清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の6回目になります。
奥州藤原家から頼朝へ
奥州藤原家の当主藤原秀衡は、迎え入れた義経の素養を見出さし、行く行くは奥州藤原家の大将軍となるよう育てていた。しかし、義経22歳のとき(治承4年-1180)の9月に入り、兄頼朝の平家打倒の挙兵を知るのです。義経馳せ参ずることを決意し、秀衡に訴えます。当然秀衡止めますが義経の意思固く、最後には藤原家の屈強の武将佐藤継信・忠信の兄弟を含め85騎となって平泉を進発させるのです。
奥州街道走りに走り、途中「こかわぐち」でも軍勢を整え、10月21日には、兄頼朝の「黄瀬川宿」へ到着。義経は肉親との対面することもなく、鞍馬の山の孤独な日々が脳裏をかすめたのか兄頼朝に逢えたのが嬉しく感極まり嗚咽をとめることができなかった。
兄頼朝も涙を拭っていたということでした。そして、平維盛の2万の軍勢を追いやり鎌倉へ義経と同道し凱旋していくのです。
木曾義仲の蜂起
治承4年(1180)の平家打倒に立ち上がった源氏は、頼朝ばかりではなかった。同じ源氏の「木曾義仲」も頼朝に遅れること9月には破竹の勢いで北陸路を制覇していった。この義仲の蜂起も、清盛の神経を逆なでし、翌年2月の清盛の死期を少しばかりは早めた因になったかもしれないくらいの北陸方面への進撃は速かった。
寿永2年(1183)4月平家は平維盛を総大将として、今度は木曽義仲の討伐に軍を進める、迎え撃つ義仲!俱利伽羅峠を牛の角に松明を括り付け、その数知れずの数百頭を暴走させるという奇策を実行、平維盛軍を圧倒しその勢いで、平氏を京の都から追い出してしまいます。そして、さらには瀬戸内海まで追いかけ義仲深追いしすぎます。
この年、大飢饉の年でした。義仲軍兵量不足も重なり瀬戸内の中央あたりの水島で平家水軍の反撃に敗れ、急いで京に帰ってきます。そして、田舎者の義仲軍、京の町を無差別に荒らしまくります。
頼朝への密勅
都の京での乱暴には、当初協力的であった「後白河法皇」も手のひらを返したように、鎌倉の頼朝へ「義仲討伐の密勅」を送ります。頼朝それを拝戴し、ただちに弟源範頼(のりより)を追討軍大将として瀬田の唐橋から、また、この時初めて義経を搦手として伊勢方面から宇治へ向かい義仲を攻めさせます。義仲、愛妾巴御前と共に戦うも敗れ誅殺されてしまいます。これが寿永3年(1184)1月20日の義仲短い天下人の歴史に残る享年31歳の人生であった。
義経の大活躍
木曾義仲と鎌倉頼朝軍(範頼、義経)が争っているとき、九州大宰府まで落ちていた平家は勢力を盛り返し、京の目の前、福原(神戸)と屋島(高松市)へ陣を張り、京の奪還を目論んでいた。これには後白河法皇も慌て、すぐさま鎌倉頼朝へ「平家打倒」の「宣旨(せんじ)」を下し、頼朝それに呼応し、まず福原を落とすこととした。
この時も引き続き大将は源範頼ですが、山陽道を攻め下ります。一方義経は丹波道から一万騎を率いて三草山を守る平家軍を蹴散らし、畠山重忠を含め70騎で山中を地元の地形に詳しい鷲尾義久に案内させ、福原の平家の陣地を真下にした鵯越(ひよどりごえ)に到着する。義経は義久に「この急坂は獣が通っているか?」と問えば「山羊が上り下りします」との答え。それでは馬も通れると判断した義経は一気に下りるのです。これが世にいう「鵯越の逆さ落とし」と伝わることになります。
この時、陣を張る平家、予想もできない義経軍の背後からの攻撃に逃げ回り、大方は向かいの屋島に逃げ込んでしまうのです。寿永3年2月7日のことであります。
義経の叙爵
一の谷の戦いが終わると兵量不足もあり、次の戦いの準備に入るため平家と源氏は一時休戦状態となります。源範頼は鎌倉へ帰ります。義経は幼少時代京育ちで、頼朝から都の治安と屋島と長門彦島の平家の監視をまかされるのです。その間約一年間です。
