笑楽日塾の事件簿blog

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就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

手漉き和紙の里探訪記(3/6)

手漉き和紙の里探訪記の3回目です。前回は製紙の歴史や古文書の保存等を紹介していただきました。今回はいよいよ全国の和紙の里を訪ねたお話をしてくださいます。

≪自称、手漉き和紙の応援団に≫

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紙里を巡るうちに危機的な状況を目の当たりにすることになり、自称「手漉き和紙の応援団」になりました。気が付くと2年半かけて全国の紙里を訪ね回り、約300か所、8万1千㎞の旅で、一緒に旅した相棒のクラウンを1台乗り潰してしまいました。ちなみに、伊能忠敬は17年間で4万㎞でした。

日常生活からは姿を消しつつある手漉き和紙ですが、絶えてしまうと他の伝統工芸品や美術品・伝統芸能が全て絶えてしまう危機にあることが分かり、その重大さに気付かされました。

なぜ手漉き和紙が必要なのか。手漉き和紙は古美術や古文書の修復に使われるため、その古美術・古文書が作られた当時の紙質に合わせて漉いた和紙が必要だからからです。修復する美術品等の和紙が楮で漉かれていたら、修復に使う和紙も楮で漉いたもの、三椏なら三椏の和紙でなければなりません。

日本だけではなく世界各地の美術品、絵画等の修復にも使われており、パリやロンドン・ニューヨーク他、世界各国の美術館から日本に手漉き和紙の注文が入ります。市販の紙では紙質が違うため修復できないからです。

また手漉き和紙は、地図や絵画・古文書の修復の他にも、歌舞伎の舞台衣装や舞妓さんの扇等々にも必要で、日本の伝統を支える縁の下の力持ちのような存在なのです。

≪今後の手漉き和紙の里を思う≫ここからは写真を中心にご説明します。

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⑧三椏の花が咲いているところです。

⑨三椏の皮を剥いで溶かして1枚ずつじゃぶじゃぶと手で漉いています。

⑩楮の皮を剥いで溶かしているところで、やがてドロドロに溶けます。

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⑪溶けたら舟(水槽)に入れて1枚ずつ漉いていきます。舟の大きさは畳何畳分にもなる大きなものもあります。

⑫漉いた紙は干さなくてはなりません。1枚ずつ板に貼って太陽の光で乾かします(天日干し)。機械は使いません。

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⑬ 三椏を栽培しているところです。

⑭製品群です。

⑮三椏の花です。昔は三椏木の皮を剝がして漉いた紙「三椏紙」で藩札を作りました。今でもお札には三椏が使われています。

≪今後の手漉き和紙の里を思う≫

そもそも手漉き和紙の多くは、農家の副業として発展し、明治時代には約6万戸を超える「漉き屋」があったとされています。しかし、時代と共に機械漉きが多くなり、環境の悪化、収入の低さ、需要の減少等経済状況の変化と後継者難も加わり、どんどん数を減らしました。今の後継者は60代なら若方だといわれているほどです。

このままでは2050年には絶えてしまう恐れがあるともいわれているため、私はもっと手漉き和紙の伝統継承に国を挙げて取り組むべきだと考えます。伝統技術の継承問題に直面しているのは、全国の地方自治体でしょうから、まずは手漉き和紙の盛んな場所を優先して支援してみてはどうだろうかと思った次第です。

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紙里の多くは自然が豊かで綺麗な川が流れる場所に存在しています。地球の環境が破壊されつつありますので、自然災害の多くなった昨今を考えた対策として、2~3県でまとまり若者が修行できる場所を設け、漉き屋を開業の支援をするのもありでしょう。

また、原料の楮・三椏・雁皮など生産地の衰退も大問題なのに加え、森林破壊の進む昨今は綺麗な水を守ることも大切です。少子高齢化、過疎化、河川・地下水の汚染、温暖化による気候の変化、自然災害多発、黄砂の飛来、原料不足、道具と職人不足等、取り巻く環境は年々厳しさを増しています。しかし、その本質は需要の減退であるため、収入減による後継者が絶えることが危惧されています。何故後継者が育たないのか、後に続く者が出ないのか、理由は簡単で、若者たちが将来像を描きにくく食べていけないからなのです。

