笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

三学院の御衣黄桜(緑花)

8月19日の午後、蕨市内最大のお寺「三学院」でお参りしてきました。

三学院は、京都の新義真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん)の末寺で、金亀山極楽寺(こんきさんごくらくじ)三学院といいます。

創立年代は不明ですが、本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることや、他に現存する資料から中世以前の創建と考えられています。

天正19(1591)には、徳川家康より、寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられています。

また、三学院は、足立坂東三十三箇寺の20番、北足立八十八箇所の30番にあたる札所としても知られています。

蕨市公式ウェブサイトより引用≫

暑さのせいもあったためか寺内に人影はなく、工事の作業員さん二人と私の三人のみ。良い運気をたっぷり頂いてきました。

仁王門から入ると正面が本堂で、その大きさに圧倒されます。また本堂の右側には弘法大師像がありますが、これもびっくりするほど大きい。

久しぶりのお参りでしたが新しい発見がありましたのでご報告します。それは三学院で見つけた御衣黄桜(ぎょいこうざくら)です。

 

2022年3月23日の投稿分「蕨市内の公園と河津桜探訪記」の中で「ふるさと土橋公園にはちょっと珍しい御衣 黄桜が2本ある」とご紹介しました。

御衣黄桜」はソメイヨシノが咲き終わってから開花する遅咲きで、ソメイヨシノのような派手さはないもののちょっと珍しいサクラ。八重の薄緑の花を咲かせます。

 

三学院の本堂他でお参り後の散策中にこの「御衣黄桜」を見つけたのです。御衣黄桜の存在は、今年の3月にふるさと土橋公園を管理している方たちからお聞きして初めて知りましたが、そのおかげで今回三学院での発見に繋がりました。新しい発見は例え小さなことでも心ウキウキ、来年の春は必ず見に伺います。

 

次回も三学院のご紹介をします。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

会報誌「笑楽日塾だより」シニアの風⑩

2022年7月13日投稿分の「笑楽日塾だよりに載ったシニアの風⑨」の続きで10回目になります。

シニアの風も今回で10回目の投稿20編目になりました。シニアの風には笑楽日塾塾生が硬軟様々なお考えを書かれており、それぞれの多彩なお話しに敬服しっぱなし。今回は高齢者にとって少し気になるお話し「故脳の老化防止」を取り上げてみました。皆様が興味をお持ちいただけるようでしたらご紹介冥利に尽きます。

なお、今回の記事は2020年1月に書かれたものです。当時の時代背景をご考慮のうえお読みください。(塾生全員が持ち回りで書いています)。

第20篇:「故脳の老化防止に一役?

2020年7回目の年男。何はともあれ、愛する愛する母より少しだけ長生きできていることに感謝。きっと母が使い残した寿命を貰っているのかも。

それに報いる為にも健康寿命を延ばしてゆく。手足に筋肉を少しでもつけて、できれば人には迷惑かけない様に。

緩急つけてのウオーキングも価値あり。余裕があればジム通いも。問題は脳みその経年劣化。仲間の飲み会では幹事役を進んで受けています。数年前までは割り勘計算なんて、朝飯前。

ところが我が優秀?な中央演算装置も経年劣化が激しい。2020年にはもう一度、チューニングが必要かも。

小学校4年に始めた「算盤」。父親のスパルタのお陰(笑)か約2年で上級者になった。

毎日毎日、算盤で「百六十五」を引く。これが上達の近道だ。(あくまでも父の個人的な見解)

指を使う事の重要性も感じられる。(長生きの秘訣の一つかも)

確かに事務機商社のアルバイトから正社員になり、コンピューター事業部でプログラマーになり、退社時には責任者になった事も、この算盤能力がおおいに役立ったと自分では認識できる。

そこで脳の老化防止策としておすすめは、実際に算盤が手元にあれば、毎日数分でも「百六十五」を引いてみる。十回足し算、間違えなければ「千六百五十」になるはず。ならない場合はもう一度。

間違えなければ今度は「千六百五十」から「百六十五」を引いてゆく。十回引き算、間違えなければ「ゼロ」になるはず。さらに効果的ではと思うのは暗算。

それも頭の中に算盤をイメージすべし。算盤を眺めながらの暗算では上達に壁がある。(個人的見解)先ほど同様の作業をイメージした算盤で行う。

いかがでしょうか、あまりお金も掛けないでできる脳の老化防止大作戦。

塾生:子年の数え72歳

 

以上、シニアの風の中から第20編「故脳の老化防止に一役?」をご紹介しました。

脳が老いないために「やった方が良いこと」の代表例にすれ違う車のナンバーを足し算する」とありましたが、今回のコラム担当者は算盤の上級者とのことなので簡単すぎますね。また、「やめた方が良いこと」の一つには「焦る・慌てる・急ぐ」とあり、私も少々身に覚えが。これからは意識して注意したいもの。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

プロが教える!ビールのいろは

世界中で大きな問題になっている地球温暖化、近年は夏になると異常な猛暑のニュースを聞かない日がありません。我が埼玉県の熊谷市は好奇心旺盛な方にとって注目の的になったようで、40度越えの気温を体験するためわざわざ他県から来られる方もおられるとか。くれぐれも体調には気をつけていただきたいものです。また、皆様はどのように暑さ対策を取られていますでしょうか。

日中は屋外で沢山汗をかき、帰宅後のふろ上がりは適度に冷えたビールを飲む。これが至福のひとときですよね。今回はそのビールのお話です。

サッポロビール㈱埼玉支社に勤務される笑楽日塾塾生が、蕨ケーブルビジョン㈱の番組「ウインクパラダイス」に出演されました。「プロが教える!ビールのいろは」と題した1時間の番組で、第1話「ビールの歴史・缶ビールのおいしい飲み方」、第2話「ビールの種類・瓶ビールのおいしい飲み方」、第3話はビールの雑学で「酒税・日本最古のビヤホール」の3部構成です。

6月18日(土)蕨ケーブルビジョン様のスタジオで収録が行われ、7月22日(金)~28日(木)まで1週間の放送でした。お話のお相手(聞き手)をしてくださいました「(一社)蕨市にぎわいまちづくり連合会」の方との掛け合いも絶妙で、大変楽しい内容になっています。

テレビで放送していただきましたものの、残念ながら番組は蕨市内の方しかご覧になれませんでした。そこで蕨ケーブルビジョン様は市内市外に係わらず多くの方にご覧いただけるようにと、YouTubeにアップしてくださいましたので皆様にご紹介します。

お話の内容は是非ともYouTubeでご覧になってください。皆様が今晩お飲みになるビールの味が一段とアップすること間違いなしです。

 

第1話「ビールの歴史・缶ビールのおいしい飲み方」

  

第2話「ビールの種類・瓶ビールのおいしい飲み方」

  

第3話「酒税・日本最古のビヤホール

  

笑楽日塾は制作協力として番組の中で紹介していただきました。

 