この時の義経の京の治安は非常に評判がよかった。これに目をつけた「後白河法皇」は8月6日左衛門尉(さえもんのじょう)、検非違使(けびいし)の官位を義経に授け、さらには内昇殿(うちのしょうでん)までゆるすのであります。鎌倉の頼朝はかねがね朝廷からの官位は、頼朝が申請してから叙爵するというきつい掟を設けていた。この義経の叙爵は予想外で、後白河法皇の手足となることを義経には危惧し大激怒するのであります。これが後々の兄弟の確執となっていきます。
しかし、当面の敵は目の前の平家です。頼朝は平家討滅の作戦を鎌倉で行い、義経へは平家水軍と対抗し得る水軍の調略を命じているのです。
平家の滅亡
頼朝の作戦は約一年間の休戦状態の中で朝廷の後白河法皇の行動を観察していたのかもわかりません。まず、範頼を平家が九州へ渡らないように九州豊後国の制圧に派遣します。その中には、後の北条政権を確立していく北条義時も大切な役割を背負って範頼軍勢に加わっています。
山陽道を下るのですが、未だに平家へ味方する豪族が後を絶たず苦戦をしいられながらの行軍でしたが、四国の河野水軍や周防水軍の平家からの寝返りもあり、ようやく豊後国に渡り、この地の豪族少弐(しょうに)氏を従え万全の体制を敷くのです。
一方の義経は、満を持して熊野水軍も調略し、平家水軍と同格になった事を確認し、また、範頼軍の進捗情報も得て、いよいよ屋島の平家陣地を攻めることになりますが、天候不順となってきます。ここで義経攻撃の強行を主張するのですが、副将の梶原景時の反対に合い犬猿の仲となっていきます。このことも後々景時の讒言(ざんげん)により頼朝の不興を買い確執の因の一つになっていきます。
いずれにしても、義経の行動は常識を覆す戦いで、まず悪天候を突いて小人数で阿波国へ渡り、屋島を背後の陸地から攻めるのです。そして民家に火を放ち、大軍が攻め込んできたように敵陣を混乱に陥れます。
ここで、那須与一の物語や熊谷直実(なおざね)と平敦盛(あつもり)の後世に伝わる場面が展開されますが、義経は勝利し、2月18日には屋島から平家軍を一掃し、長門国彦島の平家本部を標的に攻めるのです。この時には、もはや水軍は平家水軍を上回る規模となって一気に攻めていくのです。そして、平家軍九州を範頼軍に抑えられ、ここ彦島の海上で決戦しなければなりません。
また、この決戦の場でも先陣争いが義経と梶原景時との間でおこり、これも頼朝に報告され、確執の種の一つとなったかもしれません。
この時には、また義経奇手を使います。それは伝統として水上の戦いは漕ぎ手や水子(かこ)は殺(あや)めないのですが、義経これを無視し、最初に水子・漕ぎ手を殺め船の動きを止めてしまうのです。地上戦に似た戦いに持ち込み、開戦からわずかな午の刻(正午)には、平家の武将を悉(ことごと)く蹴散らしてしまうのです。あっという間の戦いで平家を再起不能にまで壊滅してしまいます。
この平家追討にあたり、後白河法皇は頼朝へ「神璽(しんじ)」と「安徳天皇」は必ず奪い返すようにと命じています。当然義経にも伝わってはいましたが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙の剣)は海中に没してしまいます。また、安徳天皇は二位尼時子(ときこ)に抱かれ「波の下にも都はあります」と言い聞かされ入水してしまうのです。時に8歳の天皇でした。総帥の平宗盛、宗清父子は泳いでいるところを捕まり、天皇の母徳子皇后は助けられ京に護送されることになりますが、栄華を極めた平家の時代は文治元年(1185)3月24日義経の大活躍により、長門国は壇ノ浦で滅亡してしまうのです。
次回は5月28日投稿予定で「義経、京へ凱旋そして鎌倉へ」から始まります。ご期待ください。
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