笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(3/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の2回目になります。

保元の乱

頼朝10歳の時の保元元年(1156)7月、世にいう「保元の乱」の事件が起こります。この時朝廷は、皇位継承問題で揺れていました。

鳥羽天皇は長子の顕仁(あきひと)親王を「崇徳(すとく)天皇」とし、自らは「上皇」となり、さらには「法皇」となって「院政」を始め権力を振るいます。そして、次の天皇には第4皇子の雅仁(まさひと)親王を「後白河天皇」とし、この系統に皇位継承させることにしたのです。

これには、「上皇」となった崇徳上皇は怒ります。藤原摂関家(せっかんけ)を巻き込み、武士の力を利用し「後白河天皇」排除を企みます。「後白河天皇」も同じような行動を起こします。

ここに於いて二つに割れた朝廷はお互いの陣営に武士を召集し、京の町を揺るがす争乱に発展してしまいます。

結果は平清盛源義朝の武力が勝り、後白河天皇が勝利するのです。敗れた崇徳上皇は讃岐(さぬき)に流され生涯この地にとどまり崩御(ほうぎょ)していき、この時の武力の源為義(義朝の父)は斬首、為朝(弟)は弓を二度と使えなくなるように腕の腱を切られ、伊豆大島へ遠流されてしまうのです。

そして、戦後処理は、信西(ふじわらしんぜい)が辣腕を振るい勝利に加担した平家方に恩賞の多くを与え、源氏方には少ないという不公平感があり、その後の「信西」の朝廷での剛腕ぶりの反発もあり、世情はまた混とんとしてくるのでした。

頼朝の叙爵(じょしゃく)

保元の乱を制した「後白河天皇」は、父義朝を佐馬頭(さまのかみ)という要職にも任じ、また内昇殿(うちしょうでん)をも許します。義朝ますます軍事貴族としての源氏の地位を高めていきます。

また、「上西門院」は後白河天皇の姉にあたり皇室の官位も非常に高く、このことも影響するのか頼朝は保元3年(1158)2月皇后宮権少進(こうごうぐうごんのしょうじょう)に任じられていくのです。

時に頼朝12才の春のことであった。そして、翌年の平治元年(1159)2月には、母由良御前の力も加わり、さらに上位の「上西門院蔵人(じょうさいもんいんくらうど)」に任じられていくのです。

しかし、悲しいことに母由良御前は、この年3月死去してしまうのです。

平治の乱

保元の乱の収束から、朝廷の政権に辣腕を振るってきた「藤原信西」はますます権力を強め、さらに平清盛の勢力も引き入れ、後白河上皇の寵臣「藤原信頼(のぶより)」と対立するようになる。ここに、もう一人「信西」に恩賞の一件で大不満の「源義朝」が居り、この藤原信頼と組み「信西」打倒を目論んでいたのです。

平治元年12月9日(1159)平清盛が熊野参詣に出た留守中に藤原信頼は、父義朝に大内裏だいだいり)を占拠させ、後白河上皇二条天皇を確保する。そして、すぐさま「信西」を追い込み殺めてしまうのです。平治の乱の勃発である。

初戦を成功したことに酔った信頼は一時的に天下を治め、ここで、官位をばら撒くのです。この時、頼朝は朝廷よりの官位「右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)」を12月14日に授与されるのであります。

この右兵衛権佐に任じられたことは、有力な院の近臣(いんのきんしん)の子弟なみの待遇であった。頼朝は都の貴族社会の一員としての道を昇っていくはずであった。このような頼朝への道筋は、父義朝の勢力拡大の政策であったのだろうと考えられています。義朝は庶子(しょし)の義平へ東国の地盤を委ね、義平は父義朝の期待に副(そ)うべく北関東まで勢力拡大し、父の弟・源義賢(よしかた)(木曾義仲の父)をも排除していったのです。

こうした東国における武力の背景を見せながら京都政界で活躍することが、将来の頼朝には期待されていたのです。まさに頼朝は「東国知らずの源氏の御曹子」として成長していたのであった。

信頼、義朝のクーデターを聞きつけた清盛は、急遽京の六波羅に入り、最初は対抗する意思を見せずにいたが、信頼、義朝の隙を突き二条天皇を自宅の六波羅に、後白河上皇仁和寺に逃避させ、信頼・義朝を朝敵(ちょうてき)としてしまうのです。

そして、間髪を入れず清盛は、信頼・義朝軍に戦いを挑みます。平治の乱の勃発です。そして、たちまち、信頼、義朝軍を敗戦に追い込んでしまうのです。

この時、頼朝13才の初陣であったが、敗れた父・義朝や兄たちと東国を目指し敗走する。しかし、途中で一行とはぐれてしまい、翌年の永暦元年(1160)2月に近江国平清盛の弟頼盛(よりもり)の郎党平宗清(むねきよ)に捕らえられてしまう。

一方、再起を目指した父・義朝は尾張の国で、年来の御家人であった長田忠致(おさだただむね)・景致(かげむね)父子によって謀殺され、次兄朝長(ともなが)は戦闘中深手を負い敗走中に命を落とし、長兄善平(よしひら)は義朝一行と別れ、清盛暗殺を画策していたが、京での潜伏中捕らえられ処刑されてしまうのであります。

池禅尼の嘆願

平宗清に捕縛され、清盛の前に引き出された「頼朝」。「死にとうない。生きて父と母の弔いをしていきたい」と願い出るも死罪が確定する。しかし、この時奇跡が起こるのであります。

死刑が当然の頼朝に、清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)が清盛へ助命の嘆願を申し出て断食を始めたとも伝えられ、これには清盛も折れ、頼朝は罪一等を減ぜられ「伊豆の蛭(ひる)が小島」への流罪が決定されたのです。

翌月の3月11日には流罪となった頼朝は、この時14歳であった。また、この日には頼朝の同母弟希義(まれよし)も土佐に配流がきまり旅だったとされています。

流人 頼朝の旅立ち

ここに源義朝の一家は壊滅状態となり、京を追われる頼朝は母由良御前の弟藤原祐範(ゆうはん)が人をつけて見送ってくれたほかは、ごくわずかな人々が供をしただけの寂しいものだったという。保元の乱に勝利し叙爵(じょしゃく)も果たし貴族社会の仲間入りと若くして殿上人(てんじょうびと)にも上り詰めようとした矢先、平治の乱により一転して流人に落ち人生の暗転となっていったが、これら一連の出来事が、後々の頼朝の性格を形作っていくものと推考されるのです。

次回は5月14日投稿予定で、頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に流されたところから始まります。ご期待ください。

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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