≪木簡・竹簡から読み解ける、籌木(ちゅうぎ=排泄の際に尻の汚れを掻き落とす棒)から落し紙に移行≫

日本は古来より大便の始末に苦労してきた歴史がありますが、遺跡の発掘と年代測定の発展によりこれらの問題も徐々に解明されつつあります。籌木の時代も水洗トイレはありました。水洗トイレといっても屋敷の外を流れる小川などの水を敷地内に引き込み、跨(また)いで用を足すトイレを設置したのです。籌木でかき落し、汚物は水に流れて再び屋敷の外に出します。これはまた立派な水洗トイレといえましょう。その他、身分の高い人は城内や屋敷内にオマルを設置し、消臭や消音のために工夫して杉の葉等を敷いていました。

手漉き和紙が出来てもしばらくの間は高級な紙を落し紙として使うわけにもいかず、相変わらず籌木を使っていました。しかし、江戸時代になると浅草から下町方面にかけて再生紙(浅草紙)が作られるようになり、使い古した和紙を良く洗い筆字等を落し、揉み解してから再度手漉き和紙を作る。これでリサイクルした落し紙が使われるようになったのです。

紙里なら他に沢山あったのに、なぜ浅草方面だったのか。それは川の水が綺麗で豊富だったことに加え下町で人口が多く、吉原等の繁華街も近くにあり需要が多くあったことによります。

また、再生紙は落し紙として需要が高まり、浅草から先の豊島方面、即ち武蔵国へと伝播しました。現在の埼玉県川口市戸田市蕨市で漉かれ、横曽根和紙とも呼ばれました(横曽根神社の古文書より)。

なお万葉集によると、蕗(ふき)の葉が多く使われたため、拭くという言葉になったようです。

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「手漉き和紙の里探訪記」6回シリーズ3回目をご紹介しました。和紙の材料や漉き方、後継者難、籌木から落し紙への変遷など知らない事ばかり。浅草紙を少し調べてみましたら浅草紙は、浅草寺の少し北にある山谷堀に架けられていた「紙洗橋」付近で盛んに漉かれていたとのこと。しかし、今は堀も埋められ、信号の標識にその名残が残るのみ。再生した紙は墨が綺麗に取り除かれないため鼠色で、漉き方も雑で安価販売されたため庶民の間で鼻紙や落とし紙として使われたそうです。

次回は第4回で、全国の和紙工房や製品の紹介です。

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現在笑楽日塾では皆様がご自宅から参加できるオンライン公開講座(無料)『あなたの知らなかった世界への扉を開いてみませんか』を開催しています。今までとは違った世界へ興味をお持ちの方は是非ご参加ください。

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また、2月10日(木)に開催されたオンライン公開講座Part-Ⅱの第7回「地球温暖化とは何か」は、『蕨ケーブルビジョン㈱Wink』のウインクパラダイスで、3月11日(金)~3月17日(木)まで1日2回(10時~、及び20時~)放送します。しかし、残念ながら蕨市内の方しかご覧になれません。市外の方でオンライン公開講座受講をご希望の方は次のID番号でご参加ください。Zoomの参加ID番号は 817 2214 7316 です。

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オンライン公開講座Part-Ⅱの第8回は3月10日(木)20時より、「頼朝と義経(栄光と確執)」と題し、笑楽日塾塾生が解説してくださいます。今、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では描ききれない世界、奥州から頼朝の下へ85騎で駆け付ける義経が、蕨のお隣川口で軍勢を整えたという話からスタートいたします。私たちの知らない世界はまだまだありますのでご期待ください。

なお、オンライン公開講座のご案内は下記『笑楽日塾』のホームページに記載されていますのでご一読ください。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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