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就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

第11回オンライン公開講座「蕨城主 渋川氏の話」4/4

前回に引き続き「蕨城主 渋川氏の話」の4回目をお送りします。いよいよ蕨に城が作られるわけですが、1回目から見ていただくとより分かりやすいかと思います。

 ≪京育ちの「貴人」渋川義鏡と太田道灌

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太田道灌は1457年に江戸城を作っています。また、岩付城(岩槻城)や河越城川越城)を古河公方足利成氏)に対抗するための防衛ラインとして利根川を挟んで西側に築城しています。私見ではありますが、堀越公方足利政知)の補佐役として下向した「渋川義鏡」が築城した蕨城は、古河公方に対抗するために太田道灌と提携して岩槻城との間に作ったのではないかと思っています。これで蕨城の存在が非常に重要なポイントになりました。

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蕨城の規模は約一万坪で、渋川義行からの知行地に1459年(江戸城より2年遅れ)頃に、渋川氏の家臣「板倉頼資(よりすけ)」氏等により築城されたのではなかろうかと思われます。

弘化三年(1846年)に写された「蕨御殿の図」が蕨市史の中にありますが、周りは田んぼや畑です。御殿の左側に「八幡」とありますが、私の想像では『今の和楽備神社の場所では無かろうかな』と考えております。12ヶ国22か所の土地の中に蕨がありましたの でここに御殿を作ったのではなかろうかと想像します。

八代将軍足利義政から関東を治める役目をになった義鏡ですが、京に帰りたかったのではないでしょうか。頼みの室町幕府は「応仁の乱」により混乱してしまいます。京には管領の斯波家に養子に出した息子「義廉(よしかど)」がいますが、斯波家も内紛で没落してしまい頼ることができなくなってしまいました。京へ帰る道を絶たれた義鏡はここから関東での生き残りの道を辿ることとなります。

 太田道灌の死と北条早雲の台頭≫

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道灌は伊勢原にある相模守護職上杉定正(さだまさ)」の館で風呂に入っているところを、当主定正によって謀殺されてしまいます(1486年)。扇谷上杉家は頼りにしていた太田道灌が亡くなったため山内上杉家に組み入れられてしまいます。

世の中は急激に変わり始め、伊豆では今川家の家臣であった「新九郎(しんくろう)宗瑞(そうずい)」が「北条早雲(そううん)」と名前を変えて立ち上がりました。早雲は、初代堀越公方「政知」の子で二代目堀越公方茶々丸」を謀殺し、相模国を瞬く間に治め、次に武蔵国をねらい、いよいよ下剋上の世界「戦国時代」に入っていきます。

十代目「渋川義尭(よしたか)」は歴史の中にはほとんど出てまいりませんが、関東の争乱に巻き込まれて活躍していたものと思われます。小田原北条軍と反北条軍の一大決戦「河越夜戦(かわごえよいくさ)(1546年)」で小田原北条軍が大勝利したため、上杉は越後に逃げて親戚長尾家に入り上杉の名を譲渡します。上杉の名を貰った「長尾景虎(かげとら)」は「上杉謙信(けんしん)」となって活躍することになります。また「古河公方」は衰微し、渋川義尭はこの争乱の渦中に小田原北条の傘下に入りました。

蕨城と渋川公を傘下に治めた北条早雲と二代「氏綱(うじつな)(勝って兜の緒を締めよ)の遺言で知られる」と三代「氏康(うじやす)」は武蔵国制覇を目指し、さらには永禄10年8月(1567年)房総の雄「里見義弘(よしひろ)」に決戦を挑みます。

ちなみに、この里見氏は源氏の流れを汲んでおり大変喧嘩が強く、鎌倉を攻めた折には尼寺の太平寺(現在は円覚寺舎利殿で鎌倉唯一国宝の建物)の庵主さんをさらって自分の正室にしてしまうなど、無茶苦茶な生き方をした武将です。

十一代目「渋川義基(よしもと)」は北条軍の援軍として五軍を率い、三船山合戦に五軍の大将として参戦します。

第一軍 塚越五郎左衛門勝成

第二軍 岡田織部隼人

第三軍 倉田十郎義康

第四軍 鬼(おし)茂忠

第五軍 大将・正清(義基)

旗 本 庄野栄左衛門義春

いざ出陣!その勢三千余騎!

