笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

ある日車OBの鉄道ボランティア活動記録 ≪第3話≫

2019年10月14日「新幹線電車発祥の地・記念碑建立」蕨工場の跡地正面に記念碑が建立された

芝園団地の場所は、かつて埼玉県北足立郡芝村と呼ばれていました。芝村は、昭和15年1940年に川口市に合併し、川口市芝となりました。一方、芝園団地の向い側が北足立郡蕨町でした。蕨町は64年前、昭和34年に蕨市になりました。

この場所で、敗戦から15年後の昭和35年に新幹線電車の設計が始まりました。

Q1 どうして記念碑を設置する場所が芝園団地なのでしょうか。

それでは、その歴史といきさつをご説明しましょう。

日本には、世界に誇れる技術がたくさんありますがその中で、開発されてから50年以上ずーと進化し続けて、世界中の鉄道専門家が、あれは日本のオリジナルだ、日本人が世界に先駆けて開発したんだと認める技術、それが新幹線電車です。

59年前、いきなり時速210キロを実現して、世界をあっと言わせた夢の超特急・新幹線電車の第一号車はどこで作られ、どこの駅から出発していったのでしょうか。その源流を探っていくと川口市芝園団地と最寄りの蕨駅に突き当たるのです。

Q2 どうしてこの地で、世界最初の新幹線電車が作られるようになったのでしょうか

それは、今から89年前に東京にあった天野工場が芝村に移転してきたことから始まりました。今から151年前、明治5年(1872)陰暦9月12日、現在の暦で10月14日、日本で最初の鉄道が、皆様ご存じのように、新橋~横浜間 現在の汐留~桜木町間に28.8km開通しました。

このときに使われた機関車・客車・貨車は全てイギリスからの輸入でした。それから二十数年経って、日清戦争から日露戦争の頃に、日本で鉄道車両国産化の機運が芽生えてきます。その先駆けとなったのが、今から127年前、明治29年(1896)9月に名古屋に操業した日本車輌です。

それから2ヶ月後に、東京に天野工場が創業しました。

この両社は、大正9年(1920)に合併し、天野工場が、昭和9年(1934)4月に芝村へ移転してきました。

Q3 どうして、蕨町ではなく芝村になったのでしょうか?

それは当初、日本車輌では蕨町と交渉し、町民・地主の快諾を得ていましたが、そこへ隣の芝村の村民から工場誘致の猛烈な運動が起こり、両町村間で激しい工場の争奪戦が繰り広げられることになりました。

この争奪戦は、芝村の村民が同村の将来の発展のために時価の半額くらいで工場敷地を提供するとしたので結局、日本車輌は蕨町に隣接する芝村に工場を建設することにしました。

日本車輌が購入した土地は38,000坪(約125,000㎡)に及びました。

日本車輌は、昭和9年(1934)4月に東京支店天野工場の芝村への移転を完了し、芝村に移転された同社の工場は、日本車両・東京支店・蕨工場と称されることになりました。

Q4 芝村に鉄道車両工場が出来た頃の日本はどんな時代でしたか?

この蕨工場が出来た頃の日本は戦争の時代でした。昭和6年から、満州事変、日華事変、日中戦争、太平洋戦争と14年間続いた戦時体制は敗戦とともに全て解体されました。昭和20年8月15日、終戦のその日も車も貨車も動いていました。戦争に負けた虚脱感の中でも汽車が動いていたというのは、鉄道関係者の仕事への熱い使命感があったからです。そして鉄道が機能していたことが、戦後いち早く日本が復興する原動力になったのです。

戦争に敗れた日本は、戦後、大きな混乱と苦難の道を歩みました。

戦後、廃墟の中から日本が立ち上がっていく過程には、技術革新に取り組む日本人が持つ不屈の魂があったわけですが、特に鉄道面では国民を鼓舞する新幹線建設へ動き出す訳です。多くの反対を説得して踏み切った大事業が、国民の明日への希望へとつながっていったと思います。

Q5 世界最初の新幹線電車の試運転はいつ、どこで行われたのですか?

