清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の4回目になります。
頼朝の挙兵を知る平家
以仁王の平家打倒の流れは、東国に於いて頼朝の挙兵につながっていった。京の平家は、この情報を9月初めには大庭景親が石橋山の戦いで勝利したとして捉えていた。平家の総帥清盛も、福原への遷都構想や厳島神社への周遊をしていたころで、9月5日には、朝廷より「源氏討伐の宣旨(せんじ)」をいただくのですが、14才当時の頼朝を思い浮かべたのか、全体的に状況を軽く見ていたのか、頼朝に対しての対策が遅かった。燎原の火のように広がる源氏の反攻に、慌てるように、長男の平宗盛に討伐軍を召集させたのですが、公家的生活に20年浸かった平家はなかなか軍の整備ができず時間がかかった。ようやく源氏の御曹司頼朝への討伐軍2万の兵を10月13日に清盛の孫・平維盛(これもり)を総大将として京を進発させるのです。
京を進発した平家軍は実戦の経験のない軍勢で、士気もそれほど上がっていなかったのではと考えられるのですが、10月18日の夕刻には駿河国富士川の河畔まで進み、頼朝討伐の陣を張ったのです。
これを迎える頼朝軍は20万の大軍をもって鎌倉を進発し、10月18日には駿河国「黄瀬川宿」に陣を張り、明日にも富士川で平家軍との決戦と意気込み、士気は非常に高い状態であったろうと考えられるのです。
10月19日の早暁、陽もまだ上がらずの富士川の上流から、北条時政を先陣として甲斐の武田軍は決戦の場にひたひたと下ってきた。そこには渡り鳥が数万羽、羽を休めていた。武田軍の進軍の響きに驚いた渡り鳥、一斉に飛び立つ。この轟音に驚いたのは戦いに慣れていない平家軍、雲の子を散らすように逃げてしまいます。
10月20日には、頼朝戦わずして勝利してしまうのです。頼朝勢い余って平家を追いかけ、京まで軍勢を走らせようとするのですが、臣従してきた千葉常胤や上総介広常等は、「東国が未だ治まらずの時に、まだ京へ攻め上る事は早すぎる」という諫言(かんげん)を受ける。これには、頼朝は受け入れ鎌倉の地で東国を固めることを決意する。
10月21日鎌倉へ凱旋しようかというところへ奥州から駆け付けた弟義経の軍団が到着する。しかし、家人の土肥実平や熊谷義実等は、会ったこともないこの義経を怪しみ直ぐには面通しはさせなかったのです。しかし、頼朝の「会ってみよう」の一言で涙の対面となったのです。そして鎌倉へ同道するのでした。
平家軍の敗退と清盛の遺言
源氏の御曹司頼朝と一戦も交えず敗退した総大将の維盛は11月2日に清盛へ報告する。清盛!怒りに怒り、それが因の一つになったかもしれないが、原因不明の熱病に侵されるようになる。そして、自分の死期を感じたのか、ますます勢力を拡大しつつある頼朝を腹に据えかね、平家の次の総帥に期待する平宗盛に壮絶な「遺言」を残したという。それは、
『伊豆の国の流人、前の右兵衛佐頼朝が首をついに見ざるつるこそやすからね。吾に万一のことあらば、後には堂塔を建て、孝養をもなすべからず。我が塚(墓)の前に頼朝の首を晒し、それぞ孝養にあらんずる。』(平家物語 巻六)
ということで、14歳の頼朝に命乞いされ斬首しなかったのが、余程憎かったことが如実に表れた「遺言」なのであります。
その清盛、翌治承5年(1181)2月4日死を迎えるのであります。
頼朝の鎌倉
京の都、天皇家に仕え、乳母が4人とも5人とも歴史の文献に書かれているが、56代清和天皇から始まる軍事貴族源氏の御曹司として期待されてゆく頼朝は、父義朝が平家の総帥清盛に敗れたことにより、一転にして一族の壊滅となる。命を助けられた頼朝は14才の幼き頃から父母と死別し、そして罪人として伊豆は蛭ヶ小島で20年間の流人生活となったのであります。
しかし、その流人も乳母の一人比企尼(ひきのあま)から絶大な援助を得、流人の生活は苦しくはなかった。当初は孤独ではあったかもしれないが、成長するにつれ「佐殿(すけどの)」と呼ばれるように、側近もでき北条宗時のように「平家打倒」をあからさまに唱える武士とも交遊し次第に平家打倒を真剣に考えるようになっていくのです。
そして芯の強い北条政子と出逢い大姫を誕生させるのですが、「平家にあらずんば人にあらず」と豪語することに反旗を翻した「以仁王の令旨」が叔父の源行家が伊豆の北条館の頼朝を訪ね、令旨を手渡す。頼朝これに呼応し果敢にも「平家打倒」に立ち上がる。
三島神社の祭礼の日を選び、政子と大姫を伊豆権現に守らせ、東国武士を従え、幾多の難関を突破し、ついには「鎌倉」は大倉郷に堂々と鎌倉幕府を築いていくのです。
次回は5月21日投稿予定で「義経の出自」から始まります。ご期待ください。
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