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就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

頼朝と義経 ―その栄光と確執―(6/8)

清藤孝さんの講座で「頼朝と義経 ―その栄光と確執―」の5回目になります。

 ≪第二章 源義経の波乱万丈≫

源義経の出自

父は源義朝、母は常盤御前の三男として平治元年(1159)京で生まれる。名は「牛若」と名付けられた。母の常盤御前近衛天皇中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女で、絶世の美女と言われ、九条院で雑仕女を募った時には千人の応募があり、その中から選ばれたという誉れの高い方であった。兄は「今若」、「乙若」と名乗った。牛若の生まれた平治元年には「平治の乱」が勃発し、父の義朝が清盛に敗れ、敗走途中で暗殺されていた。この時に母常盤御前は、やはり乳飲み子の牛若を抱き必死で奈良の宇田に逃げるのですが、都で実の母が折檻されているという報を聞き、九条院の許に戻り、九条院から清盛の六波羅に出頭し、子供の命乞いをするのです。23才の美貌の常盤御前は清盛の愛妾となり、三人の子の命は助かるのです。

今若-(醍醐寺)、乙若-(園城寺)に入寺、牛若は母と清盛の六波羅に6年間住まいすることとになり、その時には父は清盛と思っていたのです。母は清盛との間に女子を産み、それが清盛の正妻時子に知られ、清盛から離れ一条(藤原)長成に再婚することになります。

母と長成との間にも男子が生まれ、「牛若」は、鞍馬の寺に預けられることとなった。

その経緯は、鞍馬寺別当「東光坊阿闍梨(とうこうぼうあじゃり)」は父義朝の祈りの師であったことが常盤御前は知っていたので入寺をお願いした。阿闍梨別当は快く引き受けて、名を「遮那王」と名乗らせたのであります。その時遮那王11歳になっていた。

鞍馬の遮那王

鞍馬の山へ入った遮那王、ここで初めて父の仇が清盛であると知り愕然とする。遮那王、剃髪せず鞍馬の山を駆け巡り剣術の修行に励んでいたという。伝説で天狗から剣の極意を伝授され、都の五条の橋で刀狩りの猛威を奮っていた「武蔵坊弁慶」とも出逢い、そして戦い破り、終生家臣として伴っていたということです。

また、鬼一法眼(きいちほうがん)が秘蔵する「六韜三略(りくとうさんりゃく)」という兵法書を、法眼の娘を通じて学んだと義経記に書かれているといいますが、この兵法書は中国周の時代(紀元前千年~四百年前)の太公望呂尚(りょしょう)が著した六巻から成り、この中の四巻目の「虎の巻」が特に、これが源平の戦いのときの義経の戦術・戦闘の基本になっていたのではないかと推考しています。

遮那王—奥州藤原家へ

遮那王16才になりました。この年齢になると平家から何らかの新たな処分が下されるかもしれない。それを見越して、遮那王は奥州藤原家の御用商人「金売り吉次信高」に伴われ平家の支配する京の都から逃げるのです。

この義経の奥州行の手配したのも母常盤御前の力が発揮されたのであります。それは「平治の乱」に父義朝と一緒に戦った藤原信頼の兄・藤原基成が、奥州藤原家三代当主藤原秀衡に娘を嫁がせ、四代泰衡を誕生させているのです。また、常盤御前の夫一条長成藤原基成の遠い縁戚関係にあたるため遮那王の身を依頼したと思われるのです。

遮那王から義経

金売り吉次信高に伴われ、近江国鏡宿(滋賀県竜王町)に着いた義経は、この地で、一人で元服の儀を行うのです。事前に準備していたと思われますが、「源九郎判官義経」と自ら名のり上げるのです。「義」は源氏の通字、「経」は源氏の姓の初代「経基王」からいただいたと思われるのです。

次回は5月25日投稿予定で「義経奥州での挙兵」から始まります。ご期待ください。

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