「新幹線電車発祥の地は何処ですか」の2回目です。1回目の続きですので最初からご覧になると、より分かり易いと思いますのでご覧ください。
今夜は、【新幹線電車発祥の地は何処ですか】というテーマで、新幹線電車が何故、地元蕨・川口で誕生する事になったのかお話しいたします。
Q1 新幹線電車と芝園団地にはどのような関係があるのでしょうか。
それでは、その歴史といきさつをご説明しましょう。
芝園団地の場所は、かつて埼玉県北足立郡芝村と呼ばれていました。芝村は、昭和15年1940年に川口市に合併し、川口市芝となりました。一方、芝園団地の向い側が、北足立郡蕨町でした。蕨町は62年前、昭和34年に蕨市になりました。私が高校卒業後、蕨工場へ来たのは、この前年・昭和33年です。この場所で、敗戦から15年後の昭和35年に、新幹線電車の設計が始まりました。
Q2 では、どうしてこの地で、世界最初の新幹線電車が作られるようになったのでしょうか。
それは、今から85年前に、東京にあった天野工場が、芝村に移転してきたことから始まりました。
今から149年前、明治5年(1872)陰暦9月12日、現在の暦で10月14日、日本で最初の鉄道が、皆様ご存じのように、新橋~横浜間 現在の汐留~桜木町間に28.8km開通しました。
このときに使われた機関車・客車・貨車は全てイギリスからの輸入でした。
Q3 では、どうして、蕨町ではなく芝村になったのでしょうか?
鉄道開業から二十数年経って、日清戦争から日露戦争の頃に、日本で鉄道車両国産化の機運が芽生えてきます。その先駆けとなったのが、今から125年前、明治29年(1896)9月に、名古屋に操業した日本車輌です。
それから2ヶ月後に、東京に天野工場が創業しました。
この両社は、大正9年(1920)に合併し、天野工場が、昭和9年(1934)4月に芝村へ移転してきました。
では、どうして、蕨町ではなく芝村になったのでしょうか?
それは当初、日本車輌では蕨町と交渉し、町民・地主の快諾を得ていましたが、そこへ隣の芝村の村民から工場誘致の猛烈な運動が起こり、両町村間で激しい工場の争奪戦が繰り広げられることになりました。
この争奪戦は、芝村の村民が同村の将来の発展のために、時価の半額くらいで工場敷地を提供するとしたので結局、日本車輌は蕨町に隣接する芝村に工場を建設することにしました。
日本車輌が購入した土地は38,000坪(約125,000㎡)に及びました。
日本車輌は、昭和9年(1934)4月に東京支店天野工場の芝村への移転を完了し、芝村に移転された同社の工場は、日本車両・東京支店・蕨工場と称されることになりました。芝工場ではなく、蕨工場と命名されたのです。
Q4 芝村に蕨工場が出来た頃の日本はどんな時代でしたか?
この蕨工場が出来た頃の日本は戦争の時代でした。昭和6年から、満州事変、日華事変、日中戦争、太平洋戦争と14年間続いた戦時体制は敗戦とともに全て解体されました。主な事件として:
今思えば、日本は、このころから軍部の独走が強まり泥沼にはまっていきました。満州事変から14年間、国民は戦争に勝つことを信じて苦しい生活に耐えてきました。カダルカナルやインパール作戦など無謀でした。
Q5 蕨工場は何故空襲を受けなかったのでしょうか
戦争末期、蕨の空襲に絡んで、芝の蕨工場に不思議なことが起こりました。
敗戦目前の空襲があった時期に、蕨にも爆弾や焼夷弾がたくさん落ちました。
それは、昭和20年4月12日と5月13日、5月25日に爆撃を受けました。
蕨は、埼玉県下で空襲の被害は、熊谷に次いで2番目に大きかったのです。東京大空襲は、昭和20年3月10日でした。
この地図に記載された法華田に爆弾が、北町2丁目から中央2丁目にかけて焼夷弾が落とされて、40人ぐらいが死亡しましたしかし、なぜか芝にあった日本車輌・蕨工場は爆撃を免れました。
どうして、この大きな工場が爆撃を受けなかったのでしょうか。それには二つの理由があります。
9年前の2012年8月15日、終戦記念日に埼玉新聞が取り上げました。
先ほどもお話ししましたが、蕨は埼玉県で熊谷に次いで2番目に大きな空襲・爆撃を受けました。
しかし、米軍の飛行機からもよく見えるはずの、大きな蕨工場は一度も被害に遭いませんでした。それは何故でしょうか。
そこに米軍の捕虜がいたからです。
捕虜に関する記録によりますと、次のように記載されています。
1945年7月東京捕虜収容所第11分所として川口市大字芝に開設。
使役企業は日本車輌蕨工場。
終戦時収容人員100人(米73人、伊27人)。収容中の死者なし。
*第2次大戦中、約36,000人の連合軍捕虜が日本に連行され、国内130か所の捕虜収容所において過酷な労働を強いられました。そして飢えや病、事故や虐待、さらに友軍の空襲や原爆などによって、終戦までに約3,500名が死亡しました。日本車輌では過酷な労働、虐待などはなかったので、戦後に捕虜からの訴えはありませんでした。
もう一つは、これは私の説ですが、連合軍は戦後復興を考えて、鉄道車両工場を爆撃しなかったというものです。これは私の調査結果です。これを裏付ける記録があります。国はGHQ(連合軍総司令部)の指令により、昭和20年(1945)9月18日に、向こう1年以内に完成すべき車両として、蒸気機関車310両、電気機関車86両、客車・電車1,200両、貨車2,100両の合計3,696両の大量発注を行いました。これはまだ終戦後一ヶ月余りのことでした。
終戦時物資が極端に不足して、国民が空腹を抱えて飢えに苦しんでいた最も困難な時期に、ほとんどの工場が戦争による内地空襲で壊滅的打撃を受けて、停止状態のこの時期に、これだけ大量の鉄道車両生産が始まったことは信じがたいことですが、これは事実です。
当時「戦後復興は鉄道から….」というスローガンがありましたが、これは、それが本当であったことを裏付けるものであります。
昭和20年8月15日、終戦のその日も汽車も貨車も動いていました。戦争に負けた虚脱感の中でも汽車が動いていたというのは、鉄道関係者の仕事への熱い使命感があったからです。そして鉄道が機能していたことが、戦後いち早く日本が復興する原動力になったのです。
次回は、「戦後の復興は鉄道から」「新幹線用広軌別線建設」「新幹線電車の設計・試作」などにいてお話しくださいます。
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