笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

ある日車OBの鉄道ボランティア活動記録 ≪第1話≫

ご無沙汰しております。イレギュラーですが、今日から3日間は当笑楽日塾塾長荒井貞夫が、現役時代に仲間達と歩んできた鉄道人生の回想録をアップします。短めの記事を良しとしてきたブログですが、今回の三篇はいずれも少し長めの読み応えのある作品になりました。ご堪能ください。

第1話:2023年1月14日、BSフジで放送されたドキュメンタリー番組「鉄道伝説 フレームレスタンク車開発物語」(9月16日アップ)

第2話:2023年5月6日、BSフジで放送されたドキュメンタリー番組「鉄道伝説 マレーシアで復活したブルートレイン物語」(9月17日アップ)

第3話:2019年10月14日、蕨工場の跡地正面に「新幹線電車発祥の地・記念碑建立」の物語(9月18日アップ)

以上の3話をご紹介しますが、第1話の「フレームレスタンク車開発物語」はかなり専門的な内容で、多くの方はご存じないお話しだと思います。懐かしいタンク車の写真もあり、その変遷を知ることが出来ます。皆様にとって新しい発見になるものと思いますので是非ともお楽しみくださいください。

≪第1話≫

2023年1月14日BSフジテレビ放送「鉄道伝説」フレームレスタンク車開発物語

鉄道伝説 放送シナリオ。

それは鉄路に命をかけた「男」たちの伝説。時代をつくった「列車」たちの伝説・・・

今回はタンク車・タキ9900形の物語

「鉄道伝説 タンク車・タキ9900形

~台枠をなくしてタンク車を軽量化・大容量化せよ~」

昼夜を分かたず、物流を支えて走り続ける貨物列車。

同じ量の荷物を運ぶのに排出される二酸化炭素の量は、トラックや船に比べて貨物列車の方が低いため、環境に優しい輸送手段として近年注目を集めているが、普段私たちが貨車を目にする機会は少ない。

そんな貨車の中でも、独特のフォルムをもつのがタンク車だ。産業の血液とも呼ばれる石油などを運ぶタンク車は貨車の中でも重要な存在である。

近年は活躍の場が減っているタンク車であるが、平成23年東日本大震災では、被災した道路が使えない状況で、日本中から集めたタンク車が被災地にいち早く大量の石油を送り届ける活躍を見せたことは記憶に新しい。

そんなタンク車の歴史を振り返ると、少しでも多くの石油をより効率的に運ぶために、各車両メーカーがさまざまな技術を生み出してタンク車の開発にしのぎを削ってきた。

中でも愛知県の車両メーカー・日本車両が送り出した斬新なタンク車が昭和35年に登場した異形胴タンクのタキ50000形、そして昭和37年に登場したフレームレスタンク車のタキ9900形である。

それ以前のタンク車よりも飛躍的に多くの石油類を運ぶことを可能にした新技術は、60年経った現在のタンク車にも使われている画期的なものだった。

【日本の私有貨車の歴史】

日本の鉄道による貨物輸送は明治6(1873)年9月に開始された。それは新橋~横浜間に最初の鉄道が開通したわずか1年後のことであった。

貨物を運ぶ貨車には、国鉄や私鉄などの鉄道会社が所有する貨車の他に、一般企業が所有する「私有貨車」がある。

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この「私有貨車」が日本に初めて登場したのは明治33(1900)年2 月。「浅野セメント」の創業者・浅野総一郎が、新潟の石油を運ぶために鉄製筒型タンク車を作ったことに端を発する。そのタンク車は鉄と木で作られた台枠と、直径およそ1.5m の鉄製円筒型リベット構造のタンクで、荷重6トン積の2軸車だった。

大正時代になると、石油以外の化学品の輸送も行われるようになり、濃硫酸や希硫酸などを運ぶタンク車も出現。

また大正3(1914)年には秋田県黒川油田で突然大量の石油が噴出。これを緊急に輸送するため、20トン積タンク車・フア27200形(後にタサ1形)が誕生した。

このようなタンク車のほとんどは、鉄道会社ではなく、企業が所有する私有貨車であった。

国鉄向け貨車の設計は、国鉄が各車両メーカーの設計陣と定期的に「貨車研究会」を開催。そこでの研究を元に国鉄が中心となって標準の設計を定めて、各メーカーに発注を行っていた。

一方タンク車のような私有貨車は、台車やブレーキ、連結器などは国鉄向け貨車と基本的には同じだが、それ以外は各社の独自技術による開発となっていた。

安全面などは国鉄の監督下にあるものの、営業面では全くの自由競争だったのである。

戦後、荒廃した日本。その復興をいち早く進めるために、物流を支える鉄道貨物輸送は必要不可欠な存在だった。

しかし、戦後の日本に進駐してきたGHQは容積が6000ガロン、荷重でおよそ20トンよりも大きい私有タンク車を接収し、海軍の20トン積みタサ700形などが進駐軍の燃料輸送のために使われた。