以上、サッポロビール㈱埼玉支社の社員による「プロが教える!ビールのいろは」でした。私は第3話「日本最古のビヤホール」のお話しを視聴し、30年前後昔のことを思い出して余韻に浸っています。当時勤務していた会社のお得意先が銀座八丁目にあったことから、「ビヤホールライオン銀座七丁目店」には時々通っていたためです。生ビールを美味しくいただいたことはもちろん、店内の装飾にも圧倒されっぱなし。支柱や照明、ビール麦の収穫に働く女性を描いたガラスモザイクの大壁画など、素晴らしい雰囲気を醸し出していました。

また、グラスもブーツの型をしたものに魅せられ、いつも決まって注文したものです。ブーツグラスに注がれたビールが届くと、先ずはつま先を下に向けて飲み始めますが、残り少なくなると飲み難くなるためつま先を上に向けて飲み干します。

ブーツ型の云われは「兵士が戦場でブーツの中にビールを注いで回し飲みした」というものだそうですが、この時のブーツは新しいものだったのでしょうか?蛇足ながら気になりますね。

コロナには早く収束していただき、また銀座まで足を延ばしたいもの。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

会報誌「笑楽日塾だより」シニアの風⑩

2022年7月13日投稿分の笑楽日塾だよりに書かれたコラム「シニアの風⑨」の続きで10回目になります。

シニアの風も今回で10回目の投稿で20編目になりました。笑楽日塾塾生が硬軟様々なお考えを書かれており、それぞれの多彩なお話しに敬服しっぱなし。今回は終戦記念日(8月15日)が近づいてきましたので「戦争と災害の証人・地図」終戦記念日に想う~≫を取り上げてみました。これを機会に皆様が戦争の悲惨さをお考えいただけたら嬉しく思います。

なお、今回の記事は2019年に書かれたものです。当時の時代背景をご考慮のうえお読みください。(塾生全員が持ち回りで書いています)。

第19篇:「戦争と災害の証人・地図」終戦記念日に想う

故人曰く「地理を知らずして政治を語るなかれ」、現在では「地政学を知らずして平和や戦争を語るなかれ」 であろう。地理(地形、地質、気象、植生、資源等)を図にしたものが地図で、地理学と政治学を併せて地政学となる。

1941年(昭和16)開戦の大東亜戦争(日本が閣議決定したものをGHQが太平洋戦争と改称)は、最終的に東京や各地での空襲、沖縄の地上戦、広島・長崎の原爆投下と悲惨な結果を招いた。特に「大東亜共栄圏構想」のもとに、東南アジア諸国への戦線拡大により多くの戦没者を出した。約310万人、遺骨収集もままならず、未だに約120万人が外地に眠っている。俗に言う「遺骨無き骨壺」で、筆者の父もフィリピン・ルソン島キャンガンの何処かで眠っている。これらのことは、歴史の証人として多くの古地図が物語っている。

戦争を語る人が少なくなった今日、今年も各地で地図と写真、資料を駆使して語り継ぎをしている。しかし、今も懲りずに世界各地で戦争をしている。地政学上からの覇権争いである。世界情勢はユーラシアランドパワーとシーパワー、即ち陸・海・空軍の時代から、サイバー、人工衛星、宇宙軍による、エアパワー、スペースパワーの争いとなり、無人機やロボットの戦いになった。憂いていても仕方ない、出来る限り戦争の悲惨さを語り継いでいかねばならぬと思う。

以上、シニアの風の中から第20編「戦争と災害の証人・地図」~終戦記念日に想う~をご紹介しました。

今回のコラムを担当された塾生は自著「古地図は歴史の証言者」の中で「21世紀を迎えた今日、人間は相も変わらず世界各地で戦争をしている。19~20世紀にかけて、あれだけ戦争をしたのに懲りていない。」と嘆かれておられます。

戦争のない世界を望むのは無理なのでしょうか。

 なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

わらてつまつり2022

蕨市には大きな祭が4つあると筆者は勝手に思っています。4月に行われ、季節の苗木・植木・花卉を揃えた「中仙道蕨宿苗木市」。7月に開催される、蕨駅開業120年を記念して2014年に立ち上げた新しいお祭「わらてつまつり(蕨鉄道祭)」。8月は4大祭りの中でも最大のお祭で、機織りの歴史と文化が織りなす蕨の七夕「わらび機まつり」。11月は江戸時代に宿場町として栄え、当時の面影を残す町並み、旧中山道で開催される中山道蕨宿宿場まつり」

今回はその中の一つで7月に行われる「わらてつまつり2022」についてご紹介します。蕨駅は1893(明治26)年に開業した古い歴史を持つ駅です。2013年に120周年記念行事が行われ「この歴史を受け継ぐ新しい祭りを作ろう」との発案で、地元町会など市民が実行委員会を立ち上げて翌年の2014年に第1回わらてつまつりが開催されました。

コロナ禍以前の「わらてつまつり」は、JR東日本直営で100mの軌道を走るミニ新幹線や、電車の安全走行を守る保線車両の乗車体験。子どもたちがダンボールで作ったオリジナルの電車を持ち寄って遊ぶコンテスト「段ボール電車ごっこ!」。美味しそうな臭いに引き付けられる屋台群。屋内ではNゲージの鉄道模型運転が大盛況。親子で楽しむ工作教室「電車のペーパークラフト作り」は、子供よりも親御さんが大奮闘。子供と楽しむ、学ぶ、食べる他、たくさんのイベントを用意していますが、とりあえず参加する。これが蕨の鉄道まつりで二日間の開催です。

今年の4大祭りは新型コロナ感染再拡大の影響を考慮して中止、あるいは規模を縮小せざるを得なくなり、祭り好きのみならず多くの方が大変がっかりしています。わらてつまつりも例外ではなく中止となりましたが、このままコロナに負けてしまっては寂しいため、インターネットによる「紙電車デザインコンテスト」を開催することになりました。

わらてつまつりには笑楽日塾の塾生も実行委員として係わっている方が複数おられ、今回の「紙電車デザインコンテスト」もその塾生が中心に行っています。

電車作成の型紙は広報誌と一緒に市内全戸に配布されていますが、ホームページからもダウンロードできますので皆様もチャレンジされてみては如何でしょうか。型紙のダウンロードとコンテストの応募方法は下記のわらてつまつり公式ホームページをご参照ください。締め切りは8月10日です。

蕨の新しいお祭「わらてつまつり」も想像を超えるスピードで皆様から認知していただき、今では蕨市のお祭の一つとして定着しております。

蕨市民や近隣にお住いの皆様に「蕨駅の歴史をお伝えることの大切さ」を強く感じ、これからも「わらてつまつり」等を通じて「蕨の鉄道の歴史」を伝え広められたら嬉しく思います。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

≪ 重 要 ≫

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

2年経ちました

2020年07月19日から始めた当ブログ「笑楽日塾の事件簿」も、おかげ様で無事3年目に入ることが出来ました。

 

