回は第9回~第10回になります。

 

第9回講座:ビールの話(1/4)

第9回講座:ビールの話(2/4)

第9回講座:ビールの話(3/4)

第9回講座:ビールの話(4/4)

 

第10回講座:マンションの話題(1/4)

第10回講座:マンションの話題(2/4)

第10回講座:マンションの話題(3/4)

第10回講座:マンションの話題(4/4)

 

明日は第11回~第13回になります。

オンライン公開講座(2/7)

コロナ禍における笑楽日塾の活動「オンライン公開講座」を再度ご紹介しています。2日目の今回は第5回~第8回になります。

 

第5回講座:弓道の真善美(1/4)

第5回講座:弓道の真善美(2/4)

第5回講座:弓道の真善美(3/4)

第5回講座:弓道の真善美(4/4)

 

第6回講座:電動機と製鉄(1/2)

第6回講座:電動機と製鉄(2/2)

 

第7回講座:蕨の土地

 

第8回講座:個人情報とは

 

明日は第9回~第10回になります。

オンライン公開講座(1/7)

毎月1回一堂に会して行われていた笑楽日塾の塾会も、新型コロナウイルス感染拡大の影響で集まることが出来なくなり、会の場をZOOMミーティングに変えて開催することになりました。しかし塾生によるZOOMミーティングだけでは盛り上がりに欠けることに気付き、更に上を目指すため「塾生以外の方とも交流の場を作りたい」との思いから、オンラインによる公開講座の開催に至ったことは流石です。

今回から1週間はコロナ禍の活動「オンラインによる公開講座」を振り返り、7日間連続でアップします。塾生だけに拘らず塾外の方にも講師をお願いして20回開催。それぞれの専門分野の方のお話は圧巻そのもの。興味を持たれるお話しも多いことと思いますので是非ご堪能ください。

 

初日の今回は全20回のうち第1回~第4回までをご紹介します。

第1回講座:料理用包丁と砥石

 

第2回講座:世界に橋を架ける

 

第3回講座:江戸の大名庭園

 

第4回講座:鉄道の始まり(1/5)

第4回講座:鉄道の始まり(2/5)

第4回講座:鉄道の始まり(3/5)

第4回講座:鉄道の始まり(4/5)

第4回講座:鉄道の始まり(5/5)

 

明日は第5回~第8回です。

SDGs

前回は久しぶりの投稿でしたのでブログ作成の経緯や蕨市の歴史など、初心に戻って意気込みを思い出してみました。今回も当時の実績を振り返ってみます。

当ブログ「笑楽日塾の事件簿」は管理人である私のボケ防止、暇つぶし、備忘録の他、高齢者の地域活動参加のキッカケ作りに役立ちたいとの思いから書き始めました。時の流れは恐ろしいもので内容も途中からは少し方向が変わり、SDGs 17ゴール13番目の地球環境問題にも多くのスペースを割くようになったことにも驚きです。これには子供たちの未来に私たち大人が禍根を残してはならないとの思いからです。「誰ひとり取り残さず解決し、美しい地球を後世へ繋ぐ。」素晴らしいフレーズですね。笑楽日塾では2018年の暮に「SDGs」という言葉が塾会の話題に上がり、初めて聞いたときには「なんのこっちゃ」と思ったものです。その後は塾生全員と地域社会を巻き込んでの勉強会を行っています。

2019年10月6日(日)蕨市の旭町公民館に於いて、市民の方にも参加に参加していただく講演会としては3回目の「私たちの暮らしと地球温暖化」を開催。講師にはアクティブシニアの地域デビューを後押しする「埼玉県 環境アドバイザー」や「環境省 地球温暖化防止 コミュニケーター」等でご活躍されている前田則義様にお願いし、環境問題をお話しいただきました。この時の内容は8回に分けて投稿していますのでご紹介します。なお、このセミナーは2019年10月に行われたものですのでご考慮ください。

warabijyuku.hatenablog.com

また、2021年10月5日にはマスコミが一斉に報道した『日本人の物理学者真鍋淑郎博士が嘗て発表していた「地球温暖化予測のための大気海洋結合モデル」が評価され、ノーベル物理学賞受賞が決まった』とのニュースで盛り上がりました。

後追いの感はありますが、我が蕨市も広報誌「広報WARABI」2021年11月号にSDGs 12番目の「作る責任 使う責任」の特集を取り上げています。

https://www.city.warabi.saitama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/052/202111honshi.pdf

なお、埼玉県でSDGsの先輩格行政、三芳町の「Miyoshi(広報みよし)」には2019年12月号に特集記事が載っています。これを見た時には身震いするほどの刺激を受けました。

https://www.town.saitama-miyoshi.lg.jp/town/koho/2019_12.html

2019年の笑楽日塾は講演会やシンポジウム・公開講座を開催しましたが、その後は新型コロナウイス感染拡に伴い、大勢の方にお集まりいただく公開講座等は自粛しています。この間の活動は皆様がご自宅から参加できるオンライン公開講座(無料)『あなたの知らなかった世界への扉を開いてみませんか』を計画し、多くの方に参加していただきました。このお話は次回のブログで紹介しますが、オンライン公開講座は終了していますのでご承知おきください。

当ブログの他にも塾生が運営するホームページ『笑楽日塾』もありますので是非そちらも併せてご覧ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

復活のご挨拶

ご無沙汰しております。

勤務先の現場が変わったため昨年11月から超多忙になってしまい、ブログ更新の手抜きをしてしまいました。その慌ただしさもようやく落ち着いてきましたので、これからは目標としている週1回の更新に戻りたいたいと思っています。

ブロブの管理人とマンションの管理人をしている私が、W管理人の『管理太郎』として2020年7月19日から投稿し始め、早いもので3年半経ちました。今回は昨年11月からの復活初回でもあり、3年半の間に途中からご覧いただいている方もおられますので、より分かり易くするために初回投稿分を引用して蕨市や笑楽日塾の紹介から始めてみます。

タイトルは『笑楽日塾の事件簿』などと大層な名前を付けましたが、当ブログでは殺人事件は起きませんし名探偵も登場しません。タイトルはミステリー好きな管理人の単なる気まぐれですので気楽にお付き合いください。埼玉県と蕨市を愛してやまない管理人が笑楽日塾の活動を軸に、構成上の脈絡もなく淡々と綴る備忘録もどきのものとご承知おきください。

笑楽日塾は埼玉県蕨市で活動する団体ということで蕨市の歴史を少し紹介します。

蕨は江戸時代に整備した中山道板橋宿の次に位置する2番目の宿場『蕨宿』として発展し、大名の参勤交代や生活物資の運搬にも街道の中継点として重要な役割を果たしました。蛇足ですが、蕨と板橋の距離について三代目三遊亭金馬師匠は、古典落語『雑排』の中に登場する人物の「八っつぁん」が『蕨とは板橋からは一里半』と詠んでいます。ただし、正確にはもう少し長いようです。また、蕨は江戸時代後期から昭和30年代頃までは織物業が盛んになりました。絹糸に比べて丈夫で着心地の良い綿糸を使った織物は、蕨の特産品双子織の先駆けになる「ニタ子縞」の開発によって大きく町の発展に貢献しました。