(出典:「蕨城主・渋川公戦死略歴」庄野家旧蔵蕨市史 通史編165ページ)

五軍に分かれて里見軍に戦いを挑みますが、残念ながら北条本体が大敗してしまい、義基も戦場となった三船山(千葉県富津市と君津市の間の山)で討ち死にしてしまいます。戦国時代も終わりに近い、永禄10年8月(1567年)のことです。義基には子供がいませんでしたので残念ながらここで渋川家は途絶えてしまいます。

生き残った家臣団は蕨の地に戻り帰農し、蕨の開発に取り組みました。この家臣団のルーツを考察してみますと、鎌倉時代になりますが初代義顕の頃から繋がりのある家臣団と、室町幕府の京都時代に義鏡と一緒に下向してきた家臣団の方々ではなかろうかと考えています。

 ≪蕨宿草創の家臣団≫

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徳川時代の慶長17年(1612年)に中山道を整備して宿場と定められたときに、この家臣団の子孫で岡田正吉氏が、問屋・名主・本陣の三役を兼ねたといわれます。鈴木、今井、荒木、高橋、町田、久勢、細井の各氏。そして、榎本、金杉、松田、石井、山岡、池上、山田の各氏の名が見える。また、貫井、板倉、高橋四郎、高橋九郎の各氏の名も見える。(蕨市史通史編より)。以上の方々が協力して蕨を盛り上げてきたものと思います。

 ≪渋川公を慕う家臣団≫

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私が感心しているのは『渋川公は永禄10年8月(1567年)三船山の合戦で討ち死にしましたが、その250年後にも渋川公を慕う家臣団がいた』ということです。250年後の文化13年(1816年)に家臣の子孫(高橋氏・今井氏・町田氏・山田氏・河島氏・貫井氏・永島氏・庄野氏)たちの手によって250年回忌が執り行われ、渋川公夫妻の供養塔(墓所)を渋川家の菩提寺(宝樹院)に造立されました(一本杉塚保存会)(蕨市史通史編166ページ)。

 ≪まとめ≫

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以上、「蕨城主渋川公の来歴と動向」、「その家臣団」についてお話ししてまいりました。そして、私は冒頭で現代の蕨市は「歴史と文化の薫りの高い都市を醸し出している」とお話ししました。それは「蕨城主渋川公」は「源氏としての威厳」と「京の貴人」としての雅な公家文化併せ持つ代々の「渋川公」であったと考えているからです。

そして、その「源氏の威厳と京の雅」の伝統を現在も家臣団のご子孫の方々も大切に引き継いできているではなかろうかと考えています。

私の研究はまだまだ力不足ですが、笑楽日塾オンライン講座にてご披露させていただきました。

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 渋川公とその家臣団、京との繋がり、鎌倉との繋がり、様々な人間模様、太田道灌の暗殺で北条早雲の台頭、これ等がみんな回りまわって蕨に影響を及ぼしていたとは。渋川氏と蕨、にわか蕨人の私にとって知らない事ばかり。これまで蕨を作って来られた方々、蕨を育ててこられた方々に感謝です!!

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 現在笑楽日塾では皆様がご自宅から参加できるオンライン公開講座(無料)『あなたの知らなかった世界への扉を開いてみませんか』を開催しています。今までとは違った世界へ興味をお持ちの方は是非ご参加ください。

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7月8日(木)に行われた第12回オンライン公開講座「下水道の深~い話」は『蕨ケーブルビジョン㈱Wink』で放送されます。放送日は決まり次第お知らせします。ウインクパラダイス10時~、及び20時~、の1日2回です。しかし、残念ながら蕨市内の方しかご覧になれません。市外の方で第13回以降の視聴をご希望の方は是非オンライン公開講座にご参加ください。Zoomの参加ID番号は 817 2214 7316 です。

また、第13回オンライン公開講座は8月12日(木)20時より、当笑楽日塾塾生が「シニアの地域活動」と題し、リタイア後に地元町会の運営や小学校の放課後こども教室、また土曜塾のリーダーとして活躍されているお話しをしてくださいます。

なお、オンライン公開講座のご案内は下記『笑楽日塾』のホームページに記載されていますのでご一読ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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