2018年1月に発足した蕨市の高齢者集団「笑楽日塾」ですが、新型コロナウイルス感染拡大のため2020年5月からは塾生が1ヶ所に集まって行う勉強会や、市民にも参加していただくセミナー、素晴らしい研究発表の場であるシンポジウム等も開催出来なくなってしまう羽目に。解決策としてスタートしたのがZOOMによる塾生同士のオンライン勉強会と、市民の皆さんに参加を呼びかけたオンライン公開講座の開催。僅か3カ月後の8月から始めることになったのは、チームワークとやる気の賜物と思います。

 

私も所属する笑楽日塾の「オンライン公開講座」を皆様に知っていただきたいとの思いから始めたブログですが、その講座も予定していた20回全てが終了したため当面は一段落です。「笑楽日塾の事件簿」も当初想定していた数の100回をはるかに超え、一旦役目を終えようかと少々迷いながらも考えた末『せっかく縁あって始めたのだからもう少し続けてみようか』と、今は決心している次第です。なお、今回の投稿が156回目となりましたので、これを肥に取り敢えずは200回を目標に進みたいと考えています。

 

笑楽日塾の活動と埼玉県や蕨市の応援記事を脈絡なく書きなぐっていますが、お付き合いいただいている皆様には心より感謝申し上げます。お時間のある時にでも気軽にお立ち寄りいただけたら幸いです。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

会報誌「笑楽日塾だより」シニアの風⑨

2022年7月6日投稿分の「笑楽日塾だよりに載ったシニアの風⑧」の続きで9回目になります。

シニアの風も今回で9回目の投稿19編目になりました。シニアの風には笑楽日塾塾生が硬軟様々なお考えを書かれており、それぞれの多彩なお話しに敬服しっぱなし。今回は高齢者にとっては気になるお話しで「認知症」を取り上げてみました。皆様が興味をお持ちいただけるようでしたらご紹介冥利に尽きます。

なお、今回の記事は2020年2月に書かれたものです。当時の時代背景をご考慮のうえお読みください。(塾生全員が持ち回りで書いています)。

 

第19篇:「オレンジリング

2019年12月24日夕方テレビのニュース番組で、東京町田市に11月13日オープンしたスターバックス コーヒー 南町田グランベリーパーク店で働く『スターバックスでは国内最高齢スタッフ、76歳で人生初のアルバイトを始めたベテラン主婦』が紹介されていました。1日4時間、週2~3日の勤務ですが、人手不足が深刻化して高齢者の社会参加が求められる時代になってきたため、対策の一例とも思われます。

私が注目したのは、テレビに映ったベテラン主婦の胸に付けられたオレンジ色の輪で、名前は「オレンジリング」と言います。オレンジリングとは「認知症サポーター」資格取得者の証で、自治体または企業・職域団体が実施する認知症サポーター養成講座を受講すればだれでも有資格者になれます。スターバックスも地域との共生に力を入れていることが感じられ『なかなかやるじゃないか』と感心させられた次第です。

私も現在勤務している会社の新人研修で養成講座を受講し、この「オレンジリング」と「認知症サポーター養成講座終了証」を取得しています。厚生労働省はより多くのサポーター育成を目指しているようで、養成講座といっても身構えるような難しいものではありません。受講時間は90分程度で内容はごく常識的なものになっています。厚生労働省のHPには『認知症に対する正しい知識と理解を持ち、地域で認知症の人やその家族に対してできる範囲で手助けする「認知症サポーター」を全国で養成し、認知症高齢者等にやさしい地域づくりに取り組んでいます。』と書かれています。

私も勤務中はオレンジリングを胸に付けていますが、幸いにも周囲には認知症と思われる方が見当たらないので安堵しております。

 

認知症サポーターに期待されること(厚生労働省HP認知症サポーター)より抜粋

1.認知症に対して正しく理解し、偏見をもたない。

2.認知症の人や家族に対して温かい目で見守る。

3.近隣の認知症の人や家族に対して、自分なりにできる簡単なことから実践する。

4.地域でできることを探し、相互扶助・協力・連携、ネットワークをつくる。

5.まちづくりを担う地域のリーダーとして活躍する。

 

以上、シニアの風の中から第19編「オレンジリング」をご紹介しました。

週刊朝日MOOK2017には物忘れと認知症の判断基準11例が載っており、大変分かり易く書かれていますので中から2例のみお借りします。①「ドラマに出ていた俳優の名前を忘れる」のはもの忘れで、「ドラマを見たことを忘れる」のが認知症。②「知人の名前を思い出せないが、ヒントをもらえば思い出せる」のはもの忘れで、「知人の名前を思い出せず、ヒントをもらっても思い出せない」のが認知症とのこと。

この基準で測れば「私の場合もの忘れは多々あるものの、まだ認知症の域には至っていない」と、勝手に判断して一安堵です。

 なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

会報誌「笑楽日塾だより」シニアの風⑧

2022年2月23日投稿分の「笑楽日塾だよりに載ったシニアの風⑦」の続きで8回目になります。

シニアの風も今回で8回目の投稿18編目になりましたが、人生経験豊富な塾生がご自身の思いを書かれた「先端技術と仏教」をご紹介します。シニアの風には笑楽日塾塾生が硬軟様々なお考えを書かれており、それぞれの多彩なお話しに敬服しっぱなし。今回は少し硬い話ですが、皆様が興味をお持ちいただけるようでしたらご紹介冥利に尽きます。

今回の記事は2019年10月に書かれたものです。当時の時代背景をご考慮のうえお読みください。(塾生全員が持ち回りで書いています)。

第18篇:「先端技術と仏教

10月9日午後、都内で奈良先端科学技術大学院大学東京フォーラム2019『人生100年時代のサイエンス』が開催され、‘サイエンス’と多川俊映興福寺寺務老院の組合せに興味を惹かれたので参加。知的刺激を受けたのでこの機会に紹介します。

ノーベル賞でかまびすしいタイミングではありましたが、基調講演で国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)・濱口道成理事長が述べた趣旨は次のとおり。

▶曰く「今、ノーベル賞に輝く研究は何十年も前のもので、研究費が大学から比較的潤沢に支給され研究結果がどうなるか分からないことに自由に取り組めた時代*の成果である。現在、大学は予算がどんどん減額、そういう意味でJSTによる科研費の担う役割大だが、いずれにせよ、国も企業も短期的な成果を狙った選択と集中という姿勢が見受けられ、研究者を取り巻く環境は厳しさを増している。だが、若手はどんどん今取り組んでいる研究を進め、アピールしてほしい」〔*筆者注:2019年ノーベル化学賞の吉野彰氏の成果にしても研究を始めたのは1981年で、最初から新型電池を開発しようとしたわけではない。〕これを聴いて、ノーベル賞受賞者大隅良典東工大栄誉教授の「今、日本人のノーベル賞受賞が続いているけれども、基礎研究を取り巻く状況をなんとかしなければ将来は暗い」との発言を思い起こしました。