今では全国的に行われている成人式(蕨市では成年式と呼ばれ、蕨城址公園の中にこの記念像がある)発祥の町でもあります。

 

笑楽日塾とは 埼玉県南部に位置し、全国に数ある市の中で面積が1番小さく、人口密度は全国の市町村で最も高い蕨市で活動する、『就労からリタイアした、又はリタイア間近な男の集団』です。

男の集団『笑楽日塾』は2018年1月『これまでの人生で得た知識を塾生の間で分かち合おう』『余裕の出来た時間を使って地元のお役にも立ちたい』との意気込みで、既にリタイアした男13名・リタイア間近の男2名の計15名で立ち上げ誕生しました。

笑楽日塾は今から6年前に発足しています。当ブログ内では当時と現在の出来事が混在しており多少混乱するかもしれませんが、出来るだけ分かりやすく進めたいと思っていますのでご承知おきください。また、笑楽日塾6年間の歴史と経緯を綴ったこのブログを、多くのリタイアされた男性やリタイア間近の方に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで、社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

当ブログは笑楽日塾の日々の活動を脈絡なく書きなぐりますが、個人情報保護のため多少理解し難いことがあるかもしれません。スケジュールとしては毎週水曜日の更新を予定していますので、お手すきの時にでもお立ち寄りください。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

笑楽日塾塾会

2023年11月9日は17時30分から笑楽日塾の塾会が開催されました。一堂に集まっての塾会は8月10日以来3ヶ月ぶりで、2時間にわたって楽しい時間を過ごしました。ZOOMを利用した塾会は毎月行っているものの、1ヶ所に集まって顔を突き合わせての塾会に比べたら残念ながらものたりない。今回は軽くお酒も入って場も盛り上がり、本音のトークで楽しさも倍増。塾生には多忙な方も多いため、1年ぶりに出席された方もおられて嬉しい再会。様々な活動をされている蕨の高齢者集団笑楽日塾、塾会の様子をご紹介します。

荒井塾長挨拶:これまで笑楽日塾は塾生の皆さんが体験された仕事や、各種の地域貢献ボランティア活動等々について順番を決めて書いたり語ったりして5年間をやってきました。世の中は今年の5月から変化が見られ、コロナがいつ自分の身に降りかかるのかその心配や、恐れていた日々への人々の認識が薄れ、次第に普通の日常に戻ってきた感じがします。

笑楽日塾も少し変化しても良いかなと考えています。もっと気楽に、語り合えればいい。シニアの心地よい居場所になれば良い。記念誌発行も6号の準備に入りますが、塾生へノルマを設けず気楽にやりたい。

今夜は8月以来の3ヶ月ぶりの対面となりました。皆様のご健勝と塾生Aさんが大好きな阪神タイガースの優勝を祝して乾杯したいと存じます。

 

【塾生の皆さんが最近遭遇した話題を語りました】

世間話を始めいろいろな話題が語られました。意外にも病気とか健康とか体の事が話題に出なかったのは、各自がシニアとして充実した日々を過ごし、いろいろな所で何かしら関わりを持っていて、そこから生み出される豊富な話題を持っているからと感じました。

塾生Aさん:38年前掛布、バース、岡田の大活躍で阪神タイガースが優勝したときはクエートで仕事していた。優勝の感激の瞬間を見られなかった。日本から送ってくれたビデオを何回も観た。今回は第7戦までもつれ込んだ激戦を毎回楽しんだ。最後の優勝の瞬間は感激し泣いた。阪神タイガースを応援してきて良かった。

塾生Bさん:蕨市がマンション住民への関心を高めてきている。マンションの諸問題に関して「マンションアドバイザー」としてマンションへ出向き講演している。派遣費は蕨市が負担。市内7つの公民館の耐震診断、設備診断を全部引き受けることになった。

塾生Cさん:町会の青年部で活動している。お祭りを手伝ったり、包丁や鎌を研いだりして喜ばれている。キッズゴルフ支援で関西へ行った。子供たちの面倒を見て、楽しかった。

 

塾生Dさん:あちこち小さな旅を楽しんでいる。今年の紅葉はかなり遅れているが、これからは紅葉の季節になるのでお出かけしたい。

塾生Eさん:公民館で活動している。生涯学習フェスティバルでは工作教室を開いて感謝された。最近感じるのは、蕨が変化していない、進化していない。何かが欠けている気がする。

塾生Fさん:先月自宅マンションの通常総会。新しい役員を決めようとしたが、なり手が少なかった。高齢化したマンションの共通の悩みだ。一方で、3~4年後には3回目の大規模修繕を予定しているので、経験者が大事だ。これまで理事長をやってきたが、これからも管理組合の副理事長として手伝っていくつもり。

塾生Gさん:高齢化しているマンションと同じで、町会の活動で苦労している。土橋地区の四つの町会が持ち回りで当番町会を担当している。今年の盆踊りはうちの町会だった。4年前同様に盆踊りをやろうとしても詳しく仕切れる人がいないので、結局私が担当する事になった。幸い天気にも恵まれ大勢が来場し、踊ってくれて大成功だった。しかし、いつまでやっていけるかそれが悩みだ。

塾生Hさん:いろいろな事を頼まれて忙しい毎日を過ごしている。福島へ新型発電所の視察にも行った。きょうは子供の時に経験した東京大空襲に関する新聞記事を持って逃げ回ったことを話した。

塾生Iさん:9年間務めたマンションの管理人も75歳で定年退職。もう後期高齢者だから仕事はやらないことにしていたが、知人に近所のマンション管理人を紹介された。自宅からも近いのでやっても良いかと考えている。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

蕨郵便局立てこもり事件

テレビ等マスコミでも大きく取り上げられましたので皆様ご存じのことと思いますが、10月31日14時過ぎに笑楽日塾が活動する埼玉県蕨市の蕨郵便局で、銃を持った男による立てこもり事件が発生しました。

当ブログでは「蕨市は全国の市の中で最も面積が小さく人口密度は全国の市町村で最も高い、今では全国的に行われている成人式(蕨では成年式と言う)発祥の地です。」と紹介し、多くの方に蕨の名前を知っていただき親しんでいただこうとしてきました。しかし、思いもしなかったとんでもない事件で一瞬にして名前が全国区になってしまいました。

埼玉県や蕨市を紹介している「笑楽日塾の事件簿」として取り上げないわけにはいきませんので、今回の事件における私個人の係わりや笑楽日塾との係わりを少し書いてみます。

先ずは蕨市のホームページから

昨日発生した蕨郵便局立てこもり事件は、昨日午後10時20分頃に警察により犯人の身柄が確保されました。蕨市では、警察と連携し、防災行政無線等での注意喚起や子ども達の学校での待機措置と保護者のお迎え、市民体育館への避難所開設など、対応にあたりました。何はともあれ、犯人が逮捕され、郵便局内に取り残されていた2人の職員も無事で、ホッとしました。

