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就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

第11回オンライン公開講座「蕨城主 渋川氏の話」3/4

前回に引き続き「蕨城主 渋川氏の話」の3回目をお送りしますが、1回目から見ていただくとより分かりやすいかと思います。

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 後醍醐天皇が天下を取り「新政」が始まり(1333年)、当初は尊氏がそれを助けますが2年ほど経つと各所に様々な綻びが目立ってきました。後醍醐天皇の「新政」は、戦勝の貢物配分を「公家に八割、武士二割」という大変不公平なものでした。自分のところに力の集中をしたかったためです。すると初めは尊氏を担ぎ上げて協力していた御家人も愛想をつかして離反し、今度は尊氏に戦を仕掛けはじめます。そのため尊氏は九州まで逃げるのですが、地元豪族の協力を得ることに成功し、勢力を回復して戻ってきます。歴史書の中で尊氏は軟弱に扱われることが多いのですが、戦争にはやたらと強く向かうところ敵なしの武将で、九州から巻き返し京に舞い戻り天下を取ってしまいます。そして後醍醐天皇吉野山に追いやり、ここから58年間続く南北朝時代が始まります。暦応元年(1338年)。

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 では渋川家はどうであったかといいますと、「渋川義季(よしすえ)」(1314年~1335年)四代目になります。近衛兵で尊氏の廂番(ひさしばん)、寝所番で寝ずの番もします。60人が10人ずつ6組に分かれて構成され、義季が1組目の1番です。このように素晴らしい渋川家になってまいりましたが、鎌倉幕府を倒したとはいえ方々で反乱が起きていました。鎌倉では北条高時の遺児時行が幕府再興のため先代と後代との間にあって、一時的に鎌倉を支配した反乱「中先代の乱(1334年)」が起きました。このために渋川義季は総大将として中先代の乱を鎮めに向かいますが、敗れて21才の若さで討ち死にしてしまいます。

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普通であればお家断絶になるはずなのですが、幸いなことに嫡子「直頼(ただより)(乳飲み子と思われる)」と娘「幸子(こうし/ゆきこ)」を残して亡くなったため、直頼は幼くして五代目になります。五代目になれたのは足利家の強力な援護のお陰と思われます。

直頼は尊氏の筆頭執事「高師直(こうのもろなお)」の娘を娶ります。また、室町幕府として後醍醐天皇鎌倉幕府からの戦利品として頂いたものの中から直頼に膨大な領国(12ヶ国22ヶ所の領国)を与えることになりました。

一方、姉の幸子も大変な方で尊氏の長男で室町幕府二代将軍「足利義詮(よしあきら)」の正室になり、子宝にも恵まれたのですが幼くして無くなってしまいました。その後は子宝に恵まれませんでした。しかし、幸子は義詮の側室「紀良子(きのよしこ)」(順徳天皇孫)との間に生まれた「義満(よしみつ)」を育てました。義詮は37歳ころに若くして亡くなります。

義満は11才で三代将軍になりましたので、母親代わりの渋川幸子の権力は絶大なものになり、渋川家は足利一門の最上位に位置されるようになりました。ご存じのように義満は金閣寺を建てました。禅宗を広めました。また明との貿易を開始し莫大な富を得て室町幕府の盤石な基礎を作りました。芸術の面では観阿弥世阿弥を育て「能」を確立し、芸術に関しても優れた将軍でありました。

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六代目「渋川義行(よしゆき)」(1348年~1375年)この義行が冒頭にお話ししました蕨城址公園の石碑裏面、諸橋轍次先生選書の中に書かれている「渋川義行」になります。この義行もまた叔母に当たる渋川幸子のおかげかと思いまが、九州全体を治める九州の最高司令官になれということで室町幕府の軍事的出先機関である「九州探題」に抜擢されます。その時に父「直頼」より12ヶ国22ヶ所の領国を譲られ、その証拠書類が賀上家文書「直頼の譲り状」観応3年(1352年)が、現在は広島県三原市・賀上晋次家所蔵の古文書の中にあります。この中には「武蔵国蕨郷上下」と書かれており、「蕨」の文字が文献上初めて出てきたことが蕨市史の中に書かれています。

 七代目「渋川満頼(みつより)」(1372年~1446年)七代目になったのが三歳の時といわれており、なぜ三歳で継ぐことができたかというと、やっぱり足利家がバックにいたためと思われます。さらには九州探題の他、摂津・安芸国守護にもなりました。しかし、満頼は後年息子の義俊に九州探題を譲り自分は「京」に住まい、武士をやめて雅な公家社会と交わり、武士ではなく「貴人」として暮らしていました(京で74才没)。