■さて、そこで、多川俊映興福寺貫首(現寺務老院)の『心をみつめる~より豊かに生きるために~』と題する特別講演です。なぜこのフォーラムに俊映師が招かれたのか?最初私にはその関連性、理由が不明でしたが、「心」について静かに語られる師のお話を聴きながら、なるほどと思えてきました。その思考過程は次のとおり。

▶師曰く「1960年代中頃から『これからはモノではなく〈心の時代〉だ』とよく言われたものだが、今に至るまで同じことを言っている。なぜか?それはモノと心を分けたからだ。そもそもモノを大事にしないで心が豊かになるはずがない。愛と憎しみ、善と悪、無と有、上と下、生と死、などと言って(二項対立的に)二つを相反することとして捉える〈心の動き〉が問題である。これを仏教が問題視する『心がざわめく』という。

▶「自然と人間の捉え方も同じだ。自然の中にあっての人間、自然に生かされているのが人間であり、自然をコントロールしようとするのは人間のおごりである。自然災害の猛威にさすがに〈自然に優しく〉などという謳い文句は最近聞かなくなったが、これも人間が自然を管理できるというおごった考えによるものだ。

▶「仏教では生と死も分けない。『生死(しょうじ)』としてみんな〈つながっている〉のだ。表も裏も両方活かす、これが東洋的考えである。だから、昨今かまびすしい『人生100年時代』に空虚さを感じるのは『死』というものを遠ざけているからで、死を遠ざけて本当に輝いた人生と言えるのか。

▶「『心の時代』と‘念仏’のように言っているうちはダメ。では、どうするか?次の三つを実現することだ。すなわち、①対立構造を造らないこと、②自他を比較しない(他人に動かされない)こと、③不都合を捨てないで抱えていく、あるいは受け入れること、である。この三つ、なかなか難しいことではあるが、これを実現すれば心が豊かになると思う。現代は『心を〈鍛える〉時代』である」

■以上を聴いて、同フォーラムへの師招聘理由はここにありと勝手ながら得心。

▶すなわち、『科学』は英語でscience、ラテン語のscio(知る)から派生、原義は 'to separate one thing from another' ですから、『一つのものを分ける』という意味が含まれる。そうすると俊映師の言われる〈表も裏も両方活かす、対立構造を造らない〉という仏教的、東洋的考えに『対立』する。研究者はこのせめぎあい、これにどう向き合うか。なお、これは研究者ひとりの課題ではなく一般の我々にも通ずるものですね。

▶推測するに、奈良先端大の若手准教授3人を前にして、それぞれが自分の研究分野で成果を出そうと日々物事を突き詰めて研究する(物事をどんどん〈分けて〉科学する)中で、仏教的な〈分けない〉心の動きを忘れないでほしい、そうすれば人間としてのバランス、倫理性も保つことができる、是非そういう研究者になってほしいというメッセージ発信だったのではないか。

▶このことは、パネルディスカッションにおける若手研究者の発言からも、自分の生きざまへの省察の機会になったようであり、主催者がこのフォーラムにかかる成果を期待していたかは不明ですが、〈心豊かなサイエンス〉を追求するという観点からは非常にインパクトがあり実りあるものと私は思いました。

▶3人の若手准教授がそれぞれ自分の研究分野を紹介していましたが、実に生き生きとして取り組んでいることが伝わり、こういう若手研究者たちを潰さずに日本社会全体が盛り立てていかなければならない、何ができるのかと考えつつ帰途についた次第です。

以上、シニアの風の中から第18編「先端技術と仏教」をご紹介しました。

『「心の時代」と‘念仏’のように言っているうちはダメ。では、どうするか?次の三つを実現することだ。すなわち、①対立構造を造らないこと、②自他を比較しない(他人に動かされない)こと、③不都合を捨てないで抱えていく、あるいは受け入れること、である。』

素晴らしいフレーズですね。世界のリーダーたちがこれを肝に銘じて地球上から戦争を無くしてくれると良いのですが。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

茅の輪神事(ちのわしんじ)

早いもので今年も半分が過ぎようとしています。地域の氏神を祀る「和楽備神社」でも6月1日から、夏越の祓(なごしのはらえ)の人形(ひとがた)頒布が始まり、私も早々にいただき25日にお納めしてきました。

和楽備神社の大祓式(おおはらえしき)は明日(6月30日)行われますが、人形は頒布開始の1日からお納めすることができ、30日の式に参列された方と一緒にお祓いをしてくださいます。

なお、境内には茅の輪(ちのわ)が6月24日に設置されましたので、その後にお参りされた方は茅の輪をくぐって人形をお納めすることが出来ます。神社の方のお話しでは「茅の輪の設置は梅雨の時期なので雨に降られることが多いのだが、今年は晴天に恵まれたもののこの猛暑には参った」とおっしゃっていました。

≪茅の輪神事とは≫

茅の輪神事とは、お祈りしながら茅で作った輪をくぐり越えることにより、罪や穢れ(けがれ)を取り除き、心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願する行事のこと。なお、この行事は「輪越祭」「茅の輪くぐり」とも言われています。茅(ち=かや)とは、茅萱(ちがや)、菅(すげ)、薄(すすき)などの総称。

≪茅の輪神事の由来≫

神代の昔、北海の武塔(ぶとう)神”素戔嗚尊(すさのおのみこと)”が南海に住む女性に会うため、旅の途中で蘇民将来(そみんしょうらい)巨旦将来(こたんしょうらい)という兄弟のところで一夜の宿を頼みました。弟の巨旦将来は大変な金持ちでしたがそれを断りました。しかし兄の蘇民将来は貧しい暮らしだったものの、素盞鳴尊をお泊めして厚いもてなしをしました。数年後に素盞鳴尊は再び蘇民将来の家を訪れ「今後疫病が流行った時には茅で作った輪を腰に付けていれば、その者は蘇民将来の子孫として助けてやるので病気にかからないですむ」と教えました。この故事に基づき、茅の輪を腰に付けたり、蘇民将来と書いた紙を門口に貼っておけば災厄を免れるという民間信仰が生じたもの。

武塔神素戔嗚に災等から守っていただくために始まった民間信仰茅の輪も、最初は人々が腰につけるほどの小さなものだったが時代が経つとともに大きくなり、祓の神事には人がくぐれるほどの大きさになり罪や穢れを取り除くようになったもの。

≪一般的な茅の輪くぐりの作法(茅の輪を4回くぐる)≫

1回目:茅の輪の前に⽴って⼀礼をする:左⾜から茅の輪をまたいでくぐり、そのまま左回りに回る(回っている間「はらいたまえ、きよめたまえ」とお祈りする)

2回目:元の位置に戻って⼀礼:今度は右⾜から茅の輪をまたいでくぐり、そのまま右回りに回る(回っている間「はらいたまえ、きよめたまえ」とお祈りする)

3回目:元の位置に戻り⼀礼:もう⼀度、左⾜から茅の輪をまたいでくぐり、左回りに回る(回っている間「はらいたまえ、きよめたまえ」とお祈りする)