この度の一連の事件で被害に遭われた方々に、市長として、心よりお見舞いを申し上げます。また、旧中山道の交通規制や周辺の立ち入り規制、児童生徒などの学校での待機やお迎えなど、市民の皆さんにはご協力をいただき、ありがとうございました。

以上が「郵便局立てこもり事件について(市長メッセージ)令和5年11月1日」の抜粋です。

拳銃を持った男による立てこもり事件が起きた蕨郵便局は事件翌日の11月1日から3日まで全業務を休止し、4日以降はATMなど一部のサービスに限って再開。6日午後からは6日ぶりに通常営業を再開しました。

蕨郵便局から最も近い小学校「蕨市立中央小学校」には400名弱の児童が在籍していますが、安全のために児童を下校させずに校内に待機させました。午後5時半頃から警察車両で近くの市民体育館に移動させ、保護者の迎えを待って引き渡したそうです。3時間以上も校舎内で待機させられた児童には「よく頑張った!」と、褒めてあげたいもの。

この中央小学校では毎週月曜日の午後に「放課後子ども教室」が開設されています。笑楽日塾の塾生1名が実行委員長を務め、私を含めた塾生5名がボランティアスタッフとして活動しています。また、近隣の有志の方々約10名もボランティアスタッフとして活動されています。事件の前日10月30日(月)は放課後子ども教室の開設日で、私達スタッフは午後2時に学校に集合し5時過ぎに解散していました。もし事件が前日に起きていたら塾生6名を含めた教室のスタッフ全員が児童と一緒に校内待機になったことと推察されます。

蕨郵便局から南に約1.5キロ離れた戸田市戸田中央総合病院でも発砲事件が発生しました。戸田市には、以前私がマンションの管理人としてお世話になっていたマンションがあり、戸田中央総合病院は自宅と勤務先の通勤路近くにあるため、私も何かと便利で時々お世話になっていました。嘗て私が2泊3日で入院した鼠経ヘルニアの手術もここでお願いしています。今回の発砲事件では被害に遭った男性2人が負傷したそうですが、1日も早い回復をお祈りします。

今回の事件は犯人の男が「自宅アパートに放火」「戸田中央総合病院で発砲」「蕨郵便局に立てこもり」の順に展開しましたが、犯人の男の自宅アパートは私が戸田市で管理人をしていたマンションの近くにあり、時々お昼の弁当を買いに行っていたスーパーマーケットの側でした。

何時何処で災難に遭うか分かりませんので「街中を歩く時もボケッとしていてはいけない」等、今回の件では身近な問題としていろいろと考えさせられましたが、本来の蕨は自然災害の少ない住みやすい街です。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

会報誌「笑楽日塾だより⑥秋祭り・御神輿の記憶」

私事で暫くの間ブログ書きから遠ざかってしまいましたが、少し落ち着いてきましたので様子を見ながら再開したいと思います。皆様にはご都合の良い時にでもお付き合いいただくと嬉しいです。

私の都合には関係なく笑楽日塾は毎月活動しており、会報紙「笑楽日塾だより」は毎月末に発行しています。2023年10月31日発行分には荒井貞夫塾長が「秋祭り・御神輿の記憶」と題し、子供時代に田舎で楽しんだ記憶や、10月7日・8日の2日間に久しぶり行われた秋祭のことを書かれています。以下に紹介しますのでご覧ください。

子供の頃、私が住んでいた田舎の村では、大きなイベントは5月に雷電神社例大祭、8月に盆踊り、11月に御神輿があった。楽しみの少なかった子供時代はこの三つが大きな印象として残っている。中でも御神輿は地元の小さな八幡神社に納められていて、その日だけ神輿蔵から出されて、担ぎ棒を麻縄で締めて、飾り物を着けて完成。

神輿は集落を回る。神輿が来る合図は直径2尺の鐘(黄銅製)を太い竹竿につるして、それを二人で前後に担いで、鐘を石で叩きながら走ってくる。その鐘の音が、神輿がやってくる合図。神輿は集落毎に有力者の大きな家の広い庭に担ぎ込まれて休息し、接待を受ける。

基本は今も同じだ。

ピーヒャラ♫ピーヒャラと篠笛が鳴り、ドンドンカッカ ドンカッカ♪と祭太鼓が響き、わっしょい!わっしょい!と威勢良く御神輿が練り歩く。

世の中はウクライナ対ロシア、イスラエルハマスパレスチナ)などの悲しいニュースやネットでは心ない言葉が飛び交ってうんざりしている。

それでもそこから一番遠い反対側にあるのがこの秋祭りだ。電波もスマホも要らない顔の見える人間関係はホントにいいもんだと思う。

祭の前日: 10月6日に笑楽日塾塾生の1人が神輿の会場となる広場にテントを設置する作業の手伝いに参加した。

祭の初日:7日には別の塾生が神酒所の設営を手伝い、10時に和楽備神社の神主が来て、神酒所でお祓いをし、御神輿へ御霊入れを行った。

お祓いが済んだミニサイズの「子供神輿・山車」が自宅マンションまでやってきた。祭のはっぴ姿のおじいちゃんやアニキに先導されながら「ワッショイ! ワッショイ!」と子ども達の声が響き渡る。なんてかけがえのない時間なんだろう。

子供神輿・山車が立ち上がるときはマンションを代表して塾生の1人が拍子木を「シャシャシャン シャ シャシャン シャン」と打って癸を入れた。

子供の時に体験した小さな御神輿の手触りと、かわいい「ワッショイ! ワッショイ!」が、大人になって大きく重たい御神輿を担いで威勢の良い「わっしょい!わっしょい!」に繋がっていくだろう。

年に2日の秋祭りは夢のような時間と体験が詰まっていて、このささやかな喜び体験を重ねていくことがキット豊かな人生になっていくのだと思う。

祭の2日目:8日には大人神輿がマンションへやってきて、みんなで担ぎ手の人たちを接待した。

神輿は7分休息後、マンション理事長が拍子木を「シャシャシャン シャシャシャン シャン」と打って癸を入れて立ち上がっていった。。

その夜には、マンションの人たち親子40人で打ち上げのパーティをやって大いに飲んで騒いで祭の締めをした。

子供の頃を思い出し、5年ぶりに復活した秋の祭を手伝って、「お祭りは、伝統文化を引き継ぎ地域の交流を広げ、きずなを深め、街を元気にするとともに、子ども達がふるさと蕨を実感することができる、素晴らしい伝統行事だ」と言う事を実感した。

以上が「笑楽日塾だより10月号」に載った塾長荒井貞夫の「秋祭り・御神輿の記憶」でした。お祭りは子供の時はもちろん大人になってからも楽しいですね。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。


本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

ある日車OBの鉄道ボランティア活動記録 ≪第3話≫

2019年10月14日「新幹線電車発祥の地・記念碑建立」蕨工場の跡地正面に記念碑が建立された

芝園団地の場所は、かつて埼玉県北足立郡芝村と呼ばれていました。芝村は、昭和15年1940年に川口市に合併し、川口市芝となりました。一方、芝園団地の向い側が北足立郡蕨町でした。蕨町は64年前、昭和34年に蕨市になりました。