この接収を回避しようと、この時期は15トン積のタム形式のタンク車が主に製作されたが、その後は次第に20トン積のタサ形式の車に移行していった。

そのような背景で生み出されたのが、昭和21年に作られた20トン積のタンク車、ガソリン専用のタサ1700形と、石油類専用のタサ2400形である。

昭和22(1947)年には30トン積のタンク車、ガソリン専用のタキ3000形(及び石油類専用のタキ1500形)が登場。その後しばらくは タキ3000形が石油輸送の主役として活躍する。

その後の昭和30年代、日本の重厚長大産業の著しい発展は、石油類や化成品の鉄道輸送需要の増大をもたらし、タンク車も目覚ましく進展。昭和30(1955)年度末には4,329両であった私有貨車の総数は、昭和39(1964)年度末には12,735両に達した。

そのような中で、一度により多くの積荷を運ぶことの出来る大型のタンク車の登場が切望されていた。だが、タンク車の重量には制限があるため、容量を増やすために単にタンクを大きくすればいいというわけではない。

鉄道車両において、車軸にかかる重量を「軸重」と呼ぶが、日本の鉄道は区間によって、線路の「耐えられる重さ」=許容軸重がまちまちである。当時は許容軸重によって、特別甲線(18トン)、甲線(16トン)、乙線(15トン)、丙線(13トン)の四等に分けられていた。

タンク車を含む貨車は全国で運用できるように、軸重が13トン以内になるように作られていた。(レール面上は13.5トン)

当時、20トン積み以上の石油タンク車は二軸のボギー台車が前後に付いているのが一般的だったので、一つのタンク車に車軸は4本。つまり全体の重量は13.5かける4で54トンまでとなる。したがって貨車自体の重量が24トンとすれば積荷を30トンまで積むことが出来るが、この「30トン積み」というのが当時のタンク車の限界だった。

だが、「一度の輸送で、できるだけ多くの石油を運びたい」という企業の声は大きく、それに応えるために各車両メーカーでは30トンを超える大型タンク車の開発に乗り出していたが、そのメーカーの一つが、愛知県の日本車輌製造であった。

日本車輌明治29年(1896)の創業以来、電車や客車、貨車を中心に製造。戦後は私有貨車の分野においても技術力や先進性でトップを走っていた。

その日本車両ではタンク車の容量を大きくするために、使用する区間を軸重15トンの乙線までの幹線に限定し、さらに台車の車軸を二軸から三軸に増やすことで一両あたりの総重量を15かける6、つまり90トンまで増やすことにした。

だが、タンクを大きくして積載量を増やす場合、車両限界の関係で幅や高さはこれ以上大きくできないため、長さを伸ばすしかないが、それでは編成が長くなってしまうので車両効率が悪い。

そこで車長を短くするために日本車両が開発したのが「魚腹型異径胴タンク体」である。

それまでのタンク車は、端も真ん中も同じ太さの直胴タンク体を使用していた。だが日本車両は容量を増やすために、中央部分が下に大きく膨らんだ「異径胴タンク体」を開発。タンクの内径は、細い部分で2050mm、大きい部分で2500mmであった。

こうして日本車両では、昭和35(1960)年に日本初となる50トン積のタンク車、(ガソリン専用の)タキ50000形と(石油類専用のタキ55000形)を開発する。

このタキ50000型には、さらにもう一つの新技術として「積空切換ブレーキ」が使われていた。

タンク車ではタンクに積荷が入っている積車時と入っていない空車時で重量が大きく異なるため、ブレーキの利き方が変わってくる。重量が重い時の方がブレーキは利きにくくなるのだ。

そこで重量によってブレーキを使い分けるために、重量が重いと台車枕バネが沈み込む時に高さが変わることを利用して自動的に積車と空車を切り替えるという、画期的な装置を開発した。それが積空切換ブレーキだ。

日本車両の開発した新技術で生み出された大型タンク車・タキ50000形の導入に際しては、これまでに前例の無い大型タンク車ということで、国鉄も含めて度重なる協議が行われた。また完成後も日本車両構内,新鶴見操車場構内で慎重に確認試験が行われ,運転制限は設けられるものの問題なく運用できることが確認された。

この完成後の試験において、異形胴タンクは中央が膨らんでいるので、一般的な直胴タンクよりも重心が低くなり、走行安定性が増すという、思わぬメリットも確認された。

それまでのタンク車の常識を打ち破り、30トン積が主流だった日本に突如登場した50トン積タンク車、3軸ボギー台車・異形胴タンクのタキ50000形は好評で、国鉄では他のメーカーでも50トン車は日本車両式で製造するよう指導した。