4回目:元の位置に戻り⼀礼:左⾜から茅の輪をまたいでくぐり、ご神前へと進み⼆拝⼆拍⼿⼀拝の作法で拝礼する

以上が茅の輪くぐりを⾏う際の⼀連の流れ(ポイント:① 茅の輪の前に⽴ったら必ず⼀礼 ② 左→右→左(さ・う・さ)の順番で8の字を描くように回り、4回目は直進し神前へ)。

なお、茅の輪をくぐる回数やお祈りする唱え詞は各地に様々な詞があるようですので、機会がありましたら調べてみるのも楽しいかもしれません。

面倒くさい作法を書きましたが「神様はとてもおおらかな方だそうですので、あまりこだわることなく楽しく参加してください」とのこと。

出来るだけ回数多く神社に来て下さる方が喜ばれるとか。

≪和楽備神社 大祓(おおはらえ)の手順≫

①6月1日より神社で人形(ひとがた)が頒布(はんぷ)されるのでいただいてくる。

②いただいた人形に住所、氏名、生年月日を書き、罪・穢れが人形に移るように念じながら全身を撫でる。最後に人形に息を吹きかける。

③人形と※御初穂料を、人形と一緒にいただいた封筒に入れて6月30日午後4時30分までに神社にお納めする。そのときに『大祓御札』または『大祓御札と特別御守り』をいただき、御札は玄関や部屋の戸口に貼る。

※御初穂料:1人500円納の場合は『大祓御札』をいただく。1人1,000円以上納の場合は『大祓御札と特別御守り』をいただく。

④6月30日午後5時より大祓式を斉行し参列者のお祓いと茅の輪くぐりを行う。

以上ですが、今年は所用の為大祓式に参加できませんので少し早めにお納めしてきました。なお、「大祓式」は6月30日に行われる「夏越しの祓」と12月31日に行われる「年越しの祓」があります。しかし年末は何かと多忙なため多くの神社では「夏越しの祓」のみが行われているようです。

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

≪ 重 要 ≫

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

広報WARABI(吉田 喜義さん)

蕨市で毎月発行される広報誌「広報WARABI」2019年6月号に笑楽日塾の塾生が取り上げられました。「輝いています ひと」欄に、「国際協力コンサルタント 希望の未来に架かる橋 吉田喜義さん」とのキャッチコピーで紹介されたもの。前々回6月8日には塾生内田茂さんが広報誌に載った記事紹介しましたが、今回は同じく塾生の吉田喜義さんです。

開発途上国に対する支援や技術協力などを行うJICA(ジャイカ)(独立行政法人国際協力機構)。総合建設会社を定年退職後、そのJICAの委託で、主に東南アジアの土木工事の現地調査・施工管理業務を行っているのが吉田喜義さんです。ときには1年半以上も現地に駐在しながら快適で安全な暮らしの実現に尽力しています。(出典:広報WARABI 2019年6月号より抜粋)。

https://www.city.warabi.saitama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/092/201906honsi.pdf

なお、広報誌のキャッチにも書かれていますが「希望の未来に架かる橋」は、当ブログ「笑楽日塾の事件簿」でも2020年9月16日投稿分オンライン公開講座、第2回「世界に橋を架ける」で紹介しています。『1997年に完成したマレーシアとシンガポールを結ぶ海上橋、マレーシア・シンガポール第2連絡橋』『2004年に完成した台北と高雄を結ぶ台湾版新幹線の台南地区の高架橋』『2006年に完成したベトナム世界遺産ハロン湾を臨むPC斜張橋のバイチャイ橋』。多くの国で貢献されてきた中からの3例ですが、日本の技術を世界に知らしめた笑楽日塾塾生吉田さんの情熱に大感動です。

また、2021年11月17日投稿分でオンライン公開講座PartⅡ第3回「海外コンサルタント生活 タイ、カンボジア編」でも、「タイ・バンコク高速道路改修工事」「カンボジアプノンペン信号機工事」について、工事概要とコンサルタントについて、また当地での生活ぶり等を紹介してくださいました。

吉田さんは当笑楽日塾入塾後もお忙しく世界を飛び回っています。2019年11月には嘗てタイ・バンコクの高速道路改修工事や、カンボジアプノンペンの信号機工事でお世話になったコンサルタントさんから要請があり、施工監理の支援のため現地に赴き任務完了後の12月に帰国されています。

≪広報誌を見た塾生の感想≫

海外で活躍されている日本人をテレビで拝見することもかなり頻度でありますが、その多くの方はJICA(ジャイカ)から派遣されているとか。担当される仕事の内容は人それぞれだと思うものの、世界で活躍されている吉田さんが笑楽日塾におられることに誇りに感じています。これからの塾活動の励みになります。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

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埼玉県美術展覧会(県展)

埼玉県美術展覧会(通称「県展」)が開催中です。日本画、洋画、彫刻、工芸、書、写真の6部門で、参加資格は15歳以上の県内在住、在勤、在学者(中学生を除く)。例年だと3,500点超の出品数があり、その中から入選作品及び委嘱作品、招待作品等の約2,000点が会場に展示されるとか。

前回の展覧会では、15歳から101歳までの方から出品があり、幅広い年代の方が活躍されていることが分かります。101歳とは驚きですね。

そんな県展ですが、先日知人から「応募したら入選したので時間があったら見にいってくれないか」とのお誘いがあり。6月8日(水)会場のJR北浦和駅西口近くの北浦和公園内にある「埼玉県立近代美術館さいたま市浦和区常盤9-30-1)」まで行ってきました。絵心の全くない私ですが、皆さんの素晴らしい作品を拝見し「私にこの半分でも才能があれば」と羨ましい限りです。

この県展は昭和26年3月から始まり今回で70回目だそうですが、会場は月曜が休館で6月23日(木)まで開催していますので、お近くの方で興味のある方は是非とも足をお運びください。戦後間もなくから始まって70年という長い歴史があることにも感動しています。

この美術館は1982年11月設立で40年の歴史があります。館内は綺麗に整備されていて気持ちの良いひと時を過ごすことが出来ましたので、来てよかったなと実感した次第ですが、休息所が少ないと感じたのは美術展巡りの経験が少ない私だからでしょうか。それとも私の見落としか。

帰りに美術館のある北浦和公園を少し散策しようかとも思っていましたが、展覧スペースが広く右往左往した高齢者は少々お疲れ気味。また今度にしましょう。

埼玉県の名菓「草加せんべい」は全国的に有名だと思いますが、私にとって更に美味しいと思っているのが「晴天を衝く」の渋沢栄一氏が生まれた、埼玉県深谷市深谷ネギを使った「ねぎみそ煎餅」。

北浦和駅西口前には「ねぎみそ煎餅」のメーカー㈱片岡食品(埼玉県さいたま市)の直営店があり、以前は蕨から時々購入しに伺ったものです。今では各地の和菓子屋さん等でも販売されていますので、近くのお店で買い求めていますが今回は帰りに寄って購入してきました。お店の中に入ると店内は懐かしく、購入した煎餅は帰宅後に家族で美味しくいただきました。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