この場所で、敗戦から15年後の昭和35年に新幹線電車の設計が始まりました。

Q1 どうして記念碑を設置する場所が芝園団地なのでしょうか。

それでは、その歴史といきさつをご説明しましょう。

日本には、世界に誇れる技術がたくさんありますがその中で、開発されてから50年以上ずーと進化し続けて、世界中の鉄道専門家が、あれは日本のオリジナルだ、日本人が世界に先駆けて開発したんだと認める技術、それが新幹線電車です。

59年前、いきなり時速210キロを実現して、世界をあっと言わせた夢の超特急・新幹線電車の第一号車はどこで作られ、どこの駅から出発していったのでしょうか。その源流を探っていくと川口市芝園団地と最寄りの蕨駅に突き当たるのです。

Q2 どうしてこの地で、世界最初の新幹線電車が作られるようになったのでしょうか

それは、今から89年前に東京にあった天野工場が芝村に移転してきたことから始まりました。今から151年前、明治5年(1872)陰暦9月12日、現在の暦で10月14日、日本で最初の鉄道が、皆様ご存じのように、新橋~横浜間 現在の汐留~桜木町間に28.8km開通しました。

このときに使われた機関車・客車・貨車は全てイギリスからの輸入でした。それから二十数年経って、日清戦争から日露戦争の頃に、日本で鉄道車両国産化の機運が芽生えてきます。その先駆けとなったのが、今から127年前、明治29年(1896)9月に名古屋に操業した日本車輌です。

それから2ヶ月後に、東京に天野工場が創業しました。

この両社は、大正9年(1920)に合併し、天野工場が、昭和9年(1934)4月に芝村へ移転してきました。

Q3 どうして、蕨町ではなく芝村になったのでしょうか?

それは当初、日本車輌では蕨町と交渉し、町民・地主の快諾を得ていましたが、そこへ隣の芝村の村民から工場誘致の猛烈な運動が起こり、両町村間で激しい工場の争奪戦が繰り広げられることになりました。

この争奪戦は、芝村の村民が同村の将来の発展のために時価の半額くらいで工場敷地を提供するとしたので結局、日本車輌は蕨町に隣接する芝村に工場を建設することにしました。

日本車輌が購入した土地は38,000坪(約125,000㎡)に及びました。

日本車輌は、昭和9年(1934)4月に東京支店天野工場の芝村への移転を完了し、芝村に移転された同社の工場は、日本車両・東京支店・蕨工場と称されることになりました。

Q4 芝村に鉄道車両工場が出来た頃の日本はどんな時代でしたか?

この蕨工場が出来た頃の日本は戦争の時代でした。昭和6年から、満州事変、日華事変、日中戦争、太平洋戦争と14年間続いた戦時体制は敗戦とともに全て解体されました。昭和20年8月15日、終戦のその日も車も貨車も動いていました。戦争に負けた虚脱感の中でも汽車が動いていたというのは、鉄道関係者の仕事への熱い使命感があったからです。そして鉄道が機能していたことが、戦後いち早く日本が復興する原動力になったのです。

戦争に敗れた日本は、戦後、大きな混乱と苦難の道を歩みました。

戦後、廃墟の中から日本が立ち上がっていく過程には、技術革新に取り組む日本人が持つ不屈の魂があったわけですが、特に鉄道面では国民を鼓舞する新幹線建設へ動き出す訳です。多くの反対を説得して踏み切った大事業が、国民の明日への希望へとつながっていったと思います。

Q5 世界最初の新幹線電車の試運転はいつ、どこで行われたのですか?

新幹線電車の試作車は、昭和37年4月25日に芝にあった蕨工場で完成し、汽車製造による車両と連結して新幹線生みの親である十河信二国鉄総裁を迎えて蕨工場で、試運転が行われました。この試作車はその後、蕨駅から約100km離れた小田原近くの鴨宮の実験線へ運ばれ、数々の速度記録を打ち立てました。

Q6 新幹線が世界に与えたインパクトは大きかったのでしょうね?

東海道新幹線は59年前、東京オリンピックの10日前、昭和39年(1964)10月1日に開業しました。

東海道新幹線は日本の経済発展を支える大動脈になり、日本の高度経済成長期を象徴する存在になったのです。これが刺激になって、17年後にフランスで高速鉄道TGVが、27年後にドイツで高速鉄道ICEが開業しました。

戦後、世界の鉄道界をリードしていた誇り高いフランスが、日本に追いつこうとしましたが、TGVの開発に17年掛かったのです、ドイツでICEが開業したのは、更に10年後でした。

これは新幹線電車の総合技術開発が、いかに難しく、困難で、優れたものであったかを物語るものです。その基礎を固め先端を拓いたのが芝にあった蕨工場なのです。

そこで働いたのは蕨や川口の人たち、その人たちの日々の暮らしを支えたのが川口や蕨の商店街の人たちでした。

Q7 芝にあった蕨工場は何処へ行ったのですか?

蕨工場は51年前、昭和47年4月に、愛知県豊川市に移転しました。

豊川では、世界最初の新幹線電車を生んだ偉大な蕨工場の名前を生かして、その工場の名前を豊川蕨製作所と改名しました。 

蕨工場で開発され培われた0系新幹線電車の技術が豊川に引き継がれ、2019年8月2日に豊川で、新幹線電車製造4,000両という大記録が打ち立てられました。

10月14日の記念碑の除幕式にはかつて、蕨工場で汗を流し、営業や、設計や製造に携わった人たちも参列されました。

かつてこの場所で、強い信念と大きな使命感を持って、厳しい仕事に取り組み、激しい情熱を傾けながらも、失敗を重ねたときの苦労や辛い思い出、多くの失敗を乗り越えてつかんだ成功への喜びが、この記念碑にいっぱい、いっぱい詰まっています。

Q8 この記念碑を製作したのは誰ですか

記念碑の原案デザインは私がやりました。2枚の新幹線電車の写真は日本車輌が提供してくれました。これを川口市栄町にある株式会社一粒工芸・栗原社長が最終デザインと製作を担当しました。

Q9 新幹線に関係する記念碑は他にもありますか

新幹線発祥の地・記念碑という物は、既に2つございます。それじゃ今日で3つ目かと言うと全く違う物です。

二つの内の一つは、東海道新幹線のモデル線・鴨宮基地があった所に建っています。

これは、日本国有鉄道東海道新幹線開業10周年を記念して49年前の昭和49年8月に建てた物です。東海道線鴨宮駅から西へ約600mの所に建っています。線路の内側にあって、一般の人には見ることが出来ません

もう一つは、東海道線鴨宮駅南口に14年前の平成21年4月に地元の人たちが建てた物です。

これら二つの記念碑は【新幹線発祥の地】となっています。それは新幹線という車両・架線・軌道・信号・通信・変電・駅舎・運転制御などの高速鉄道全体を示す物です。

一方、私たちがこれから除幕しますのは、それらの中で最も重要な車両・新幹線電車なのです。こちらは【新幹線電車発祥の地】なのです。新幹線発祥の地と新幹線電車発祥の地は違う物なのです

