笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

豊島区「延命地蔵尊」

前回に続き2023年2月11日(土)祝日(建国記念の日)に歩いた1人フィールドワークです。JR山手線巣鴨駅から「おばあちゃんの原宿巣鴨地蔵通り商店街をぶらつきながら、旧中山道を北上して蕨市の我が家を目指すも道中は長く途中からは路線バスに逃避。それでも立ち寄った寺社・仏閣・史跡は十数カ所。前回の板橋区観明寺より少し巣鴨駅寄りに戻った豊島区の延命地蔵尊をご紹介します。

中山道都電荒川線の庚申塚駅から少し北上した左側の路地を入るとすぐに延命地蔵堂があります。ただし、この路地の入口は少々分かり難いのが難点。

全国各地に存在する延命地蔵の信仰は江戸時代に最も盛んになったようですが、インドの文献には出てこないらしいので日本だけの信仰だったのか。延命地蔵尊信仰の始まりは新しく生まれた子の加護と、その子の寿命を延ばすという願いから生まれたもの。次第に成人に対しての短命や若死にを免れるためのものになっていったとか。

 

延命地蔵堂の石仏群(以下は堂内の案内板より抜粋)

江戸時代の中山道巣鴨庚申塚付近には、巣鴨町近辺で行き倒れた人馬の共同墓地があった。その墓標として延命地蔵が建立された。以来、さまざまな供養塔が集まった。

昭和二十年(1945)四月十三日の空襲により、延命地蔵堂のすべての石造物が大きな被害をうけた。終戦後、土地の守り地蔵尊として信仰されている延命地蔵を再建し、毎年八月二十四日に法要が行われている。平成二十四年(2012)十一月、地域の民間信仰を示すものとしてその重要性が評価され、豊島区登録有形民俗文化財となった。

≪写真右から≫

徳本名号塔(とくほんみょうごうとう)(文政十一年再建)

徳本は諸国を巡錫(じゅんしゃく)して各地に徳本念仏と呼ばれる念仏講を創成した僧である。独特な筆跡による名号と徳本銘・花押が四面に刻まれている。

題目塔(だいもくとう)

中央に「南無妙法蓮華経」、その左右に「大摩利支尊天」「北辰妙見大菩薩」を配置する三尊形式をとっている。

延命地蔵塔(えんめいじぞうとう)

延命地蔵堂の中心となる地蔵尊である。角柱型の安山岩に、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ半跏座像の地蔵が浮彫されている。

地蔵像庚申塔(じぞうぞうこうしんとう)

この庚申塔については、かつては上部に日月があり、中央に地蔵菩薩立像、その下に三猿が描かれていたという明治期の記録がある。

馬頭観音塔(ばとうかんのんとう)

台座前面の銘は一部欠損しているが、もとは「馬頭観世音」とあったとみられる。

平成二十六年三月       豊島区教育委員会

 

由緒

延命地蔵尊は今から約200年前(文政年間)に建之され、当所に移築されましたのは今から約110年前のことであります。当時は江戸五街道の一つ中山道を通行する旅人が此所で必ず一休みされた。永い旅路につかれ当地で死亡した人馬の霊を供養すべく建之されました。以後毎年八月二十四日を命日とし全人類の平和と幸福を願い供養して居ります。

かつては人々の平均寿命が短かったそうですが、その原因の一つとして乳幼児の死亡率が高かったためと言われています。医療が発達していなかった時代は子供の命を助けるために親が出来ることといえば、神さまや仏さまに頼ることしかなかったのでしょう。次第に成人にも取り入れられ、苦しみや痛みなどを菩薩様に身代わりになってもらう「身代わり地蔵」の信仰が全国各地に生まれたとか。

 

ここからは二十四節気と七十二候です。

二十四節気の一つである「雨水」も3月5日で終わり、6日からはついに「大地が温まり冬眠をしていた虫たちが穴から出てくるころ」と言われる「啓蟄」に変わります。笑楽日塾の塾生1人がリーダーになって管理する「ふるさと土橋公園」や、市内の数か所で目を楽しませてくれる河津桜も2月中頃から咲き始めました。

七十二候も3月1日~5日の間は「草木萠動 (そうもく めばえ いずる)」。庭先や公園などでも草木の芽生えを見られるようになり、3月6日~10日の間は「蟄虫啓戸(ちっちゅう こを ひらく)」。冬ごもりしていた虫(すべての生き物)が春の日差しを浴びて動き出す頃になります。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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