≪ 重 要 ≫

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広報WARABI(内田 茂さん)

蕨市で毎月発行される広報誌「広報WARABI」2020年11月号に笑楽日塾の塾生が紹介されました。「輝いています ひと」欄に、「蕨の専門家講座を世界に発信 内田茂さん」とのキャッチで、紹介されたもの。

2月から新型コロナウイルスの感染が拡大。外出自粛で仲間が集まれないなか、内田さんはZoomによるオンライン会合を提案し、高齢で不安があった人も、丁寧なフオローで操作に慣れ、その便利さに目を開きます。(出典:広報WARABI 2020年11月号より抜粋)。

https://www.city.warabi.saitama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/929/202011honsi.pdf

内田さんは当笑楽日塾の塾生(世話役さん)であるとともに、記事内でも紹介されているように、リタイアされた後は現役時代に培ったスキルを生かして、中央公民館のパソコン支援隊などの地域活動をされています。

なお、内田さんは現役時代に「個人情報の取扱い」の制度を指導する立場のお仕事をされていたとのことで、当笑楽日塾の第8回オンライン公開講座で個人情報のお話しを担当されています。『個人情報保護法では個人情報のことを、「生存する個人に関する情報であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの」と規定しています。』などと、1時間にわたり熱く易しく解説してくださいました。

≪広報誌を見た塾生の感想≫

広報WARABI 内田さん出ていました!!良いですね!!

「笑楽日塾って何だ?」と市民の方々は一気に好奇心を持つと思います。

笑楽日塾が有名になればなるほど、アクティブシニア笑楽日塾塾生は「単なるお楽しみ団体」でない塾であることに誇りを持って、ますます笑楽日塾発展の為に日々、活動して行きたいと感じました。また責任感も感じつつあります。

笑楽日塾 荒井塾長を先頭にこれからも皆さんと一致団結して魅力のある、そして品格のある笑楽日塾にしていきましょう(2020年11月1日)。

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

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一段落しました

笑楽日塾のオンライン公開講座は、2020年08月19日投稿分「料理用包丁と砥石」から始まり、2022年5月28投稿の「頼朝と義経 ―その栄光と確執―(8/8)」で全20回分が完結しました。

講師として様々な見識を披露していただいた塾生、並びに講師を快諾してくださいました市内在住の識者の皆様が大活躍され、拝聴させていただいた者としては大変有意義な時間を共有させていただいたことに感謝申し上げます。また、20回全てを放送してくださいました蕨ケーブルビジョン㈱様と、毎回受講していただきました沢山の皆様に心からお礼申し上げます。

この後は20回のセミナー一つひとつを振り返り、ブログで正しくお伝い出来たかを確認しながら今後の糧となるよう心掛けたい思っています。初期の頃には講演内容をかなり割愛していましたので、この時に書けなかった分を掘り起こし、さらに中身の濃いものにして後日改めてご紹介したいとも考えています。

新型コロナの感染は以前に比べたらだいぶ落ち着いてきましたがまだまだ油断できず、一つの会場に大勢が集まって行う講演会やセミナーは用心が必要です。それに比べて自宅から参加できるオンラインでの開催は大変有効なツールになりました。笑楽日塾のオンライン公開講座は少しの間お休みになりますので、当ブログ「笑楽日塾の事件簿」は塾生の活動や塾生が生活する埼玉県と蕨市のことなど、地域活動も含めて紹介したいと思います。

蕨市は江戸から昭和にかけて宿場町や機織りの町として栄えた大変歴史のある町ですが、近年は東京のベッドタウン化したため新しくお住まいになられた方が大勢おられます。

蕨市の歴史は今までに諸先輩方がかなりの部分を調べられていますので、これ等を基に「新住民の方にも蕨のことをもっと知っていただきたい」「子供達にも自分が住んでいる町のことをもっと知って欲しい」「笑楽日塾はその仲立ちをしたい」との思いで、就労からリタイアした、又はリタイア間近な男15名が2018年1月に笑楽日塾を立ち上げました。まだ数年の実績しかありませんが、最近では活動にも余裕が出来てきたため社会問題にも取り組むようになっております。

最近世間を騒がせているSDGs達成の取り組みにも力を入れ、SDGs 17の分野の目標の中でも「目標2:飢餓をゼロに」「目標12:つくる責任つかう責任」「目標13:気候変動に具体的な対策を」などに力を入れています。

このようなことを考えながら、当ブログ「笑楽日塾の事件簿」は毎週水曜日の投稿を目標にしていますのでお手すきの時にでもお立ち寄りください。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

≪ 重 要 ≫

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頼朝と義経 ―その栄光と確執―(8/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の7回目の最終回になります。

 義経、京へ凱旋そして鎌倉へ

義経は、捕虜とした平家の総帥宗盛父子と安徳天皇の母徳子を伴って京へ凱旋します。義経の堀川館には宗盛父子を保護し、徳子は朝廷へ引き渡され、その後は大原の里、寂光院で尼となり、建礼門院として安徳天皇と平家一門の御霊(みたま)を祀り、その生涯を閉じるのです。

義経は5月7日には、兄頼朝に平家壊滅を報告し、此度の手柄の慰労を求めて、宗盛父子を伴い鎌倉へと出発するのです。前もって義経の鎌倉行きは頼朝の許に伝達していましたが、それに対しての返事はなく、なんとなく気にはなっていたのですが5月17日鎌倉の外れ極楽寺近くの満福寺(まんぷくじ)まで着いたとき、北条時政が頼朝の使者として現れ、義経の鎌倉入りは禁じられ、宗盛父子の頼朝への面通しだけ許され連れて行ってしまうのです。

義経、その時辛抱強く満福寺に逗留するのですが、頼朝からの許しはなかなか届かず、頼朝の護衛を任じている「弁慶」が義経の功績などを縷々(るる)書き上げた「腰越状(こしごえじょう)」を政所(まんどころ)の別当大江広元(おおえひろしもと)に提出し、頼朝の許しを請うのでありますが、一向に返事がなく、月が替わって6月9日、また北条時政が宗盛父子をつれて、頼朝の命として、宗盛父子を護送し朝廷の裁きを受けさせるようにと伝え、ここで完全に義経と頼朝の涙の対面の絆は崩れてしまうのでした。

頼朝の勘気にふれた義経は、何故に!との疑問が解けないうちに6月17日近江国篠原にて平家の総帥宗盛父子を斬首してしまいます。この場で完全に平家は滅亡してしまいます。

頼朝!義経へ刺客を放つ

頼朝は義経の抹殺を決意し、大倉御所に御家人を召集し、京に滞在する義経の暗殺を述べ、実行者を諮問するのです。そこへ家人の「土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)」が手を挙げ83騎の軍勢にて密かに鎌倉を出立し京へ向かうのです。

