笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(4/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の3回目になります。

伊豆配流の日々

蛭ヶ小島」に配流された頼朝は、伊東荘の豪族「伊東祐親(すけちか)」と北条郷の豪族「北条時政(ときまさ)」の監視下に置かれ、当初は、父母を弔い毎日のように読経と写経に打ち込んでいたと伝えられています。

日常の生活は、乳母の一人「比企尼(ひきのあま)」は頼朝が伊豆配流と決まると夫の「比企掃部允(かもんのじょう)」とともに武蔵国比企郡を請所として下ってくるのです。そして、頼朝の生活を支え続けているのです。さらには娘三人を安達盛長河越重頼、伊東祐清に嫁がせ頼朝の側近として育て上げているのです。

また、もう一人の乳母の息子・三善康信からは月三度、康信の家人を使い洛中の情報を、届けてさせていたということです。時が経つにつれて監視が薄くなり頼朝に近い年代の若者、北条宗時三浦義村(よしむら)たちと伊豆の山野を駆け巡っていたというのです。

それから、頼朝は恋多き方とも伝わり、一つには伊東祐親の娘「八重姫」と恋に落ち子どもを誕生させています。しかし、この頼朝の行動に大激怒したのは、まぎれもなく父の祐親でした。大番役から帰ってきてすぐさま、家人を使い子供を狩野川へ菰に包み流してしまいます。そして、頼朝の征伐に向います。これには側近として育った伊東祐清が知らせ、北条宗時に助けられ北条館に匿われることになります。この北条館にて運命の遭遇が待っていました。政子との出逢いであります。

当初は大番役から帰ってきた北条時政も反対し、政子を目代山木兼隆に嫁がせようとしますが、政子の頼朝への愛には勝てず黙認し、治承2年(1178)頃、長女の大姫が誕生し、時政は頼朝を北条の婿として迎え入れるのであります。

流人頼朝20年間の平家の驕り

平治の乱を制した清盛は、父忠盛の築いた「日宋貿易」を独占し、世界最先端の磁器や宋銭などを輸入し、その財力によって朝廷の天皇家は勿論、摂関家や貴族の中にも、清盛の支持者を増やしていった。

特に二条天皇の親政を育み、日宋貿易の拡大を図り、自らは太政大臣となり、日本の政治を動かすという武家政権を作ったのが、日本で最初との見方も出てきます。さらには厳島神社の造営、また福原(神戸)への遷都構想など多岐に亘り日本の現在の文化遺産を造りあげているのであります。

さらには娘徳子を高倉天皇に入内(じゅだい)させ、安徳天皇外戚(がいせき)となり、その権勢には後白河上皇をも凌ぐほどになっていきます。その勢いは地方にももたらされ、東国の目代(代官)などの中には目に余る暴挙の者も出てきた。それにつけてか妻時子の弟・平時忠は「平家にあらずんば人にあらず」と豪語するほど平家の時代が続いていたのであります。

以仁王(もちひとおう)の令旨

平家の権勢は、後白河法皇院政をストップさせ、あまつさえ大内裏後白河法皇を幽閉に近い立場に立たせたことから、安元3年(1177)6月、「鹿ケ谷(ししがだに)」の平家打倒の陰謀も発覚するようになってきた。このような平家の暴挙を按じた後白河法皇の第三皇子の「以仁王」は治承4年(1180)4月9日に各地の源氏に対し平家打倒の武装蜂起を呼びかける令旨を配するとともに、自らも立ち上がることを決意する。この令旨は叔父の源行家が4月27日北条館にいる頼朝にも届くのです。

ところが、この令旨の一件は平家には早々と発覚してしまい、以仁王は京を脱出し園城寺に逃げ込みます。さらに興福寺を頼って奈良に向かうが、途中の宇治で平家の軍勢に追撃され以仁王は5月26日に誅殺されてしまいます。

これにより、各地の源氏を討伐する平家の作戦が開始され、いち早く土佐に流された弟の「希義(まれよし)」が討伐されたとの報が頼朝の館にも報せが入ってきた。京の三善康信からも以仁王の敗死とともに頼朝の身にも危険がせまっていることを伝え、弟の康清(やすきよ)に休暇をとらせ頼朝のもとへ事態の緊迫していることを伝えているのです。