新幹線電車の試作車は、昭和37年4月25日に芝にあった蕨工場で完成し、汽車製造による車両と連結して新幹線生みの親である十河信二国鉄総裁を迎えて蕨工場で、試運転が行われました。この試作車はその後、蕨駅から約100km離れた小田原近くの鴨宮の実験線へ運ばれ、数々の速度記録を打ち立てました。

Q6 新幹線が世界に与えたインパクトは大きかったのでしょうね?

東海道新幹線は59年前、東京オリンピックの10日前、昭和39年(1964)10月1日に開業しました。

東海道新幹線は日本の経済発展を支える大動脈になり、日本の高度経済成長期を象徴する存在になったのです。これが刺激になって、17年後にフランスで高速鉄道TGVが、27年後にドイツで高速鉄道ICEが開業しました。

戦後、世界の鉄道界をリードしていた誇り高いフランスが、日本に追いつこうとしましたが、TGVの開発に17年掛かったのです、ドイツでICEが開業したのは、更に10年後でした。

これは新幹線電車の総合技術開発が、いかに難しく、困難で、優れたものであったかを物語るものです。その基礎を固め先端を拓いたのが芝にあった蕨工場なのです。

そこで働いたのは蕨や川口の人たち、その人たちの日々の暮らしを支えたのが川口や蕨の商店街の人たちでした。

Q7 芝にあった蕨工場は何処へ行ったのですか?

蕨工場は51年前、昭和47年4月に、愛知県豊川市に移転しました。

豊川では、世界最初の新幹線電車を生んだ偉大な蕨工場の名前を生かして、その工場の名前を豊川蕨製作所と改名しました。 

蕨工場で開発され培われた0系新幹線電車の技術が豊川に引き継がれ、2019年8月2日に豊川で、新幹線電車製造4,000両という大記録が打ち立てられました。

10月14日の記念碑の除幕式にはかつて、蕨工場で汗を流し、営業や、設計や製造に携わった人たちも参列されました。

かつてこの場所で、強い信念と大きな使命感を持って、厳しい仕事に取り組み、激しい情熱を傾けながらも、失敗を重ねたときの苦労や辛い思い出、多くの失敗を乗り越えてつかんだ成功への喜びが、この記念碑にいっぱい、いっぱい詰まっています。

Q8 この記念碑を製作したのは誰ですか

記念碑の原案デザインは私がやりました。2枚の新幹線電車の写真は日本車輌が提供してくれました。これを川口市栄町にある株式会社一粒工芸・栗原社長が最終デザインと製作を担当しました。

Q9 新幹線に関係する記念碑は他にもありますか

新幹線発祥の地・記念碑という物は、既に2つございます。それじゃ今日で3つ目かと言うと全く違う物です。

二つの内の一つは、東海道新幹線のモデル線・鴨宮基地があった所に建っています。

これは、日本国有鉄道東海道新幹線開業10周年を記念して49年前の昭和49年8月に建てた物です。東海道線鴨宮駅から西へ約600mの所に建っています。線路の内側にあって、一般の人には見ることが出来ません

もう一つは、東海道線鴨宮駅南口に14年前の平成21年4月に地元の人たちが建てた物です。

これら二つの記念碑は【新幹線発祥の地】となっています。それは新幹線という車両・架線・軌道・信号・通信・変電・駅舎・運転制御などの高速鉄道全体を示す物です。

一方、私たちがこれから除幕しますのは、それらの中で最も重要な車両・新幹線電車なのです。こちらは【新幹線電車発祥の地】なのです。新幹線発祥の地と新幹線電車発祥の地は違う物なのです

Q10 記念碑の協力者はどなたですか

この記念碑は芝園団地自治会の皆様、川口北ロータリークラブ会員の皆様、蕨ロータリークラブ会員の皆様、日本車輌OBの方々とUR都市再生機構の絶大なご支援とご協力により建立されました。

Q11 代表の荒井さんのお気持ちを:

この記念碑がこれから世界に誇れる新幹線電車の輝かしい歴史を伝える礎になることを願っています。(これは10月14日除幕式での私の挨拶をQ&Aで表現したものです。2019年10月11日FMラジオ川口で放送された内容とほぼ同じです。年月は現在に置き換え)