こうして日本車両は一躍、タンク車の世界をリードする存在に躍り出たのであった。

【タンク車を軽量化せよ】

主に幹線用に開発された50トン積のタンク車、タキ50000形は従来よりも多くの積荷を一度に運べるので好評を博した。

その一方で、タキ50000形は軸重が大きいため、幹線以外での使用は難しかった。

したがって、地方の線路などに石油などを運ぶためには、内容物を載せかえる手間を考えると、依然として30トン積のタンク車を使わざるを得なかった。

この30トン積のタンク車と同様の長さと重量で、より多くの石油を運びたい、という発注元からの声は、タキ50000形の開発後もますます大きくなっていた。

そこで日本車両は、従来の30トン積のタンク車と同じ総重量で、より多くの積載物を運ぶことの出来る新しいタンク車の開発に着手する。

当然、線路の許容軸重は従来と同じなので、積載物の重量を増やすためには、タンク車自体の重量を減らすしかない。

【タンク車自体は軽量化しながら、タンクは大型化する。】

この一見、相反する命題に取り組んだのが、日本車両で貨車の設計を担当していた植松康忠だった。

植松はまず、車長を増やさずに積載量を増やすために、タキ50000形で使われた「魚腹型異形胴タンク」の採用を決めた。しかしそれだけでは積載量を増やすことは出来ても、自重も増えてしまうので、車両のどこかを5トン分も軽量化しなくてはならない。

一体どこを削って軽量化するのか……? 植松は悩んだ揚げ句にあるアイディアに到達する。

【タンク車の台枠は無くても大丈夫なのではないか?】

タンク車は、前後につけられた台車と、石油などを入れるタンクと、それを支える台枠で構成されている。だが台車とタンクを省略することは出来ない。そこで5トンもの軽量化を実現するためには、台枠を軽くするどこらか、台枠そのものを取っ払って無くしてしまうという、奇想天外なアイディアを植松は実現しようと考えたのだ。

とは言え台枠は、タンクの重量を支えるだけではなく、前後から受ける衝撃に耐えると言う重要な役割がある。特に、タンク車を連結させる時には時速7km前後で衝突させて連結するので、積荷を載せた重い状態でその衝撃に耐えることが必要となる。

台枠無しでこの衝撃にいかに対抗するか……だが植松にはある考えがあった。

【タンク自体に前後からの衝撃を受け止めてもらおう】

当時のタンク車の胴板の厚みは9mmだったが、荷重を支えるだけなら理論的には5mmでも十分であることを植松は知っていたのだ。タンクの強度には問題がないと考えた植松は、タンクの断面に衝撃が均等に分散する設計を苦心して開発する。

そして、タンク体に直接台車を取り付けた試験車両を製作。積荷を載せた状態で150tとも言われる強い衝撃に耐えなくてはならない。実際に時速7kmでぶつけて連結させる試験を実施。その結果、台枠が無くても安全性に問題がないことが確認された。

こうしてそれまでの発想を覆すような、台枠の無い「フレームレスタンク車」、35トン積(ガソリン専用の)タキ9900形と(石油類専用の)タキ9800形を昭和37(1962)年に日本車両が投入する。

驚くべきことには、タキ9900形は積載量を5トン増やして35トン積を実現しながら、全長は30トン車(13.4m)よりも1mも短くなっていた(13.32m)。

たったの1mとはいえ、何両も連ねて走る貨物列車にはメリットは非常に大きかった。

またタンク車の重量が減ると言うことは、輸送全体で見ると石油以外の輸送量が減るので運賃が安くなることになる。タキ9900形は経済的なタンク車として大好評を博し、一時期は日本のガソリンタンク車の市場をほとんど独占する。

昭和37年から41年にかけてタキ9900形(546両)・タキ9800形(496両)合計で1042両が製造されることとなり、北海道から九州まで日本全国で広範囲で、根岸や四日市といった石油基地から発送される大編成の石油専用列車から,1両によるローカル線の少量輸送まで幅広く活躍した。

タキ9900形はフレームレス構造でタンク車の世界に革命を起こした、まさに画期的な車両であった。

【さらに大型化するタンク車】

昭和40年代、高度経済成長に伴ってタンク車はさらに発達。私有貨車全体で昭和49(1974)年度末には20,100両になり、昭和30(1955)年度末の4.6倍に達した。

そんな中、昭和40(1965)年9月には車両メーカー5社によって「貨車研究会タンク車分科会」、後の「私有貨車研究会」が発足する。

この研究会を母体に、各メーカーの共同設計で作られた35トン積の標準タンク車が昭和41(1966)年に登場した、(ガソリン専用の)タキ35000形と、(石油類専用の)タキ45000形である。