Q10 記念碑の協力者はどなたですか

この記念碑は芝園団地自治会の皆様、川口北ロータリークラブ会員の皆様、蕨ロータリークラブ会員の皆様、日本車輌OBの方々とUR都市再生機構の絶大なご支援とご協力により建立されました。

Q11 代表の荒井さんのお気持ちを:

この記念碑がこれから世界に誇れる新幹線電車の輝かしい歴史を伝える礎になることを願っています。(これは10月14日除幕式での私の挨拶をQ&Aで表現したものです。2019年10月11日FMラジオ川口で放送された内容とほぼ同じです。年月は現在に置き換え)

≪除幕して頂いた人々≫

日本車輌OB有志 新幹線電車設計者   代表 石田昌彦 様

川口北ロータリークラブ         会長 田中一任 様

日本車輌OB有志 日車100友会      会長代行 前田 功 様

ロータリークラブ                会長 中村泰司 様

日本車輌OB有志 日車蕨工場OB会     会長 野澤三郎 様

芝園団地自治会                       会長 真下徹也 様

東日本旅客鉄道株式会社大宮支社 蕨駅 駅長 丸山 浩 様 

(独)都市再生機構 埼玉エリア経営部団地マネージャー 遠藤正毅 様

川口芝園商店会            会長 金澤暢徳 様

新幹線電車発祥の地 記念碑建立実行委員会代表 荒井貞夫

≪除幕式に参列して≫

日本車輌OB  前田 功様から⇒荒井貞夫への手紙(2019年10月19日)

10月14日開催の【新幹線電車発祥の地記念碑】除幕式では大変お世話になり誠に有り難うございました。

立派な記念碑が完成し、席上、荒井さんの挨拶もそれに相応しい立派なご挨拶でした。原稿も見ずによくあれだけの内容お話しされるものだと荒井さんの頭脳明晰さに感心いたしました。集まられた方々も理解されたことと思います。

その後、祝宴の席で偶々荒井さんと対面で座り、今回の記念碑建立について更に詳しく話を聞けて、このプロジェクトに掛けた荒井さんの執念と熱意に感動しました。

その情熱がなければ、到底実現されなかったものと思います。

私は48年間日本車輌に在籍しましたが、日本車輌を退職した後、本体の日本車輌JR東海の傘下に入り、子会社となり、出向先の日車開発(株)かずさCCはアコーディア・ゴルフに売却されました。私は日本車輌国鉄はじめ民鉄、産業車両、海外の鉄道営業に携わった25年間、その後出向して房総の名門コースを目指したかずさCC運営の23年間は一体なんだったのだろうと忸怩たる思いを持っていました。

それが今回の記念碑建立により永久に私の名前が刻まれたことは当時新幹線電車の営業を担当した者として望外の喜びであります。

私は、この記念碑を前にして、日本車輌JR東海蕨市川口市、地域のロータリークラブ芝園団地自治会、UR都市再生機構等数多くのセクションの壁を説得しクリアして乗り越えられた荒井さんのご苦労を忘れることは出来ません。

この記念碑は、今は芝園団地となり、跡形もない日本車輌の蕨工場こそが世界に冠たる新幹線電車の発祥の地なんだと言うことを世間に知らしめるべくその執念と熱意が実ったものであり、正にそれを実行された荒井貞夫氏の金字塔であります。

私はいったん消え去ってしまった日本車輌の輝かしい足跡がここに残されたことを心から喜んでおります。誠に有り難うございました。感謝と心からのお礼を込めてご挨拶と致します。

≪なぜ記念碑を建てようとしたのか≫

私は2007年8月に、それまで約9年間暮らしたインドネシア合弁会社から帰国後、鉄車工の代表として、国立科学博物館に2年間勤務し、鉄道の歴史を研究発表する機会に恵まれました。

これが契機になってその後、経産省から頼まれてベトナムのコンテナ輸送計画、国交省・JICAから依頼されて「富士」と「はやぶさ」のブルートレインをマレーシアで復活させるプロジェクトを任され、JICAの依頼でカイロ地下鉄を手伝うなど日車退職後に活躍の場が広がりました。これは私の力ではなく日本車輌というブランドへの信頼と尊い歴史のお陰です。

その後は地元で学校や市役所、公民館などのボランティア活動を通じて蕨や川口とつながりを持つようになりました。

国立科学博物館での調査研究が実って、川口や蕨で、埼玉県庁や科学博物館、電気学会で鉄道の歴史を発表する機会がありました。

鉄道の歴史、新幹線の歴史を語りながら、私が18歳から育った蕨工場の歴史・世界最初の新幹線電車が蕨工場で開発された歴史を語る内に、新幹線電車の開発・製造に従業員が一丸となって取り組んだ情熱と輝かしい成果を話だけでなく形として後生に残しておきたいと言う熱い想いが湧いてきました。そして記念碑を建立したいという気持ちが高まり、機会ある毎にあちこちでその実現を訴えるようになりました。

特に大きかったのは平成25年(2013)に蕨駅開業120周年記念事業を実施したことでした。このとき私は蕨駅開業120周年記念事業実行委員会事務局長として各方面へ働きかけました。その中で記念碑建立を訴え続けました。また、蕨や川口で講演する度に記念碑を設置しようと呼びかけました。

蕨では、和樂備神社境内に約1m四方の大きな赤御影石があって、これをただで使っていいと申し出てくれました。また、御影石への彫り込みは地元の石屋さん(石勘)がこれも無料で彫ってくれると地元の神社総代表・野島善蔵氏が話をつけてくれました。

ここまでは良かったのですが、思わぬ落とし穴が待っていました。期待していた駅前広場への設置がかなわず、諦めざるを得ませんでした。

その後も川口郷土史会や公民館事業で講演したり、川口のFMラジオを通じて講演したりして機会ある毎に記念碑建立を提案してきました。その頃は、建設資金はどうするのか等は考えていませんでした。動き出せばなんとかなると。

しかし、なかなかその機会はやってきませんでした。それから4年経って、芝園団地が平成30年に開業40周年を迎える事を聞きつけ、平成29年8月に芝園団地自治会(韮沢会長)を訪問し記念碑設置の構想をお話しました。しかし、このときは前へ進めませんでした。

それから更に1年ほど経って、芝園団地自治会・事務局長/岡﨑広樹氏に私が塾長を務める笑楽日塾(ワラビジュク)で「外国人との共生」と題して平成30年10月18日に講演していただき、このとき40周年事業として記念碑の構想を岡崎氏へ説明し、岡崎氏から前向きの感触を得ました。

銀座で弁護士事務所を開いている須田清氏から川口北ロータリークラブでの講演(「世界最初の新幹線電車は蕨工場で生まれた」)を依頼されました(平成30年10月24日に講演)。このとき記念碑のこと、設置場所のこと、予算のことを訴えました。須田会長からロータリークラブが「協力する、資金援助もする」との力強い発言を頂きました。