≪除幕して頂いた人々≫

日本車輌OB有志 新幹線電車設計者   代表 石田昌彦 様

川口北ロータリークラブ         会長 田中一任 様

日本車輌OB有志 日車100友会      会長代行 前田 功 様

ロータリークラブ                会長 中村泰司 様

日本車輌OB有志 日車蕨工場OB会     会長 野澤三郎 様

芝園団地自治会                       会長 真下徹也 様

東日本旅客鉄道株式会社大宮支社 蕨駅 駅長 丸山 浩 様 

(独)都市再生機構 埼玉エリア経営部団地マネージャー 遠藤正毅 様

川口芝園商店会            会長 金澤暢徳 様

新幹線電車発祥の地 記念碑建立実行委員会代表 荒井貞夫

≪除幕式に参列して≫

日本車輌OB  前田 功様から⇒荒井貞夫への手紙(2019年10月19日)

10月14日開催の【新幹線電車発祥の地記念碑】除幕式では大変お世話になり誠に有り難うございました。

立派な記念碑が完成し、席上、荒井さんの挨拶もそれに相応しい立派なご挨拶でした。原稿も見ずによくあれだけの内容お話しされるものだと荒井さんの頭脳明晰さに感心いたしました。集まられた方々も理解されたことと思います。

その後、祝宴の席で偶々荒井さんと対面で座り、今回の記念碑建立について更に詳しく話を聞けて、このプロジェクトに掛けた荒井さんの執念と熱意に感動しました。

その情熱がなければ、到底実現されなかったものと思います。

私は48年間日本車輌に在籍しましたが、日本車輌を退職した後、本体の日本車輌JR東海の傘下に入り、子会社となり、出向先の日車開発(株)かずさCCはアコーディア・ゴルフに売却されました。私は日本車輌国鉄はじめ民鉄、産業車両、海外の鉄道営業に携わった25年間、その後出向して房総の名門コースを目指したかずさCC運営の23年間は一体なんだったのだろうと忸怩たる思いを持っていました。

それが今回の記念碑建立により永久に私の名前が刻まれたことは当時新幹線電車の営業を担当した者として望外の喜びであります。

私は、この記念碑を前にして、日本車輌JR東海蕨市川口市、地域のロータリークラブ芝園団地自治会、UR都市再生機構等数多くのセクションの壁を説得しクリアして乗り越えられた荒井さんのご苦労を忘れることは出来ません。

この記念碑は、今は芝園団地となり、跡形もない日本車輌の蕨工場こそが世界に冠たる新幹線電車の発祥の地なんだと言うことを世間に知らしめるべくその執念と熱意が実ったものであり、正にそれを実行された荒井貞夫氏の金字塔であります。

私はいったん消え去ってしまった日本車輌の輝かしい足跡がここに残されたことを心から喜んでおります。誠に有り難うございました。感謝と心からのお礼を込めてご挨拶と致します。

≪なぜ記念碑を建てようとしたのか≫

私は2007年8月に、それまで約9年間暮らしたインドネシア合弁会社から帰国後、鉄車工の代表として、国立科学博物館に2年間勤務し、鉄道の歴史を研究発表する機会に恵まれました。

これが契機になってその後、経産省から頼まれてベトナムのコンテナ輸送計画、国交省・JICAから依頼されて「富士」と「はやぶさ」のブルートレインをマレーシアで復活させるプロジェクトを任され、JICAの依頼でカイロ地下鉄を手伝うなど日車退職後に活躍の場が広がりました。これは私の力ではなく日本車輌というブランドへの信頼と尊い歴史のお陰です。

その後は地元で学校や市役所、公民館などのボランティア活動を通じて蕨や川口とつながりを持つようになりました。

国立科学博物館での調査研究が実って、川口や蕨で、埼玉県庁や科学博物館、電気学会で鉄道の歴史を発表する機会がありました。

鉄道の歴史、新幹線の歴史を語りながら、私が18歳から育った蕨工場の歴史・世界最初の新幹線電車が蕨工場で開発された歴史を語る内に、新幹線電車の開発・製造に従業員が一丸となって取り組んだ情熱と輝かしい成果を話だけでなく形として後生に残しておきたいと言う熱い想いが湧いてきました。そして記念碑を建立したいという気持ちが高まり、機会ある毎にあちこちでその実現を訴えるようになりました。

