笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

第1回フィールドワーク「蕨遺産めぐりツアー(中央・北町)前編」

 2018年4月22日(日)午前9時半:蕨遺産発掘グループ(メンバー塾生3名)の発意により「蕨遺産めぐりツアー」を挙行しました。

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塾生9名+ガイドさん2名がJR 蕨駅西口の「蕨驛開設記念碑」を皮切りにスタートし、午後1時過ぎに蕨城址公園内「青春の碑」前で解散するまで、予定の20ヵ所すべてを徒歩で回りました。

この日から遡ること2ヶ月。2月17日の5役会席上で『笑楽日塾の分科会として蕨遺産発掘グループを立ち上げる』と発議され、塾生3名が参加しました。3名で何回か話し合いを行った結果の成果物として今回のツアーが決まったわけですが、笑楽日塾が出来たのが1月、蕨遺産発掘グループを立ち上げたのが2月、蕨遺産めぐりツアーの実施が4月、とスピード感満載ですね。

ガイドをしていただいたのは蕨市在住の歴史研究家の方で、蕨市の歴史ガイド有資格者。拝聴する我々は身に余る光栄で、一言も聞き逃すまいと必死に耳を傾けて回りました。

ツアーの時間は3時間超、歩数計の数字は10,000歩強の探究。また、この日は真夏日になり高齢者の集団には過酷な1日でしたが、1人の脱落者も出ることなく無事完歩できたことに感動しました。元気な皆さんの集団だと痛感。

小さな町蕨はコンパクトシティーを謳っていますが、その小さな町の中にも名所旧跡がぎっしり詰まっており、ガイドさんの素晴らしい解説に酔いながら歩きました。30年以上住んではいるものの埼玉都民のはしくれだったため、蕨の知識が浅かった私にその輝かしい歴史を教えていただいたことに感謝です。

めぐった場所は、次のとおりです。

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蕨驛開設記念碑:明治16年(1883年)に私鉄である日本鉄道会社が上野と熊谷間で開通し、蕨駅明治26年1893年)6月開業した。その後明治39年1906年)に日本国有鉄道となり、昭和17年(1942年)に蕨驛の開設記念碑が造立された。

長泉院の梵鐘:長泉院は円実という沙弥(しゃみ)が創建したことから、ここの梵鐘は「おしゃみの鐘」と言われている。この梵鐘は宝暦8年(1758年)に江戸神田鍛冶町の小幡匠によって作られている。しかし、本堂の屋上に鐘楼があるため梵鐘を直接見ることはできないが、珍しい特徴として「乳(にゅう)」が無い替わりに「梵字」が鋳出されている。また「撞座(つきざ)を4個持っている(普通は2個)」「撞座の中央に梵字が鋳出されている」ことなどがあり、その珍しさに戦時中の金属供出も免除となった。

用水堀の跡:今は暗渠となりただの小路にしか見えないが、嘗て蕨宿には周囲を用水堀がめぐらされており、火事や盗賊から町を守ることの他にも農業用水に使用されていた。用水掘の水源は利根川で「見沼代用水」から流れている。

観音堂この観音堂は近所の須賀神社境内にあったものだが、明治44年(1911年)に和楽備神社に合祀された折に潰される運命となった。しかし、ご近所の方々が「これは大事なものだから」といって残された。祀られている観音様は台座を含めて石造の聖観音。覆い屋に守られており近隣の人達の慈しみが感じられる観音様である。

玄蕃稲荷:蕨宿の発展に功績があった個人宅(玄蕃と称していたお宅)の屋敷神。玄番氏は蕨宿の発展に功績があったと言われている。

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中山道蕨宿の発展に欠かせない道路であり、東海道と並び江戸と京を結ぶ大幹線道路の五街道のひとつ。東海道より川の障害が少ないのが利点とされ、特に女性の利用が多かった。現在の蕨宿跡は中山道の両側ある歩道に、江戸・日本橋側の端に当たる下の門跡から京・三条大橋側の端に当たる上の門跡まで、「中山道69次(日本橋から三条大橋)」までが描かれたタイルがはめ込まれている。順番に見て歩くと江戸の日本橋から京の三条大橋までのプチ旅行気分を味わえる。

蕨市立歴史民俗資料館分館:渋沢栄一を崇拝研究者としてしられた蕨市4代目市長で、織物買継商で富を得た金子吉衛氏の自宅を蕨市が買い上げたもの。渋沢栄一自筆の扁額「進徳脩業」が飾られ、明治20年代の家具や当時の電話機も展示されており、図書室の蔵書に至っては圧巻。もちろん双子織の織機も展示されている。また、桃の節句にはひな人形、端午の節句には五月人形(武者人形・鎧・兜飾り)が、他の旧家からも寄贈されたものを含め、歴史的にも価値の高いもの多数が飾られる。

町道路元標:大正9年1920年)の道路法で設置されたもので、蕨町の道路の起点となったが昭和27年(1952年)の新道路法で役割を終えたもの。ちなみに、日本の道路原票は日本橋にある。

⑨歴史民俗資料館:蕨宿は慶長17年(1612年)頃に中山道の起点である日本橋から数えて2番目(1番目は板橋宿)の宿駅となり発展した。資料館には蕨宿の往時の姿を精巧なジオラマで常設展示しており、蕨のガイドにとっては自慢の展示物で他所ではあまり見かけないとのこと。また、江戸時代の本陣上段の間や旅籠屋内部の様子・商家の店先等の展示物等がある。

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⑩本陣跡:蕨宿は戸田の渡しの川留めに備えるため本陣2軒体制で、加兵衛家と五郎兵衛家の2家が代々勤め、向かい合うように建っていた。また、文久3年(1863年)皇女和宮妃がここで休息し十四代将軍徳川家茂公の元に降嫁した。明治天皇明治元年(1868年)と明治3年(1870年)の2度にわたり大宮の氷川神社への行幸途中に休息されている。

⑪鈴木薬局:昭和6年(1931年)建築の木造家屋で今も現役。建物の向きが道路と平行の作りではなく、少し斜めに角度をつけて建築されているのは、当時の荷物運搬手段である大八車が玄関前に付けたり出たりしやすいように作られているとのこと。

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中山道ふれあい広場:江戸時代の上の木戸跡で、レトロな趣の北町交番の横にあり火の見やぐらや時計台もある。ちなみに下の木戸は今回のコースには入っていませんでしたが、この上の木戸と両方の門を閉めて夜間は蕨宿に出入をできなくした。

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⑬徳丸邸の跳ね橋:蕨宿の特徴は宿場全体が用水堀に囲まれていたことで、家の出入口の用水堀の上に橋が掛けられ、夜間はその橋を跳ね上げる仕組みになっていたもの。街道は上の木戸と下の木戸、周りには用水堀を作って宿場の外からの侵入を防いでおり、盗賊防止の目的もあったとのこと。かなり用心深かったわけですが、それだけ街が繁栄していたということでしょう。

ここまでが前編です。蕨の歴史は奥が深くて知るほどに心を惹かれます。今はコロナ過の今、埼玉県も不要不急の外出自粛を呼びかけており家から外に出ることもままなりませんが、早く落ち着きを取り戻して街中を探索出来たらよいですね。

次回は後編をお送りしますので是非ご覧ください。

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次回は、第一回フィールドワーク(後編)です。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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