一方、岡崎氏と設置場所について団地内の候補地を探して歩き、岡崎氏から土地の所有者であるUR都市再生機構へつないでいただき、設置場所が決まりました。

懸案だった設置場所が決まったので、2019年6月になって、日本車輌OBへ働きかけ募金活動を始めました。川口北ロータリークラブ田中会長)から蕨ロータリークラブ(中村会長)へお口添えしていただき蕨ロータリークラブからも資金援助の確約をいただきました。

もう一つの壁は「0系新幹線電車」という用語の使用や記念碑に刻む写真の提供についてJR東海日本車輌のご了解を得ることでした。幸い日車・総務部・野田逸男氏が根回ししてくださり2019年7月に了解を得ました。

最初は安価なアルミ複合板に印刷する事を考えていましたが、これでは耐久性に問題がある事から、頑丈なステンレス製に設計変更しました。価格は3倍以上になりましたが、結果的にはこの決断は正解でした。

碑文は蕨工場OB・大川浩平氏のアドバイスを受けました。制作者の一粒工芸にはポリスチレンの板に実物大に印刷した碑文と写真を貼り付けて、設置現場へ持ち込んでいただき、大きさや高さなどの感触を確かめました。

記念碑の設置作業はUR都市再生機構が設置場所の整地を含め、頑丈な基礎工事、設置工事を施工してくださいました。

こうして、多くの関係者の絶大なご支援とご協力により99名が参列の元に2019年10月14日鉄道の日に除幕することが出来ました。

私がこのようなプロジェクトを完遂出来たのは日本車輌というブランドのお陰と感謝しています。日本車輌への深い愛着と郷愁はOBの方々の誰もが持っています。

いま、ここに記念碑が出来てあなたが来るのを、そして全国の鉄道フアンが来られるのを蕨駅でお待ちしております

新幹線電車発祥の地記念碑建立実行委員会 代表 荒井貞夫

 

蕨工場物語(抄録)

≪蕨工場への愛着と誇り≫

蕨工場がなくなってから52年経ちました。当時40歳前後のバリバリの働き盛りの人たちにとっても、まだ入社間もない頃の人たちにとっても小田急の特急車・0系新幹線電車・長野電鉄秩父鉄道福島交通・富山鉄道・小湊鉄道、数多くのタンク車など日車蕨工場が世に送り出した多くの優れた製品と係わってきたことへの誇りはその後歩んだ道が異なっても一生忘れえぬ思い出となっていることでしょう

≪昭和45年12月14日 蕨工場閉鎖発表のころ

日本車輌社長 清水靖夫氏の回想 (40年前の出来事)平成21年9月2日聴取

  • 夜中の12時が回る頃、組合の提示は、3ヶ月間給料は要りません。無給で働きますということ。
  • そして朝方4時頃の提案は,社員みんなが親戚などから一人3百万円ぐらいを集めてきます。それでも蕨は救えないのですかというものでしたと聞いています。
  • 天野社長は新幹線一番列車で泣きながら、顔からハンカチが離せなかったと、本人から聞いています。
  • その後、出社せず、1ヶ月ぐらいかな、出社してきて、社長室の連中に神経性下痢で食べたもののすぐにトイレで会社に来られなかったと打ち明けてくれました。つらかったと思います。
  • 今、皆さんが蕨工場OB会で昔の上下の隔てなく、蕨工場を懐かしみ会えることは本当に有り難いことだと思いますし、その原点は天野さんの苦渋の決断と蕨工場を支えた皆様の真心にあると今でも私は思っています。
  • 毎年の蕨工場OB会を何時までも末永く続けてください。

≪豊川の声≫

52年前、耐え難い苦難を乗り越え、辛い別れを忍んで1,540名が退職されました。 

豊川へ転勤された方々は慣れない土地で蕨の技術を生かして豊川蕨製作所に新しい命を吹き込み、素晴らしい製品を作り上げていきました。元製造部次長中根進氏は【移転前後に蕨から多くの事を学んだ。蕨があったから今日の日車がある】と語っていました。

≪或る日の蕨での語り≫

蕨工場閉鎖から52年が経ちました。きょうお集まりの皆様は誰もが日車を愛し、蕨工場の発展に尽くされました。しかし突然遭遇した苦難の道を歩まねばなりませんでした。これからの人生・仕事探し、家族のことを思いどんなに心細い日々を過ごしたことでしょうか。正に耐えがたきを耐えて、暗い坂道を上ってきました。遠い昔の出来事とはいえ一生忘れることが出来ません。来年も様々な思い出を語り合いまし ょう!

≪蕨工場は新聞に何回か取り上げられました 3件ご紹介いたします≫

終戦記念日埼玉新聞が取り上げました。

蕨は埼玉県で熊谷に次いで2番目に大きな空襲・爆撃を受けました。しかし、蕨工場は一度も被害に遭いませんでした。それはそこに米軍の捕虜がいたこと及び、

これは私の説ですが、

連合軍は戦後復興を考えて、鉄道車両工場を爆撃しなかったというものです。これは私の調査結果です。これを裏付ける記録があります。国はGHQ連合軍総司令部)の指令により、昭和20年(1945)9月18日に、向こう1年以内に完成すべき車両として、蒸気機関車310両、電気機関車86両、客車・電車1,200両、貨車2,100両の合計3,696両の大量発注を行いました。これはまだ終戦後一ヶ月余りのことでした。

終戦時物資が極端に不足して、国民が空腹を抱えて飢えに苦しんでいた最も困難な時期に、ほとんどの工場が戦争による内地空襲で壊滅的打撃を受けて停止状態のこの時期に、これだけ大量の鉄道車両生産が始まったことは信じがたいことです

が、これは事実です。当時「戦後復興は鉄道から….」

というスローガンがありましたが、これはそれが本当であったことを裏付けるものであります。

 

≪昭和37年(1962)4月25日 蕨工場試運転線 あれから60年≫

2023年5月 日本車輌・車輌技術部OB会に寄せてこの冊子を作りました

笑楽日塾の活動は下記ホームページに載せていますので是非ご参照ください。

笑楽日塾塾長荒井貞夫の鉄道に対する思いを3回に分けてご紹介しました。当ブログはまた少しお休みしますが、10月中頃には復活したいと考えています。その節はまたよろしくお願いします。

 

ある日車OBの鉄道ボランティア活動記録 ≪第2話≫

2023年5月6日BSフジテレビ放送 「鉄道伝説」マレーシアで復活したブルートレイン物語

「鉄道伝説 マラヤン・タイガー・トレイン~海外で甦ったブルートレイン14系客車~」

マレーシアのブルートレイン「マラヤン・タイガートレイン」。実はこの車両は、以前日本の国鉄で作られた、14系客車である。かつて、人気のブルートレインとして日本で活躍をしていたが、ブルートレインとしては平成20年頃に引退。国内では使い道が無くなっていたが、遠くマレーシアの地で第二の人生を走り始めていたのだ。