八代目「渋川義俊(よしとし)」(1400年~1434年)父の満頼から九州探題を継ぎますが、体が弱かったため従弟の「満直(みつなお)」に九州探題を譲り、隠居するも34歳で亡くなってしまいます。ここで京都渋川と九州渋川に分かれます。

九代目「渋川義鏡(よしかね)」(1400年頃の生)ここでようやく蕨城を作った義鏡が登場します。義鏡は京都で祖父満頼の庇護の下で貴人として育っており、武士とはいえなくなります。

そのころ「京」はどんな状態かといいますと、第六代将軍「足利義教(よしのり)」が守護大名「赤松満佑(みつすけ)」に暗殺され、室町幕府足利家の「権威・権力」に少しずつ翳りがみえはじめました(嘉吉の乱-1441年)。将軍が殺されてしまう時代に突入するわけです。

一方関東では鎌倉公方足利持氏(もちうじ)」が鎌倉で武蔵国を治めていますが、『私も京で将軍になりたい』という欲望を管領「上杉憲実(のりざね)」に諫められていました。持氏は憲実と不仲になったうえ室町幕府からも諫められてしまい、自害に追い込まれてしまいます(1439年)。「享徳の乱」のきっかけとなる。

このように関東では騒乱の兆候が見えてきました。自害に追い込まれた持氏の子「足利成氏(しげうじ)」は鎌倉公方に就任し、憲実の息子で時の管領上杉憲忠(のりただ)」に対し自分の父親持氏を自害に追い込んだのはお前の父親だろう』という勘違いで、憲忠を殺してしまいます。ここから鎌倉の中で上杉家と関東の足利家の間で大げんかが始まってしまいました。

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成氏は鎌倉から古河に移り「古河公方」となり、鎌倉の上杉管領家との間で双方についている豪族を巻き込んで28年間(1454年~1482年)続 いた大騒乱が始まりました。この「享徳の乱」を治めるため、室町幕府八代将軍「足利義政(よしまさ)」(1436年~1490年)が動きます。足利義政はご存じのように正室日野富子銀閣寺を建立しています。

側近とともに新政に取り組みますが、有力守護の圧力に抗することはできず将軍家の権威・権力も失墜してしまい、守護大名の対立はやがて応仁の乱を引き起こすこととなります。

義政は関東の騒乱を鎮める目的で、異母兄「足利政知(まさとも)」を「鎌倉公方」として派遣します。しかし、鎌倉は大混乱していたため義政は足利家門葉第一位の九代目「渋川義鏡(よしかね)」に政知の補佐役として関東に下向してもらいます。義鏡は政知を守るため家臣団を引き連れ、鎌倉に補佐役として下向します(1459年)。

しかし、鎌倉はいまだ古河公方(成氏)の勢力が健在で、とても政知が鎌倉に入れるような状態ではありません。しかたなく政知は伊豆の「堀越(韮山)」に留まり「堀越公方」を名乗ったわけです。義鏡は京育ちの「貴人」で歌詠みには長けていましたので、ここから命令書を出します。しかし赴任した関東は文よりも武がものをいうところでした。そこで義鏡は関東の「扇谷上杉家」家宰の文武両道で歌詠みが得意な太田道灌に近づきます。道灌は歌詠みの会を開いて情報収集を行い、「相手の弱点を見つけて攻める」という戦法を取っていたため戦には非常に長けていました。この後次第に義鏡は道灌の武力に組み入れられていくことになります。

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 渋川氏、足利氏、北条氏、出てくる名前のそれぞれに代替わりがあり、人物を特定するのが非常にややこしいですね。外国のミステリー小説を読むときも登場人物の名前と役割を記憶するのに苦労していますが、似ているところがあるかも知れません。

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 現在笑楽日塾では皆様がご自宅から参加できるオンライン公開講座(無料)『あなたの知らなかった世界への扉を開いてみませんか』を開催しています。今までとは違った世界へ興味をお持ちの方は是非ご参加ください。

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7月8日(木)に行われた第12回オンライン公開講座「下水道の深~い話」は『蕨ケーブルビジョン㈱Wink』で放送されます。放送日は決まり次第お知らせします。ウインクパラダイス10時~、及び20時~、の1日2回です。しかし、残念ながら蕨市内の方しかご覧になれません。市外の方で第13回以降の視聴をご希望の方は是非オンライン公開講座にご参加ください。Zoomの参加ID番号は 817 2214 7316 です。

また、第13回オンライン公開講座は8月12日(木)20時より、当笑楽日塾塾生が「シニアの地域活動」と題し、リタイア後に地元町会の運営や小学校の放課後こども教室、また土曜塾のリーダーとして活躍されているお話しをしてくださいます。

なお、オンライン公開講座のご案内は下記『笑楽日塾』のホームページに記載されていますのでご一読ください。

 

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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