笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

三学院の舎利殿

前回投稿「三学院の御衣黄桜(緑花)」の続きで、今回は三学院のご紹介2回目「舎利殿」です。

三学院の舎利殿には、皆様ご存じの孫悟空が大活躍する西遊記でおなじみ、玄奘三蔵法師の霊骨の一部が中国から分骨され奉安されています。笑楽日塾にはこの件に大変詳しい先輩がおられ、ご自身のコラムにも書かれていますので、今回は引用させていただきます。

 

≪以下は先輩塾生のコラムで、「笑楽日塾だより2022年4月号 シニアの風」より引用します≫

玄奘三蔵の霊骨を金亀山三学院に訪ねる。~何故三学院なのか」

約1400年前の669年、中国は西安の南方約20Kmの興教寺に遡る。

昭和17年12月、大日本帝国軍が南京を占領し、稲荷神社建立の為、小高い丘を整地した。その時、土の中から石棺が出てきた。駐屯していた高森部隊長の指揮で専門家に鑑定を依頼したところ、玄奘三蔵法師の霊骨と副葬品であることが判明した。これを受けて時の中国政府は南京郊外の玄武山頂に五重塔を建設し、昭和19年10月10日に霊骨塔落慶式が行われ、日本からは重光大使(終戦時調印式の外務大臣)が出席した。

この際に台湾と日本に分骨が行われ、同行していた日本仏教会会長倉持秀峰氏(第30世三学院住職)に贈られたのである。

日本へ帰国後、東京の芝増上寺に預けられたが、東京大空襲で危険になったので、一時埼玉県蕨町の金亀山三学院舎利塔内にある水晶の壺の中に安置された。

又、仏縁により遠く台湾の景勝地である、台中日月譚玄奘寺には三学院第30代住職倉持秀峰の分骨が、玄奘三蔵法師の分骨と共に奉安されている。そして昭和25年3月20日に埼玉県岩槻市慈恩寺へ分骨され、日本玄奘三蔵法師霊骨塔に安置された。大雁霊骨塔は13重15mに及ぶ石組みといわれる。また、毎年5月5日の子供の日には1kmに及ぶ行列のお祭りが開催されている。

玄奘三蔵法師 天竺への旅

26才の秋ボロをまとった飢民にまじり、国法を破り長安を離れ、7世紀はじめにたった一人で中国からイ ンドへと赴いた。

西遊記に出てくる孫悟空猪八戒沙悟浄は虚構である。

一年後、パミールを越えアフガニスタン経由インドへ。一年滞在し地理地形、地質、気象等地理学を細かく習得し記録して、山のような経典と仏像を持ち帰り、経典を翻訳した。

同時に、当時のインドの貴重なヒンズー教等の資料も持ち帰った。また、インドのデリー、聖なる大河ガンジス河、ヒマラヤ奥地、インドの秘境、仏教王国ラダック(別名チベット、峠を越えた国という意味)、タラス古戦場、山の国キルギス、天山南、北道、などの貴重な資料を残している。

 

以上「笑楽日塾だより2022年4月号 シニアの風」から引用させていただきました。

玄奘三蔵法師は持ち帰った仏典の翻訳に残りの生涯19年間を賭けたものの、3分の1程度しか訳せなかったといいます。また、翻訳した経典の数は大般若経600巻をはじめ74部1335巻にのぼり、この大般若経は「般若心経」の基となったとか。

玄奘三蔵法師の霊骨の一部は、埼玉県の三学院と慈恩寺の他、奈良県薬師寺にも分骨されていますが、戦争中の混乱の中で様々な出来事と思惑があり、蕨にも繋がったものと想像できます。それにしても、玄奘三蔵法師の霊骨の一部がこの蕨の地に分骨されていたことは驚きです。

次回も三学院のご紹介をします。

 

なお、笑楽日塾の活動は下記ホームページに記載されていますのでご参照ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

span.author.vcard{ display:none; }