この車両譲渡のプロジェクトが動き出したのは平成21年。だが、その過程は一筋縄では行かない、苦労の連続であった。

一時は座礁しかけたプロジェクトだったが、たまたま関わることになった一人の日本人の献身的な奮闘と努力によって、14系客車は無事にマレーシアの地で再び線路の上を走り始めることになった。

ブルートレインの引退】

平成21(2009)年3月15日。寝台特急「富士」と「はやぶさ」のラストランで、東京駅は鉄道ファンの熱気に包まれていた。ブルートレインの愛称で親しまれた、東京と九州を結ぶ長距離寝台特急がこの日で引退を迎えたのである。

ブルートレインは昭和50年代にブームを巻き起こし、東京と九州の間を中心に東北線北陸線、山陰線などでも数多くの列車が運行された。

だがその後、自動車や航空機にシェアを奪われて次第にその数を減らしていた。

そのブルートレインに使われていた代表的な車両が14系客車である。客車の電源を電源車からではなく、床下のディーゼル発電機でまかなう「分散電源方式」を国鉄の特急用客車として初めて採用したため編成の自由度が高く、分割併合を行う寝台特急で活躍した。

だが14系客車は、客車列車自体が減ったこともあってブルートレインがなくなった後は行き場を失い、そのほとんどが廃車となった。

だが、まだ十分使用できる車両も多く、一部の車両は、海を越えて第二の人生を歩むこととなった。その頃、東南アジアのマレーシアでも、旅客需要が増加しつつある一方、現有車両の老朽化が進み、有効車両が不足していた。

そして平成21(2009)年、この車両不足を解消するために、マレーシア運輸省から日本政府に対して中古車両譲渡の要請がなされたのだ。

この要請を受けて日本側では、JR西日本JR九州から、ブルートレインなどで使われていた14系客車を無償で譲渡することを決定。

早速、翌年にマレーシアに向けて14系客車など14両が輸出されることとなり、平成22(2010)年12月10日に、14系客車がマレーシアに到着した。

【マレーシア鉄道への14系客車譲渡】

マレーシアに14系客車が到着してしばらく経った、平成23(2011)年1月。鉄道車両メーカー・日本車両製造OBの荒井貞夫のもとに、国土交通省から一本の電話があった。

「マレーシアで客車の走行試験があるので、それに立ち会ってもらえないだろうか」その話は荒井にとって、まさに「青天の霹靂」であった。

【荒井さんインタビュー】

「私は客車のことなんて全く詳しくないのに、どうして自分なのか、本当に驚いた」荒井は車両メーカーの社員ではあったが客車の専門家ではなかった。ただ、合計12年半インドネシアに赴任していたのでインドネシア語に長けていた。マレー語とインドネシア語はほとんど同じなので、荒井の語学力を見込んでの依頼だったのだ。

しかし、この時点では、どんな客車の試運転かすらわからなかったが、2月に霞が関で行われた関係者のミーティングでようやく概要がわかってきた。

前年にマレーシアに渡った中古の14系客車について、現地でセミナーを行って欲しい、というのが国土交通省からの依頼内容だった。

【荒井さんインタビュー】

「客車の専門家ではない私のところに来るくらいだから、そんなに難しい話は必要ないんだろうと思ったんですよ。だから慌ててJRで客車のメンテナンス指導をやっていた方を紹介してもらって一生懸命勉強して、それで私がマレーシアでセミナーを行うことになったんです」荒井は軽い気持ちでこの依頼を引き受けて、平成23(2011)年5月、単身でマレーシアへと渡り、クアラルンプールから200㎞離れたBatu Gajaにある鉄道研修所でセミナーを開催。朝から夕方まで車両構造とメンテナンスに関する講義を行った。

全ての講義が終了し、荒井が席を離れようとした、その時だった。

「帰ってもらっては困る」「俺たちは図面と取扱説明書はもらっているが、さっぱり理解できない。電源車を使わないで、自車で発電してエアコンやコンプレッサーを動かすなんて全く経験がない。トイレも循環式という電気で動かす方式は初めてだ」セミナーの参加者たちは口々にこういって、荒井に泣きついたのだ。

翌日の夜の便で帰国予定だった荒井も、この訴えにはすっかり困り果ててしまった。

そのころマレーシアで使われていた客車は、電源車からの電源で客車の照明などが賄われる、いわゆる「集中電源方式」の客車しかなかった。

だが、日本の14系客車は客車にも電源を備えた「分散電源方式」だったため、集中電源方式の客車しか使ったことがないマレーシアの鉄道マンたちにとって全く未知の車両だった。

そのため、たった一日のセミナーで扱えるような状況ではなく、このままでは全く手に負えないことが明らかになったのだった。

そんな状況で、このまま荒井が予定通りに帰国してしまっては、彼らだけで客車を動かすことはできない。

マレーシア政府の要請にこたえて日本から14系客車を譲渡したものの、このままではせっかくの車両も野ざらしとなって、鉄くずになってしまうだけだ。

この状況に気がついている日本人は、いまここにいる荒井のみだった。

とはいえ、客車の専門家でもない自分に一体何が出来るのだろうか。

荒井は悩みに悩んだ末、大きな決断を下した。

「ここは自分が何とかするしかない」

荒井は急きょ帰国を延期して、クアラルンプールの日本大使館へ駆け込み、現在の窮状を直訴した。

「このままでは客車14両はごみになってしまう。これを解決するには日本へ研修生を送って、客車の操作、メンテナンスを教え込まないといけない。なんとか大使館から国土交通省へ依頼して、滞在費と旅費を工面して欲しい」この時対応した矢島一等書記官は、荒井の訴えに驚きながらも真摯に対応。迅速に日本の国土交通省に連絡を取って対応を検討。

そして数日後にはマレーシア鉄道の職員を日本に派遣し研修を受けてもらうことが決まったのである。

14系客車の操作やメンテナンスの研修をするには、実際に14系客車を運用しているところで行うのが望ましい。ところが、すでに日本ではブルートレインがなくなり、14系客車で運用している列車はほとんど無くなっていたため、受け入れ先探しが難航する。

せっかくここまで話が進んだのに、客車14両はやはりこのまま鉄くずとなってしまうのだろうか……

そう思いかけた矢先、あるところが受け入れ先として急浮上してくる。それがJR北海道だった。その当時JR北海道では、札幌〜青森間で急行「はまなす」を14系客車で運行していたのだ。荒井は国土交通省経由でJR北海道に研修受け入れを依頼、なんとか許可を出してもらった。荒井は研修カリキュラムを作り、ついにJR北海道での3週間の研修が決定する。

そうした研修の手配の一方で、荒井は改造工事の指導にもあたることとなり、7月に再びマレーシアへとわたる。

日本から持ってきた14系客車は、そのままマレーシアで運転できるわけではない。日本とマレーシアでは、レールの幅=軌間が異なるためである。

日本のJR在来線は軌間が1067mmだが、マレーシアでは1000mm。そのため、左右の車輪の巾を67mm狭めなくてはならない。それに伴い、ブレーキ等の位置も変える必要がある。