特に大きかったのは平成25年(2013)に蕨駅開業120周年記念事業を実施したことでした。このとき私は蕨駅開業120周年記念事業実行委員会事務局長として各方面へ働きかけました。その中で記念碑建立を訴え続けました。また、蕨や川口で講演する度に記念碑を設置しようと呼びかけました。

蕨では、和樂備神社境内に約1m四方の大きな赤御影石があって、これをただで使っていいと申し出てくれました。また、御影石への彫り込みは地元の石屋さん(石勘)がこれも無料で彫ってくれると地元の神社総代表・野島善蔵氏が話をつけてくれました。

ここまでは良かったのですが、思わぬ落とし穴が待っていました。期待していた駅前広場への設置がかなわず、諦めざるを得ませんでした。

その後も川口郷土史会や公民館事業で講演したり、川口のFMラジオを通じて講演したりして機会ある毎に記念碑建立を提案してきました。その頃は、建設資金はどうするのか等は考えていませんでした。動き出せばなんとかなると。

しかし、なかなかその機会はやってきませんでした。それから4年経って、芝園団地が平成30年に開業40周年を迎える事を聞きつけ、平成29年8月に芝園団地自治会(韮沢会長)を訪問し記念碑設置の構想をお話しました。しかし、このときは前へ進めませんでした。

それから更に1年ほど経って、芝園団地自治会・事務局長/岡﨑広樹氏に私が塾長を務める笑楽日塾(ワラビジュク)で「外国人との共生」と題して平成30年10月18日に講演していただき、このとき40周年事業として記念碑の構想を岡崎氏へ説明し、岡崎氏から前向きの感触を得ました。

銀座で弁護士事務所を開いている須田清氏から川口北ロータリークラブでの講演(「世界最初の新幹線電車は蕨工場で生まれた」)を依頼されました(平成30年10月24日に講演)。このとき記念碑のこと、設置場所のこと、予算のことを訴えました。須田会長からロータリークラブが「協力する、資金援助もする」との力強い発言を頂きました。

一方、岡崎氏と設置場所について団地内の候補地を探して歩き、岡崎氏から土地の所有者であるUR都市再生機構へつないでいただき、設置場所が決まりました。

懸案だった設置場所が決まったので、2019年6月になって、日本車輌OBへ働きかけ募金活動を始めました。川口北ロータリークラブ田中会長)から蕨ロータリークラブ(中村会長)へお口添えしていただき蕨ロータリークラブからも資金援助の確約をいただきました。

もう一つの壁は「0系新幹線電車」という用語の使用や記念碑に刻む写真の提供についてJR東海日本車輌のご了解を得ることでした。幸い日車・総務部・野田逸男氏が根回ししてくださり2019年7月に了解を得ました。

最初は安価なアルミ複合板に印刷する事を考えていましたが、これでは耐久性に問題がある事から、頑丈なステンレス製に設計変更しました。価格は3倍以上になりましたが、結果的にはこの決断は正解でした。

碑文は蕨工場OB・大川浩平氏のアドバイスを受けました。制作者の一粒工芸にはポリスチレンの板に実物大に印刷した碑文と写真を貼り付けて、設置現場へ持ち込んでいただき、大きさや高さなどの感触を確かめました。

記念碑の設置作業はUR都市再生機構が設置場所の整地を含め、頑丈な基礎工事、設置工事を施工してくださいました。

こうして、多くの関係者の絶大なご支援とご協力により99名が参列の元に2019年10月14日鉄道の日に除幕することが出来ました。

私がこのようなプロジェクトを完遂出来たのは日本車輌というブランドのお陰と感謝しています。日本車輌への深い愛着と郷愁はOBの方々の誰もが持っています。

いま、ここに記念碑が出来てあなたが来るのを、そして全国の鉄道フアンが来られるのを蕨駅でお待ちしております

新幹線電車発祥の地記念碑建立実行委員会 代表 荒井貞夫

 

蕨工場物語(抄録)