頼朝の挙兵

これら一連の動きに対し、いよいよ頼朝の挙兵を決意し、頼りの北条時政一家と家人の安達盛長を父義朝の「源家累代御家人(げんけるいだいごけにん)」を訪ねさせ援軍の要請に走らせる。すぐに参じた土肥実平(さねひら)、熊谷義実、三浦義澄(よしずみ)など馳せ参じた家人には「慇懃の御詞(いんぎんのみことば)」をかけるパフォーマンスで、平家打倒に奮い立たせるのです。

先ず標的としたのは平兼隆(かねたか)とその後見・堤信遠(のぶとお)であった。8月17日三島神社の祭礼の日、目代館の護衛が少ないことを事前に察知した北条時政は夜陰に乗じて、山木館へ、佐々木経高の軍団は堤館に攻め上がり、これから続く4年7か月の源平の合戦の火ぶたは切られたのです。

翌早朝には頼朝の挙兵の初戦は勝利を飾ったが、すぐさま次の作戦行動を起こしていきます。8月20日ようやく300騎を揃えた頼朝軍は、土肥実平の館に(湯河原町)に陣を張る。海上を馳せ参じる三浦軍の合流を待つのであるが、天候は次第に嵐模様になり波浪高く海を渡れず三浦軍陸路での援軍となった。

これに対し頼朝討伐軍の大将・大場景親(かげちか)は軍勢3000騎をもって襲い掛かる体制を整え、また伊東祐親(すけちか)も300騎の軍勢もって頼朝の首に狙いを定めた。

8月23日頼朝軍は石橋山(小田原市)を拠点とし三浦の援軍を待つのでありますが、ますます悪天候となり豪雨となってきた。酒匂川も氾濫し三浦軍の合流はここにきて難しくなってきた。夜になり大庭軍、伊東軍は石橋山を取り囲み臨戦態勢を敷いてきた。

この時、頼朝軍!時の声を上げ夜陰に紛れて戦闘に入っていくのですが、多勢に無勢。士気の高い頼朝軍であったが、翌朝には大惨敗となり、それぞれ別れ別れとなり箱根山中に逃げ込むのです。

頼朝も執拗な大庭軍の追求を逃れ、小人数で土肥実平の巧みな案内で逃げ回り、湯河原の「しとどの窟(いわや)」で疲れを休めることとした。そこに大庭軍の「梶原景時」が現れるが、わざと見逃していくのです。また、箱根の山には超詳しい箱根権現別当行実(ぎょうじつ)にも助けられ、大庭景親の追跡を振り切り、8月28日には土肥実平真鶴岬から海路で安房に向けて脱出していくのです。

安房から鎌倉へ

ようやく安房の猟島(千葉県鋸南町竜島)に着いた頼朝を出迎えたのは、援軍の主力三浦一族であった。また、北条時政、義時も合流した。そして、父義朝が京で活躍していた時、源氏の御曹司頼朝の幼少時を知り尽くしていた家人安西景益(かげます)も出迎え、その館を頼朝へ提供するのでした。

休む暇もなく、平家打倒の作戦を開き、下総の千葉常胤(つねたね)に安達盛長(もりなが)を使者として援軍要請、上総の上総介広常には和田義盛を派遣する。また、北条時政には甲斐源氏武田信義の援軍要請に走らせる。

根回しの終わった頼朝、9月13日には主力の三浦軍を率いた300騎で鎌倉を目指し進発するのです。

9月の17日には千葉常胤軍も合流。援軍には懐疑的だった上総介広常も源氏の嫡流としての頼朝の威厳に圧倒され9月17日には兵2万騎を率いての援軍となった。

10月3日には隅田川を渡り武蔵国に入る。この頃になれば頼朝を頼り馳せ参ずる武将豊島清元、葛西清重足立遠元(とおもと)等が続々と帰順し、その数3万に膨れ上がってきた。翌10月4日には、敵対していた畠山重忠河越重頼江戸重長等も投降し、畠山重忠を先陣に千葉常胤を後陣として、10月6日には、6万の大軍勢として堂々と父義朝ゆかりの「鎌倉」の地を踏むのです。

次回は5月18日投稿予定で頼朝の挙兵を平家が知ったところから始まります。ご期待ください。

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本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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