この情報は、義経には事前に漏れ聞こえて、また、静御前の機転もあったとなっていますが、いずれにしても、暗殺団は悉く誅され(ことごとくちゅうされ)六条河原にさらされてしまったのです。

義経!立ち上がる

兄頼朝の刺客という卑劣な行為に、純真無垢な義経、怒りが収まらず朝廷の「後白河法皇」の許に向かう。後白河法皇に「頼朝追討」の宣旨を強要するのです。義経の願いを聞き入れ、畏れ多くも「頼朝追討」の宣旨を与えるのです。

そして、すぐに義経畿内の豪族に賛同を求めるのですが、これには殆ど乗ってこないのです。さすがの義経、窮地に立ちます。鎌倉からは頼朝自身が10万騎をもって義経討伐にむかうという報が入ってくる。

義経、一旦九州に落ち延び再起を図ることを決意、摂津の大物浦(おおものうら)から九州を目指し船出する。しかし波浪高く船は難破し弁慶、静御前を伴っての陸路の逃避行がはじまる。

最初に向った吉野山は女人禁制のため静御前とは再会を約し別れ、ここから伊勢、美濃と二年間、頼朝の執拗な追撃を振りほどき、漸く平泉の奥州藤原秀衡(ひでひら)の許にたどり着くのです。文治3年(1187)の春のころであった。

しかし、ここでも、義経に暗雲が漂ってくるのです。奥州藤原家の当主藤原秀衡は秋10月29日死を迎えてしまうのです。

義経の最期

兄頼朝は後白河法皇へ何故「頼朝追討の宣旨(せんじ)」を義経に与えたのか、厳しく問うことにし、北条時政を名代にして1000騎の大軍を京に差し向け、後白河法皇を厳しく糾弾するのであるが、法皇義経に恐喝されたという言い訳で逃げる。時政も戦略を尽くし後白河法皇から全国の「守護」「地頭」の任命権を鎌倉幕府の権力に取り入れることに成功。この「頼朝追討」宣旨の一件は今後の鎌倉幕府のより一層発展していく基盤にもなっていくのです。

さらに後白河法皇から「義経追討」の宣旨を拝戴し、義経追討と同時に奥州藤原をも滅亡させていくことに着手していくのです。奥州藤原家四代藤原泰衡(やすひら)へ頼朝は執拗に義経の引き渡しを迫ります。

泰衡も頼朝の追求に耐え切れず、義経の「衣川館(ころもがわのたて)」を攻めるのです。これに立ち向かい仁王立ちの形相で主君義経を守る弁慶。多勢に無勢、義経、最後の力を絞り立ち向かうも妻子を先立たせ、自らも「源九郎判官義経」の命を絶ってしまいます。

文治5年(1189)4月30日、義経、これからという「31歳」の源氏の若武者でした。

― 終 章 ―

源氏の御曹司として、その将来を期待されながらの頼朝であったが、その生きざまは天国から地獄の大転換をめぐりながら、最後には、日本ではじめての江戸時代まで続く武家政権を作り上げた功績は計り知れないものがあり、そして、その武家政権の土台を作り上げたと言っても過言でない義経の一途な源氏再興の強さは見事なものであった。

しかし、この兄弟の別れは以外にも早かった。

幼少時より雅な世界に育った頼朝は、命の危険に幾度となく遭遇し、その恐ろしさは、また、武家政権を確立していく過程には、次には後白河法皇の朝廷が最も「危険」な存在になってきたことに気付いたのであります。

それは、後白河法皇が、ある時から平家と源氏を戦わせ、最後には、朝廷を守る武士の世界に戻し、朝廷の下に組み入れていくという思惑が、頼朝には「明確」に見えてきたのです。

一方、先祖伝来に「源氏」の興隆へと懸命に導いていこうとする「純粋無垢」な義経には、朝廷の後白河法皇の戦略が全く考えられなかったのではなかろうか?

そして、兄頼朝が最も危険視した左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)にも叙され、さらには、内昇殿(うちのしょうでん)も許される義経を最後には頼朝が抹殺せざるを得ないところまできてしまったのであります。

荒井貞夫塾長より結びの挨拶(これから、笑楽日塾の活動について)

オンライン講座にご参加の皆様やケーブルテレビWinkの視聴者の温かい声援に支えられて、無事に20回を終えることが出来ました。

これからも、笑楽日塾では、宿場町・蕨の歴史を学び、市内の古刹を巡り、地域の伝統産業であった織物の栄枯盛衰、今も残る多くの文化財を調べて、埼玉県の内外に、「蕨市ここにあり」と発信出来る力を蓄え、いつの日か広い会場で皆様にお伝えしたいと存じます。

これからもご支援、ご鞭撻を賜りたくよろしくお願い申し上げます。有り難うございました。

武家政権を開きたい幕府と朝廷の策士「後白河法皇」のせめぎ合い、純真無垢な弟と目的のためには兄弟でも滅ぼす冷徹な兄の確執、後ろには北条氏の影もチラつくとか。何でもありの怖い時代ですね。

頼朝と義経でいえば、小さいころに絵本で読んだ牛若丸と弁慶の出会い(京の五条の橋の上~♫)の記憶が残っているため、どうしても義経びいき(判官びいき)になってしまいます。

「頼朝の写真は別人ではないか」とか「義経はもっとイケメンだったのではないか」など、歴史の研究が進むと今までとは違ったことも言われるようになり、想像していると楽しいですね。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―は今回で終了です。清藤様ありがとうございました。お読みいただきました皆様に感謝申し上げます。

オンライン公開講座の紹介は一旦今回で終了しますが、笑楽日塾では「次に何をやるか」。検討を始めていますのでご期待ください。なお、当ブログ「笑楽日塾の事件簿」はこれからも週一で投稿する予定です。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(7/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の6回目になります。

 奥州藤原家から頼朝へ

奥州藤原家の当主藤原秀衡は、迎え入れた義経の素養を見出さし、行く行くは奥州藤原家の大将軍となるよう育てていた。しかし、義経22歳のとき(治承4年-1180)の9月に入り、兄頼朝の平家打倒の挙兵を知るのです。義経馳せ参ずることを決意し、秀衡に訴えます。当然秀衡止めますが義経の意思固く、最後には藤原家の屈強の武将佐藤継信・忠信の兄弟を含め85騎となって平泉を進発させるのです。

奥州街道走りに走り、途中「こかわぐち」でも軍勢を整え、10月21日には、兄頼朝の「黄瀬川宿」へ到着。義経は肉親との対面することもなく、鞍馬の山の孤独な日々が脳裏をかすめたのか兄頼朝に逢えたのが嬉しく感極まり嗚咽をとめることができなかった。

兄頼朝も涙を拭っていたということでした。そして、平維盛の2万の軍勢を追いやり鎌倉へ義経と同道し凱旋していくのです。

木曾義仲の蜂起

治承4年(1180)の平家打倒に立ち上がった源氏は、頼朝ばかりではなかった。同じ源氏の「木曾義仲」も頼朝に遅れること9月には破竹の勢いで北陸路を制覇していった。この義仲の蜂起も、清盛の神経を逆なでし、翌年2月の清盛の死期を少しばかりは早めた因になったかもしれないくらいの北陸方面への進撃は速かった。

