笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(2/8)

NHKで放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されています。時を同じく当笑楽日塾の塾生清藤孝さんが頼朝と義経 ―その栄光と確執―を、より深くより分かり易く解説してくださいました。今回から本編に入りますのでご期待ください。

「わらび」地名由来の伝説

蕨市のホームページに「わらび地名の由来」の諸説が載っていますが、その中の一つに、源義経の「立ちのぼる煙を見て藁火村と名付けた」という説が記載されています。では、義経はどの場所からこの煙をみたのでしょうか。

義経の煙を眺めた場所は?

蕨市の隣町、川口の江戸時代には日光社参(しゃさん)のため、徳川将軍が通ったという元例幣使街道(れいへいしかいどう)の荒川スーパー堤防の前に「鎌倉橋記念緑地」(川口市本町8-19)があり、その中に「鎌倉橋の碑」が建てられています。そして、鎌倉時代以前からの主要な幹線道「中ノ道」でもあったことで、「義経記(ぎけいき)」の文も刻まれ、義経はこの地で軍勢を整えたということであります。

物語として、この時、西の方に「煙」が立ちのぼって いた。義経は家臣に「あの煙は何じゃ?」と問えば、「藁(わら)を燃やしているのです」と答えた。義経は「オー藁火(わらひ)か」とつぶやいた。この情景が「藁火」伝説の素になったのではないかと推考するのであります。

≪第一章 源 頼朝≫

江戸時代後期の斎藤月岺(げっしん)が親子三代三十年かけて著した、江戸のガイト誌‐御府内(ごふない)は勿論、江戸の近郊まで長谷川雪旦(せつたん)の描写と相まって超有名な「江戸名所図会の五」に「川口の渡し」の項があり、次のような文が記載されています。『川口の渡し』  (往古(おうこ)は、こかわぐちといへり)。

義経記(ぎけいき)には、九郎御曹子[源義経、1159―89]奥州より鎌倉に至りたまふといへる条下に、『室の八島(むろのやしま)をよそに見て、武蔵国足立郡(あだちごうり)「こかわぐち」に着きたまふ。御曹子御勢(おんぞうしおんぜい)八十五騎にぞなりにける。

按ずるに、渡し場より壱丁ほど南の方の左に府中道と記せる石標(みちしるべ)あり。これ往古(むかし)の奥州海道なり。板橋には附きて、「兵衛佐(ひょうえのすけ)殿[源頼朝、1147-99]は」と問いたまへば、「おととひ、ここを立たせたまひて候」と申す。これより、府中の六所町(ろくしょまち)より玉川を渡りて、相模の平塚へは出でしなり。・・・・』

義経の軍勢、走りに走り平塚に至りなば、頼朝すでに武蔵、相模を制し。さらには、富士川平維盛(これもり)が率いる軍勢2万を迎え討つべく黄瀬川宿(きせがわじゅく)に陣を張る。そこへ義経の軍団ようやく到着するのであります。

乳飲み子の義経と別れて20年、頼朝の家人、土肥実平(どいみさねひら)や熊谷義実(くまがいよしざね)等の警戒は解けず、すぐには面通し叶わず、暫くの時間を要したが、漸く頼朝の面前に迎えられ涙の対面となったのです。

しかし、この瞬間から、頼朝と義経の栄光と確執は、ここから始まるのであります。

源頼朝の出自

源頼朝は、源義朝(よしとも)(河内源氏源為義嫡流)を父に、熱田大神藤原季範(すえのり)の娘・由良御前(ゆらごぜん)を母として、久安3年(1147)に誕生した。場所は京都である。すでに母親の違う二人の異母兄義平(よしひら)、朝長(ともなが)がいたが、母親の違う二人の兄達より、頼朝の母は身分の高い貴族の出身であったがため、頼朝は、生まれながらにして源氏の嫡子に立てられたとされている。

父・義朝の躍進

当初、父の義朝は京都で生まれ成長し、東国の源氏の地盤を強固にしていこうという目論見か京都を離れ、伝来の鎌倉を拠点に南関東にその勢力基盤を築きあげていった。当時の東国では武士たちを中心に様々な 紛争が頻発していたと考えられています。

義朝はそれらに積極的に介入し、上総氏や三浦氏といった周辺の武士団と結託し、千葉氏や大庭氏を服属させ、この武士団の棟梁(とうりょう)として頭角を現してくる。そうした中で生まれたのが頼朝の異母兄の、義平と朝長であった、義平は永治元年(1141)ころの生まれで、母は三浦義明(よしあき)の娘であった。朝長は、天養元年(1144)ころの生まれで、相模の豪族波多野義道(はたのよしみち)の妹であった。

この東国での活躍は、遠く離れた京でも話題となり、鳥羽天皇は、義朝を大抜擢し「下野守(しもつけのかみ)」に任じ、鳥羽天皇や後の後白河天皇となる雅仁(まさひと)親王内親王の「上西門院(じょうさいもんいん)」の皇族たちも含めての護衛を行う軍事貴族とするのです。その時、鎌倉の守りは長男の「義平」に譲り東国を任せていきます。そして、上西門院の女官として仕えていた由良御前と出逢うのです。

頼朝の母「由良御前」の家柄

熱田大宮司藤原季範家は、鳥羽天皇や皇后待賢門院(たいけんもんいん)に一族を上げて近侍し、貴族社会にネットワークを強めていた家柄でした。長子の範忠(のりただ)は雅仁親王に仕え、後に後白河天皇として践祚(せんそ)すると藤原家の家名も強くなっていくのです。そして、この後白河天皇の姉が「上西門院」であり、ここに由良御前が女官として仕えていたのです。

この母の関係から、頼朝は幼少時代から朝廷の仲間入りを果たし「上西門院」に仕えるようになるのです。

御曹子頼朝

その勢いのある義朝のもとで、頼朝は誕生したのである。成人後も、常に二寸(約6センチ)の銀製の正観音像を信仰していますが、これは頼朝が三歳の時、その将来を祈願して、清水寺に参篭(さんろう)した乳母が、霊夢のお告げを受けて忽然として得たものだという。

頼朝は終生これを髷に結わいつけ大切にしていくのです。

その乳母は文献に4名登場しています。頼朝に仕えた乳母は東国武士出身の女性が多く、下野の武士小山政光(おやままさみつ)の妻寒河尼(さむかわのあま)、相模の武士山内俊通(やまのうちとしみち)の妻山内尼(やまのうちのあま)などである。

また、武蔵国比企(ひき)郡を請所(うけしょ)として下ってきた比企掃部允(ひきかもんのじょう)の妻比企尼(ひきのあま)、そして、下級貴族三善康信(みよしやすのぶ)の伯母(母の姉)も頼朝の乳母を司(つと)めています。清水寺に参篭(さんろう)した乳母がどなたかはわかりませんが、いずれにしても大切に育てられたことは事実であったのです。

次回は5月11日投稿予定で「保元の乱」から始まります。ご期待ください。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

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