笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(8/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の7回目の最終回になります。

 義経、京へ凱旋そして鎌倉へ

義経は、捕虜とした平家の総帥宗盛父子と安徳天皇の母徳子を伴って京へ凱旋します。義経の堀川館には宗盛父子を保護し、徳子は朝廷へ引き渡され、その後は大原の里、寂光院で尼となり、建礼門院として安徳天皇と平家一門の御霊(みたま)を祀り、その生涯を閉じるのです。

義経は5月7日には、兄頼朝に平家壊滅を報告し、此度の手柄の慰労を求めて、宗盛父子を伴い鎌倉へと出発するのです。前もって義経の鎌倉行きは頼朝の許に伝達していましたが、それに対しての返事はなく、なんとなく気にはなっていたのですが5月17日鎌倉の外れ極楽寺近くの満福寺(まんぷくじ)まで着いたとき、北条時政が頼朝の使者として現れ、義経の鎌倉入りは禁じられ、宗盛父子の頼朝への面通しだけ許され連れて行ってしまうのです。

義経、その時辛抱強く満福寺に逗留するのですが、頼朝からの許しはなかなか届かず、頼朝の護衛を任じている「弁慶」が義経の功績などを縷々(るる)書き上げた「腰越状(こしごえじょう)」を政所(まんどころ)の別当大江広元(おおえひろしもと)に提出し、頼朝の許しを請うのでありますが、一向に返事がなく、月が替わって6月9日、また北条時政が宗盛父子をつれて、頼朝の命として、宗盛父子を護送し朝廷の裁きを受けさせるようにと伝え、ここで完全に義経と頼朝の涙の対面の絆は崩れてしまうのでした。

頼朝の勘気にふれた義経は、何故に!との疑問が解けないうちに6月17日近江国篠原にて平家の総帥宗盛父子を斬首してしまいます。この場で完全に平家は滅亡してしまいます。

頼朝!義経へ刺客を放つ

頼朝は義経の抹殺を決意し、大倉御所に御家人を召集し、京に滞在する義経の暗殺を述べ、実行者を諮問するのです。そこへ家人の「土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)」が手を挙げ83騎の軍勢にて密かに鎌倉を出立し京へ向かうのです。

この情報は、義経には事前に漏れ聞こえて、また、静御前の機転もあったとなっていますが、いずれにしても、暗殺団は悉く誅され(ことごとくちゅうされ)六条河原にさらされてしまったのです。

義経!立ち上がる

兄頼朝の刺客という卑劣な行為に、純真無垢な義経、怒りが収まらず朝廷の「後白河法皇」の許に向かう。後白河法皇に「頼朝追討」の宣旨を強要するのです。義経の願いを聞き入れ、畏れ多くも「頼朝追討」の宣旨を与えるのです。

そして、すぐに義経畿内の豪族に賛同を求めるのですが、これには殆ど乗ってこないのです。さすがの義経、窮地に立ちます。鎌倉からは頼朝自身が10万騎をもって義経討伐にむかうという報が入ってくる。

義経、一旦九州に落ち延び再起を図ることを決意、摂津の大物浦(おおものうら)から九州を目指し船出する。しかし波浪高く船は難破し弁慶、静御前を伴っての陸路の逃避行がはじまる。

最初に向った吉野山は女人禁制のため静御前とは再会を約し別れ、ここから伊勢、美濃と二年間、頼朝の執拗な追撃を振りほどき、漸く平泉の奥州藤原秀衡(ひでひら)の許にたどり着くのです。文治3年(1187)の春のころであった。

しかし、ここでも、義経に暗雲が漂ってくるのです。奥州藤原家の当主藤原秀衡は秋10月29日死を迎えてしまうのです。

義経の最期

兄頼朝は後白河法皇へ何故「頼朝追討の宣旨(せんじ)」を義経に与えたのか、厳しく問うことにし、北条時政を名代にして1000騎の大軍を京に差し向け、後白河法皇を厳しく糾弾するのであるが、法皇義経に恐喝されたという言い訳で逃げる。時政も戦略を尽くし後白河法皇から全国の「守護」「地頭」の任命権を鎌倉幕府の権力に取り入れることに成功。この「頼朝追討」宣旨の一件は今後の鎌倉幕府のより一層発展していく基盤にもなっていくのです。