 寿永2年(1183)4月平家は平維盛を総大将として、今度は木曽義仲の討伐に軍を進める、迎え撃つ義仲!俱利伽羅峠を牛の角に松明を括り付け、その数知れずの数百頭を暴走させるという奇策を実行、平維盛軍を圧倒しその勢いで、平氏を京の都から追い出してしまいます。そして、さらには瀬戸内海まで追いかけ義仲深追いしすぎます。

この年、大飢饉の年でした。義仲軍兵量不足も重なり瀬戸内の中央あたりの水島で平家水軍の反撃に敗れ、急いで京に帰ってきます。そして、田舎者の義仲軍、京の町を無差別に荒らしまくります。

頼朝への密勅

都の京での乱暴には、当初協力的であった「後白河法皇」も手のひらを返したように、鎌倉の頼朝へ「義仲討伐の密勅」を送ります。頼朝それを拝戴し、ただちに弟源範頼(のりより)を追討軍大将として瀬田の唐橋から、また、この時初めて義経を搦手として伊勢方面から宇治へ向かい義仲を攻めさせます。義仲、愛妾巴御前と共に戦うも敗れ誅殺されてしまいます。これが寿永3年(1184)1月20日の義仲短い天下人の歴史に残る享年31歳の人生であった。

義経の大活躍

木曾義仲と鎌倉頼朝軍(範頼、義経)が争っているとき、九州大宰府まで落ちていた平家は勢力を盛り返し、京の目の前、福原(神戸)と屋島高松市)へ陣を張り、京の奪還を目論んでいた。これには後白河法皇も慌て、すぐさま鎌倉頼朝へ「平家打倒」の「宣旨(せんじ)」を下し、頼朝それに呼応し、まず福原を落とすこととした。

この時も引き続き大将は源範頼ですが、山陽道を攻め下ります。一方義経丹波道から一万騎を率いて三草山を守る平家軍を蹴散らし、畠山重忠を含め70騎で山中を地元の地形に詳しい鷲尾義久に案内させ、福原の平家の陣地を真下にした鵯越(ひよどりごえ)に到着する。義経は義久に「この急坂は獣が通っているか?」と問えば「山羊が上り下りします」との答え。それでは馬も通れると判断した義経は一気に下りるのです。これが世にいう「鵯越の逆さ落とし」と伝わることになります。

この時、陣を張る平家、予想もできない義経軍の背後からの攻撃に逃げ回り、大方は向かいの屋島に逃げ込んでしまうのです。寿永3年2月7日のことであります。

義経の叙爵

一の谷の戦いが終わると兵量不足もあり、次の戦いの準備に入るため平家と源氏は一時休戦状態となります。源範頼は鎌倉へ帰ります。義経は幼少時代京育ちで、頼朝から都の治安と屋島長門彦島の平家の監視をまかされるのです。その間約一年間です。

この時の義経の京の治安は非常に評判がよかった。これに目をつけた「後白河法皇」は8月6日左衛門尉(さえもんのじょう)、検非違使(けびいし)の官位を義経に授け、さらには内昇殿(うちのしょうでん)までゆるすのであります。鎌倉の頼朝はかねがね朝廷からの官位は、頼朝が申請してから叙爵するというきつい掟を設けていた。この義経の叙爵は予想外で、後白河法皇の手足となることを義経には危惧し大激怒するのであります。これが後々の兄弟の確執となっていきます。

しかし、当面の敵は目の前の平家です。頼朝は平家討滅の作戦を鎌倉で行い、義経へは平家水軍と対抗し得る水軍の調略を命じているのです。

平家の滅亡

頼朝の作戦は約一年間の休戦状態の中で朝廷の後白河法皇の行動を観察していたのかもわかりません。まず、範頼を平家が九州へ渡らないように九州豊後国の制圧に派遣します。その中には、後の北条政権を確立していく北条義時も大切な役割を背負って範頼軍勢に加わっています。

山陽道を下るのですが、未だに平家へ味方する豪族が後を絶たず苦戦をしいられながらの行軍でしたが、四国の河野水軍や周防水軍の平家からの寝返りもあり、ようやく豊後国に渡り、この地の豪族少弐(しょうに)氏を従え万全の体制を敷くのです。

一方の義経は、満を持して熊野水軍も調略し、平家水軍と同格になった事を確認し、また、範頼軍の進捗情報も得て、いよいよ屋島の平家陣地を攻めることになりますが、天候不順となってきます。ここで義経攻撃の強行を主張するのですが、副将の梶原景時の反対に合い犬猿の仲となっていきます。このことも後々景時の讒言(ざんげん)により頼朝の不興を買い確執の因の一つになっていきます。

いずれにしても、義経の行動は常識を覆す戦いで、まず悪天候を突いて小人数で阿波国へ渡り、屋島を背後の陸地から攻めるのです。そして民家に火を放ち、大軍が攻め込んできたように敵陣を混乱に陥れます。

ここで、那須与一の物語や熊谷直実(なおざね)と平敦盛(あつもり)の後世に伝わる場面が展開されますが、義経は勝利し、2月18日には屋島から平家軍を一掃し、長門国彦島の平家本部を標的に攻めるのです。この時には、もはや水軍は平家水軍を上回る規模となって一気に攻めていくのです。そして、平家軍九州を範頼軍に抑えられ、ここ彦島海上で決戦しなければなりません。

また、この決戦の場でも先陣争いが義経梶原景時との間でおこり、これも頼朝に報告され、確執の種の一つとなったかもしれません。

この時には、また義経奇手を使います。それは伝統として水上の戦いは漕ぎ手や水子(かこ)は殺(あや)めないのですが、義経これを無視し、最初に水子・漕ぎ手を殺め船の動きを止めてしまうのです。地上戦に似た戦いに持ち込み、開戦からわずかな午の刻(正午)には、平家の武将を悉(ことごと)く蹴散らしてしまうのです。あっという間の戦いで平家を再起不能にまで壊滅してしまいます。

この平家追討にあたり、後白河法皇は頼朝へ「神璽(しんじ)」と「安徳天皇」は必ず奪い返すようにと命じています。当然義経にも伝わってはいましたが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙の剣)は海中に没してしまいます。また、安徳天皇二位尼時子(ときこ)に抱かれ「波の下にも都はあります」と言い聞かされ入水してしまうのです。時に8歳の天皇でした。総帥の平宗盛、宗清父子は泳いでいるところを捕まり、天皇の母徳子皇后は助けられ京に護送されることになりますが、栄華を極めた平家の時代は文治元年(1185)3月24日義経の大活躍により、長門国は壇ノ浦で滅亡してしまうのです。

次回は5月28日投稿予定で「義経、京へ凱旋そして鎌倉へ」から始まります。ご期待ください。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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