それ以前に、放置されていた客車は赤錆が浮いている状態で、まず外装工事からはじめて、台車の改造に取りかかった。

【マレーシアからの研修生】

平成23(2011)年8月6日。早くもマレーシアからの研修生8名が研修のために来日。

荒井がマレーシアでセミナーを行ってから、まだ3ヶ月も経っていないという、異例の早さでの実現だった。

成田空港に到着した研修生8名は、上野から寝台特急北斗星」に乗車して、一路北海道へ移動。これは、日本の客車列車の素晴らしさを体感してもらおうという、日本側の粋な計らいであった。翌日、北海道に到着した研修生たちは早速、実際の14系客車を用いての研修に入ることになった。

これまでのマレー鉄道公社(KTMB)で使われていた客車は電源車から電気の供給を受けるタイプの車両だった。一方、14系客車は電源車を必要とせず、発電機を搭載している。その電気を使って、照明や空調設備、トイレなどを稼動。さらには電気でコンプレッサーを回し、空気バネやドアエンジンなどに圧縮空気を送っている。

電源制御盤、空調制御盤、トイレ制御盤など多くのスイッチ、さらにはブレーカーやリレーなど、これらの操作方法をわずか3週間で学ばねばならないのだ。

また、日常のメンテナンス方法や始業前・終業後の検査方法、毎月の検査、3か月毎の検査、緊急時の対応など研修生たちが学ばなくてはならないことは山のようにあった。

それを必死で学ぼうとする研修生たちに、日本の技術者たちは経験に裏打ちされた技術を惜しげもなく一つ一つ伝授していった。

昼間は実際の車両を使って実技で学び、夕方からは座学で復習するという、手厚い体制で研修は行われた。

研修の中で荒井が最も重要視したのが、長い間(約30か月間)一度も動かさなかったエンジンや発電機を再起動する際の手順と注意事項であった。

いきなりエンジンのスターターのスイッチを入れると、油切れの状態のピストンが焼き付いてしまい、使用不能になってしまうのだ。

床下に潜って、6気筒エンジンのピストンに手でたっぷりと潤滑油をかけてやり、油が十分に馴染んでから、エンジンのスターターを起動しなくてはならない。

その他にも循環式トイレの汚水抜き取り作業、電気連結器(ジャンパーカプラー)の手入れ方法など、細かい手順についても研修が重ねられていった。

おりしも、この8月はイスラム教のラマダン=断食月(=8月1日から29日まで)にあたっていた、それでもマレーシアの研修生は断食に耐えながら、祖国のためにと札幌で毎日毎晩研修を受け続けた。

【車両試験】

マレー鉄道の職員たちが日本で受ける研修と平行して、マレーシアでは車両の改造作業が進められていた。そして9月になり、最初に完成した4両が工場から運び出される。

この車両を使って、日本での研修を終えて帰国した研修生8名が、早速日本で学んだ技術をマレーシアで確認。

荒井も見守る中、マニュアルを確認して一つずつ手順を確認しながらエンジンを始動。エンジンはうなりをあげて回り出し、照明も作動。2年半ぶりの始動を無事に成功させることが出来た。

その後、不具合の調整作業や各種の試験が実施された後、実際に走行させて乗り心地や各種の性能を確認する試験運転が実施されることとなった。

試運転は10/6から10/12にかけて行われ、現地のマレー鉄道公社のスタッフと、荒井が乗り込んで1730kmを走行。最高速度を日本より低めの時速105kmに設定した高速走行試験や、ブレーキ停止試験などが念入りに実施され、安全性を確認。

また、騒音や乗り心地も日本時代と全く遜色ない、心地よいものであった。

14系客車は車体幅が2900㎜あり、マレー鉄道の従来の客車よりも100㎜以上広い。そのため駅に入るときにはプラットホームに車体がこすられるのではないかという懸念があったため、慎重に目視しながら、ゆっくりと入線。車体とプラットホームとの間がおよそ50mmしかなかったため、その場で煉瓦製のプラットホームを100㎜削るように指示が出された。

荒井たちはこの試験運転の間、ずっと列車で寝起きした。

日本のように、駅近くにコンビニや駅の売店、駅弁などはマレーシアにはないため、時々長時間停車する時に駅前のレストランで食事をとるのだが、停車時間が短い時には屋台の食事を買って食べるしかなかった。

マレーシアならではの大変さもあったものの、試運転も無事に完了。準備の作業が一通り終了し、いよいよ実際の運用に臨むこととなった。

【マレーシアで第二の人生始動】

平成23(2011)年10月25日、タイとの国境に近いワカバル駅で、14系客車のプレ開業式(試乗会)が行われることとなった。

マレー鉄道社長、政府観光省、地元クランタン州のVIPが出席した席上で、この列車は「マラヤン・タイガー・トレイン」(マレーの虎)と命名された。

こうして、見た目もすっかり生まれ変わった14系客車は、12月19日から正式に営業運転を開始。 開業式にはマレーシアの運輸大臣や日本のマレーシア全権大使も出席するなど、生まれ変わった14系客車、マラヤン・タイガー・トレインの門出が華々しく祝われた。

ついに日本のブルートレインが、海を渡った異国の地で第二の人生を走り始めたのである。

マラヤン・タイガー・トレインの車内は、内装があらたに施されてきれいになったものの、寝台などは日本で走っていた時とほぼ同じままであった。

初便の運行でも大きなトラブルもなく終点まで運行されて、

乗車した人々は「振動や騒音も少なく乗り心地は大変良い」「まるでホテルのようだ」と口々に絶賛。

【荒井さんインタビュー】

「思えば1月19日の一本の電話から始まったプロジェクトですが、その時点では、このような大きな注目を浴びるプロジェクトになろうとは想像つきませんでした。

私は多くの人に教わりながら、手探りでプロジェクトに取り組んできました。」

昭和50年代に、日本で大人気だったブルートレイン。ブームが去った後、一部の車両は海外で第二の人生を歩み始めることとなり、マレーシアの地にも14系客車が渡ることとなった。

だが、日本からマレーシアに渡ったのは、車両だけではない。荒井たち日本の鉄道マンは、長年培った技術と、鉄道にかける熱い情熱をマレーシアへと伝えた。

そしてマレーシアの鉄道マンは、見事にそれにこたえてみせた。その証がマラヤン・タイガー・トレインなのである。

14系客車がマレーシアで再び引退しても、日本から伝えた技術と情熱は失われることはなく、これからもマレーシアの鉄道を支え続けていくだろう。

鉄道を愛する人々の、飽くなき努力と英知によって生み出された伝説は、永遠に輝き続ける。

【シナリオ原稿・監修】  荒井貞夫

【映像写真協力】 荒井貞夫

【演出】 野田真外

 

次回の第3話は2019年10月14日に、蕨工場の跡地正面に「新幹線電車発祥の地・記念碑建立」の物語です。

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに載せていますので是非ご参照ください。

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