さらに後白河法皇から「義経追討」の宣旨を拝戴し、義経追討と同時に奥州藤原をも滅亡させていくことに着手していくのです。奥州藤原家四代藤原泰衡(やすひら)へ頼朝は執拗に義経の引き渡しを迫ります。

泰衡も頼朝の追求に耐え切れず、義経の「衣川館(ころもがわのたて)」を攻めるのです。これに立ち向かい仁王立ちの形相で主君義経を守る弁慶。多勢に無勢、義経、最後の力を絞り立ち向かうも妻子を先立たせ、自らも「源九郎判官義経」の命を絶ってしまいます。

文治5年(1189)4月30日、義経、これからという「31歳」の源氏の若武者でした。

― 終 章 ―

源氏の御曹司として、その将来を期待されながらの頼朝であったが、その生きざまは天国から地獄の大転換をめぐりながら、最後には、日本ではじめての江戸時代まで続く武家政権を作り上げた功績は計り知れないものがあり、そして、その武家政権の土台を作り上げたと言っても過言でない義経の一途な源氏再興の強さは見事なものであった。

しかし、この兄弟の別れは以外にも早かった。

幼少時より雅な世界に育った頼朝は、命の危険に幾度となく遭遇し、その恐ろしさは、また、武家政権を確立していく過程には、次には後白河法皇の朝廷が最も「危険」な存在になってきたことに気付いたのであります。

それは、後白河法皇が、ある時から平家と源氏を戦わせ、最後には、朝廷を守る武士の世界に戻し、朝廷の下に組み入れていくという思惑が、頼朝には「明確」に見えてきたのです。

一方、先祖伝来に「源氏」の興隆へと懸命に導いていこうとする「純粋無垢」な義経には、朝廷の後白河法皇の戦略が全く考えられなかったのではなかろうか?

そして、兄頼朝が最も危険視した左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)にも叙され、さらには、内昇殿(うちのしょうでん)も許される義経を最後には頼朝が抹殺せざるを得ないところまできてしまったのであります。

荒井貞夫塾長より結びの挨拶(これから、笑楽日塾の活動について)

オンライン講座にご参加の皆様やケーブルテレビWinkの視聴者の温かい声援に支えられて、無事に20回を終えることが出来ました。

これからも、笑楽日塾では、宿場町・蕨の歴史を学び、市内の古刹を巡り、地域の伝統産業であった織物の栄枯盛衰、今も残る多くの文化財を調べて、埼玉県の内外に、「蕨市ここにあり」と発信出来る力を蓄え、いつの日か広い会場で皆様にお伝えしたいと存じます。

これからもご支援、ご鞭撻を賜りたくよろしくお願い申し上げます。有り難うございました。

武家政権を開きたい幕府と朝廷の策士「後白河法皇」のせめぎ合い、純真無垢な弟と目的のためには兄弟でも滅ぼす冷徹な兄の確執、後ろには北条氏の影もチラつくとか。何でもありの怖い時代ですね。

頼朝と義経でいえば、小さいころに絵本で読んだ牛若丸と弁慶の出会い(京の五条の橋の上~♫)の記憶が残っているため、どうしても義経びいき(判官びいき)になってしまいます。

「頼朝の写真は別人ではないか」とか「義経はもっとイケメンだったのではないか」など、歴史の研究が進むと今までとは違ったことも言われるようになり、想像していると楽しいですね。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―は今回で終了です。清藤様ありがとうございました。お読みいただきました皆様に感謝申し上げます。

オンライン公開講座の紹介は一旦今回で終了しますが、笑楽日塾では「次に何をやるか」。検討を始めていますのでご期待ください。なお、当ブログ「笑楽日塾の事件簿」はこれからも週一で投稿する予定です。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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