≪蕨工場への愛着と誇り≫

蕨工場がなくなってから52年経ちました。当時40歳前後のバリバリの働き盛りの人たちにとっても、まだ入社間もない頃の人たちにとっても小田急の特急車・0系新幹線電車・長野電鉄秩父鉄道福島交通・富山鉄道・小湊鉄道、数多くのタンク車など日車蕨工場が世に送り出した多くの優れた製品と係わってきたことへの誇りはその後歩んだ道が異なっても一生忘れえぬ思い出となっていることでしょう

≪昭和45年12月14日 蕨工場閉鎖発表のころ

日本車輌社長 清水靖夫氏の回想 (40年前の出来事)平成21年9月2日聴取

  • 夜中の12時が回る頃、組合の提示は、3ヶ月間給料は要りません。無給で働きますということ。
  • そして朝方4時頃の提案は,社員みんなが親戚などから一人3百万円ぐらいを集めてきます。それでも蕨は救えないのですかというものでしたと聞いています。
  • 天野社長は新幹線一番列車で泣きながら、顔からハンカチが離せなかったと、本人から聞いています。
  • その後、出社せず、1ヶ月ぐらいかな、出社してきて、社長室の連中に神経性下痢で食べたもののすぐにトイレで会社に来られなかったと打ち明けてくれました。つらかったと思います。
  • 今、皆さんが蕨工場OB会で昔の上下の隔てなく、蕨工場を懐かしみ会えることは本当に有り難いことだと思いますし、その原点は天野さんの苦渋の決断と蕨工場を支えた皆様の真心にあると今でも私は思っています。
  • 毎年の蕨工場OB会を何時までも末永く続けてください。

≪豊川の声≫

52年前、耐え難い苦難を乗り越え、辛い別れを忍んで1,540名が退職されました。 

豊川へ転勤された方々は慣れない土地で蕨の技術を生かして豊川蕨製作所に新しい命を吹き込み、素晴らしい製品を作り上げていきました。元製造部次長中根進氏は【移転前後に蕨から多くの事を学んだ。蕨があったから今日の日車がある】と語っていました。

≪或る日の蕨での語り≫

蕨工場閉鎖から52年が経ちました。きょうお集まりの皆様は誰もが日車を愛し、蕨工場の発展に尽くされました。しかし突然遭遇した苦難の道を歩まねばなりませんでした。これからの人生・仕事探し、家族のことを思いどんなに心細い日々を過ごしたことでしょうか。正に耐えがたきを耐えて、暗い坂道を上ってきました。遠い昔の出来事とはいえ一生忘れることが出来ません。来年も様々な思い出を語り合いまし ょう!

≪蕨工場は新聞に何回か取り上げられました 3件ご紹介いたします≫

終戦記念日埼玉新聞が取り上げました。

蕨は埼玉県で熊谷に次いで2番目に大きな空襲・爆撃を受けました。しかし、蕨工場は一度も被害に遭いませんでした。それはそこに米軍の捕虜がいたこと及び、

これは私の説ですが、

連合軍は戦後復興を考えて、鉄道車両工場を爆撃しなかったというものです。これは私の調査結果です。これを裏付ける記録があります。国はGHQ連合軍総司令部)の指令により、昭和20年(1945)9月18日に、向こう1年以内に完成すべき車両として、蒸気機関車310両、電気機関車86両、客車・電車1,200両、貨車2,100両の合計3,696両の大量発注を行いました。これはまだ終戦後一ヶ月余りのことでした。

終戦時物資が極端に不足して、国民が空腹を抱えて飢えに苦しんでいた最も困難な時期に、ほとんどの工場が戦争による内地空襲で壊滅的打撃を受けて停止状態のこの時期に、これだけ大量の鉄道車両生産が始まったことは信じがたいことです

が、これは事実です。当時「戦後復興は鉄道から….」

というスローガンがありましたが、これはそれが本当であったことを裏付けるものであります。

 

≪昭和37年(1962)4月25日 蕨工場試運転線 あれから60年≫

2023年5月 日本車輌・車輌技術部OB会に寄せてこの冊子を作りました

笑楽日塾の活動は下記ホームページに載せていますので是非ご参照ください。

笑楽日塾塾長荒井貞夫の鉄道に対する思いを3回に分けてご紹介しました。当ブログはまた少しお休みしますが、10月中頃には復活したいと考えています。その節はまたよろしくお願いします。

 

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