笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

「四谷界隈散策~都会のスリバチ(谷)を歩く~」

「シニアの風」も今回で26回目の投稿で36編目になりました。「シニアの風」は毎月発行している会報誌(笑楽日塾だより)の中の1部分で、塾生全員が輪番制の投稿文で内容は自由。自分の趣味や思い、感じたこと、話したいこと等を書いていただき掲載しています。

今回当番のS氏が「四谷界隈散策~都会のスリバチ(谷)を歩く~」と題し、東京山の手の地理や歴史について書かれています。

この記事は3年前の笑楽日塾だより2021年11月号に載ったものです。当時の時代背景をご考慮のうえお読みください。

 

東京の山の手と呼ばれるエリアは、なだらかな台地と、台地をえぐり取ったような窪地(谷)から成っている。その特徴のある谷を「スリバチ」と名付けて研究している団体「東京スリバチ学会」がある。

「山の手」は、武蔵野台地の東端部に立地し、一見平坦な土地に、湧水や河川がつくった窪地や谷間など高低差の大きい地形が複雑に作り出されている。

 私は40年近く勤務した文京区には、実に多くの坂があった。台地には、大きな幹線道路が通り、江戸時代には大名屋敷があり、窪地には町人が住んでいた。私の好きな大名庭園六義園小石川後楽園・細川庭園)は神田上水や湧水を利用して池泉回遊式の庭園が作庭された。

典型的なスリバチ状の地形が楽しめる「荒木町」をのんびりと秋の一日、街歩きをすることにした。荒木町は、甲州街道外苑東通り津の守坂通りなどに囲まれた谷地で江戸時代には美濃国高須藩主松平摂津守の上屋敷があった場所だ。

丸ノ内線四谷三丁目駅を降りると甲州街道に出る。谷に向かって一歩中に入ると飲食店が立ち並ぶ商店街、丁度お昼時なのでサラリーマンの昼食タイムでありかなり賑わっていた。

江戸時代には屋敷の北側、紅葉川の支流と湧水を堰き止めた大きな池を谷底に配した池泉回遊式の庭園が造営された。明治になると庭園は一般に開放され、風光明媚な観光地として一躍人気となった。やがて料亭や待合が軒を連ねる花街として賑わい、水量が減った「策の池」(池は鷹狩りに訪れた徳川家康が馬の策(ムチ)を洗ったことから「策の池」と名付けられたと伝わっている)は徐々に埋め立てられ料亭などが建築された。花街がなくなった現在、料亭跡地はマンションや飲食店が入居するビルへと変貌した。

迷路のような階段を谷底に向かって歩いて行くと小さな池に遭遇・・・。池の周辺にはかつての料亭など花街風情が残る入り組んだ大小の路地があるなど、谷底から高台へと高低差を実感した。池には「津の守弁財天」の祠があり、側のベンチで手持ちのおやつを味わいながら、スリバチの景色を充分満喫した。

江戸・東京には数多くの「谷」という名前の地域がある。当然谷があれば高台もある。谷のまち渋谷もスリバチになっている。

特に渋谷で面白いのは周辺に神山町、南平台町、桜丘町、鉢山町などの高所を現す山、丘という地名があり、一方で宇田川町、鶯谷町、富ヶ谷などの低地の地名もあるなど、それ等が様々に混在し、実に興味深いものになっている。これからも「スリバチ」を求めて街歩きをしたいと思う。

 

笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

 

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