タンクは葉巻型の異径胴タンクで、通常の鉄よりも強度を高めた耐候性高張力鋼板=SPAを使用。またそれまでのタンク車は、石油などの内容物が気化するためにタンク上部に「ドーム」と呼ばれる出っ張りを備えていたが、このドームの役割をタンク自体に持たせてドームを無くした「ドームレス構造」を初めて採用した。

このタキ35000形は、初めてフレームレス構造を実現したタキ9900形の後継車両と位置付けられた車両であり、また私有の国鉄貨車としては初めてメーカーの間で仕様を統一した「標準設計方式」を採用した記念すべき車両でもあった。

タキ35000形の登場によって、タキ9900形の製造は昭和41年で終了したものの、その後もタキ35000形などとともに各地でタキ9900形の使用が続いた。

一方でその後もタンク車の大型化は進み、昭和42(1967)年には43トン積タンク車、(ガソリン専用の)タキ43000形と、(石油類専用のタキ44000形)が登場。

これは内陸部の石油中継基地への専用列車用に開発されたタンク車で、運用区間が幹線に限定されていたため軸重を15トンとした。

そして耐候性高張力鋼板とフレームレスで軽量化を図り、それまでの35トン積から43トン積を実現した。

これまでに培われた技術を集めて作られた、タンク車の決定版とも言うべきタキ43000形は「走るパイプライン」ともいわれ、大好評を博した。

その後、保安度の問題で昭和49年からフレームレス構造の製造が中止になるという逆風もあったが、昭和57年から製造が再開された。

平成元年(1989)にはタンク付属品の構造・材料を見直して軽量化を図った、44トン積の(ガソリン専用タンク車)タキ43000形(243000番台)が登場。

さらに平成5(1993)年には、更に荷重を1トン増やした45トン積(ガソリン専用タンク車・)タキ1000形が完成。

最大荷重を実現しただけではなく、運用効率を向上させるためにタンク車では初めての最高速度95km/hの高速走行を可能にした。

最高速度が時速75kmのタキ9900形は、老朽化もあってこの頃から急速に淘汰が進行。

かつてフレームレス構造でタンク車の世界に革命を起こし一世を風靡したタキ9900形は平成20年までにすべての車両が廃車となり、形式消滅した。

タキ9900形が消滅する以前の平成12年、JR北海道が夏季のレール膨張対策のためにタキ9900形などを購入・改造し、散水車として使っていたが、この車両も平成26年に廃車となってしまった。

廃車となって以後、残念なことに保存されたタキ9900形・タキ9800形は一両も存在しない。わずかに、茨城県神栖市の鹿島臨海工業地帯で、災害時用の水タンクとして、タキ9900形のタンクだけが、台車を取り外した状態でいまも残されているが、タンク車の状態のタキ9900形は写真や模型にその姿をとどめるのみとなってしまった。

戦後の高度経済成長を支えて、石油類の輸送を担ってきたタンク車。そのタンク車に「異形胴タンク」を引っさげて革命を起こしたタキ50000形。そして「フレームレス構造」でタンク車の新しい時代を切り開いたタキ9900形。

異形胴タンクとフレームレス構造は、タンク車の輸送効率を飛躍的に高めて、日本の経済成長に大きく貢献。これを開発した植松の名は貨車設計史に永遠に輝き続ける。

普段は経済を支えて走る黒子のような存在のタンク車であるが、タンク車の歴史を大きく塗り替えたタキ50000形とタキ9900形は日本の貨物輸送史に燦然と輝く画期的なタンク車であった。

鉄道を愛する人々の、飽くなき努力と英知によって生み出された伝説は、永遠に輝き続ける。

【シナリオ原稿】 荒井貞夫

【監修】 荒井貞夫 植松康忠 宮坂達也

【演出】 野田真外

【参考文献】

A 「貨車の技術発達系統化調査」(荒井貞夫/国立科学博物館

B 荒井さん資料「貨車とは何か」)

C 荒井さん資料「画期的な石油輸送タンク車の開発」)

D 荒井さん資料「貨車とフレームレスタンク車への質問集」)

E 「貨物鉄道130年史上巻」日本貨物鉄道株式会社

F 「日本の貨車―技術発達史―」社団法人 日本鉄道車両工業会

G 「私有貨車ハンドブック」(私有貨車セミナー編/第三出版)

H 「私有貨車図鑑」(吉岡心平/ネコパブリッシング)

 

次回の第2話は2023年5月6日BSフジテレビ放送 「鉄道伝説」マレーシアで復活したブルートレイン物語です。

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに載せていますので是非ご参照ください。

 

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