笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

第72回 蕨機まつり

夏の蕨には大小さまざまな祭が沢山ありますが、中でも「わらび機(はた)まつり」は一番大きな祭です。コロナ禍を経て今年から8月第1週の金曜日~日曜日までの3日間固定に変更され、8月2日(金)~4日(日)の3日間で開催されました。コロナ過の3年間は中止になりましたが、満を持して昨年から再開したもの。開催に当たりご苦労された皆様に感謝です。

 

蕨の機まつりと高橋新五郎。

蕨の織物業の始まりは江戸時代後期まで遡り、昭和30年代頃まで盛んに行われて地域の繁栄に大きく貢献しています。江戸時代の蕨は、中山道沿いの街並みを一歩外に出ると水田や畑の広がる農村地帯でした。農家の人々が畑の一部に裏作として綿を栽培し、その実から綿を取って布団の綿にしたり糸を紡いで衣服を作ったりしていたのです。

塚越の高橋家では、蕨の綿織物業の基礎を築いた二代目新五郎の代になってから本格的に綿織物業を営むようになります。当時の資料を見ますと少し不思議な話ではありますが、文政9年(1826年)旧暦の7月7日(新暦の8月7日)の夜、二代目新五郎が眠っていると夢の中に神様(関東大権現)があらわれ、『高機渡世を営むべし』とのお告げをされたそうです。このお告げに従って二代目新五郎は織物業を始めたと伝えられています(高橋家では代々関東大権現=徳川家康を信仰しており敷地内にお祀りしていた。高機とは織物を織る機織機のこと)。

これまでは農家が個々に綿を植えて収穫し、自分の所で綿織物を織っていましたが、二代目新五郎は自宅の敷地内に高機を120台、糸を染める藍甕(あいがめ)を300本備え、織物工場機屋を大々的に作ったのです。工場で大量生産をしたことにより商品を安く売ることができ、蕨の織物業は一大産業になりました。

工場は近隣の人々に働き口を与えて労働の対価として給料も支払われるようになり、農業以外の収入源を地域の人々にもたらしました。

また高橋家の成功を目の当たりにした経済的に裕福な人達が織物業を習って始めるようになり、周辺の地域でも織物業が大変盛んに行われたことが、その後の蕨発展の礎となりました。

本来の機まつりは二代目新五郎の夢の中に神様(関東大権現)が現れて、『高機渡世を営むべし』とのお告 げになった8月7日に、機神社で蕨の産業の発展を願ってお参りをする行事であり、今日まで絶えることなく続いています。

蕨の綿織物業の基礎を築いた二代目新五郎が亡くなった後、人々がその功績をたたえて塚越神社の末社機神社に妻のいせと共に機神様(はたがみさま)として祀りました。

 

蕨駅西口の機まつり。

現在蕨駅西口の商店街で行われている「機まつり」は二代目高橋新五郎と大変深い係わりがあります。織物業もちろん蕨の産業の更なる発展を願って昭和26年から行われるようになり、その後、昭和28年には七夕装飾コンクールを実施し、現在では「機織りの町わらび」の伝統を大切に守る蕨の観光事業になりました。

蕨駅西口から旧中山道までの商店街約1kmが、蕨市最大のお祭り「わらび機(はた)まつり」の会場で、この間では大きなものから個性的なものまで様々な七夕の装飾や、各種のイベントを楽しむことが出来ます。

先ずは蕨駅西口駅前のロータリーで市民参加のあおぞらライブ等、演奏系特設ステージ「スターライトステージ」が皆様を迎えてくれます。

商店街を旧中山道方面に向かうと、蕨市と「ふれあい交流協定」や「災害時における相互応援協定」を締結している群馬県片品村の「農産物直売所」。蕨らしさを有した優れた逸品「蕨ブランド認定品ブース」。8月3日夕方のみですが、一般参加者大歓迎「手おどり」の大行進。保育園で作られた「笹飾り」の展示。ダンスやパフォーマンスが楽しめる、ふるさと蕨・みんなで楽しむ発表会「織姫広場」。小学校で作られた 「七夕竹飾り」の展示が楽しめます。

会場の商店街約1kmは華やかな箱飾りで彩られ、両側の屋台では楽しそうなゲームや美味しそうな食べ物がいっぱい。蕨の夏の風物詩「蕨の機まつり」、暑い暑い8月の3日間でした。

 

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