笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

「おけい(伊藤おけい)」

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NHKテレビは2011年3月11日の東日本大震災に見舞われた東北の復興を願い、2013年の大河ドラマを当初予定していたものから変更し、会津戦争鶴ヶ城籠城戦では男勝りの活躍をした「山本八重」を主人公に「八重の桜」を放送した。八重は男装して銃を撃ちまくるなど自由奔放で勝気な性格の為、後年には「幕末のジャンヌ・ダルク」と言われたほど。同志社大学を設立した新島襄と1876年1月に結婚し同年11月には八重自身も同志社女学校(後の同志社女子大学)を設立した。また、勲六等宝冠章を受勲するなど数々の功績を残して華麗なる生涯を終えている。

片や「おけい」は生まれ育った会津を離れ、新天地カリフォルニア州エルドラドに日本人女性初の開拓移民として向かったものの、その夢もわずか2年で挫折し、病にも侵され、二度と故郷の土を踏むことなく19歳の若さで亡くなってしまった。

「おけい」は「山本八重」よりわずか7つ年下で、ほぼ同じ時代に同じ会津で生まれ育ったが、二人の生涯は大きく違うものとなってしまった。

≪日本人初の女性移民≫

前回の『戊辰戦争・エルドラド・若松コロニー・伊藤おけい』の続きです。

「おけい(伊藤おけい)」1853年(寛永6年)~1871年明治4年)行年19歳

1853年(寛永6年):大工(桶屋という説もある)伊藤文吉と女房お菊の長女として材木町に誕生する。

1868年(慶応4年)日本人女性「ジョウ」と結婚して子供をもうけた「シュネル」の屋敷に子守として雇われる。

1869年(明治2年)3月~4月頃:17歳の「おけい」は「シュネル」のゴールド・ヒル移民開拓団に加わり、アメリカ船籍「チャイナ号」で横浜港からサンフランシスコへと向かった。
1869年(明治2年)6月9日:「おけい」はカリフォルニア州エルドラド郡ゴールド・ヒルに到着し、初めてアメリカ国籍を得た日系アメリカ開拓移民の一人となる。

1871年明治4年):入植は失敗に終わり開拓団は解体したため「ビーアカンプ家」に雇われたが、急な高熱に冒され19歳という若さで死去してしまう。夢を描いた入植地「若松コロニー」の見える丘に「桜井松之助」が葬り、アメリカの地で埋葬された最初の日本人女性となる。

10数年後:「桜井松之助」が現地に残った仲間と共に「おけい」の墓碑を建立。

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1915年(大正4年):カリフォルニアの農園主「国司為太郎」は近くに日本人女性の墓がある事を知り、邦字新聞で「日米新聞」の記者「竹田雪城」に話し、二人で現地を訪れて墓の存在を確認した。その墓には、「 O K E I 」「In Memory of OKEI Died 1871, Aged 19 years,(A Japanese Girl.)日本皇国明治四年○月○日没す おけいの墓 行年一九才」と刻まれていた。

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日本からはるか離れたこの地に『なぜ日本人女性の墓があるのか』疑問を抱いた二人は近くに住む農場主「ビーアカンプ家」を訪ね、嘗てお茶と桑の木を栽培し絹の生産を目指して日本から来た「若松コロニー」と、若くして亡くなった娘「おけい」の存在を知った。

1916年(大正5年)7月12日:日系新聞「櫻府日報」に「竹田雪城」が「おけいさんの墓に詣づるの記(4回の連載)」を掲載したため「若松コロニー」の存在がアメリカ国内に住む邦人の間で広まり、大きな話題となった。

日本でも「若松コロニー」や「おけい」の話が知られると歴史研究家による調査が開始し、故郷である会津若松では図書館関係者や教育関係者らによって身元と史実の整理が始まった。また、現地アメリカでも当時の新聞記事や国勢調査などの記録が発見され、調査は大きく進み始めた。

このように短命に終わった「若松コロニー」に対して関心が高まったのは、存在した資料が少なく謎の部分が多かったこともあるが、コロニーの象徴であり19歳という若さで亡くなった、薄幸な少女「おけい」の存在が大きいものと思う。

1969年(平成8年):カリフォルニア州知事ロナルド・レーガンは若松コロニーの跡地をカリフォルニア州の歴史史跡に指定した。

1997年(平成9年):コロニー跡地の隣にあるゴールド・トレイル小学校は会津若松市立東山小学校と姉妹校提携し、文通・作品交換、姉妹校訪問等が行われている。

跡地保存や現地との友好に会津若松の人たちが熱心に取り組んでおられ「おけい」も天国から故郷を思いながら喜んでおられることと思います。

≪以下はJICA横浜 海外移住資料館 研究概要 12 2017年度 小澤智子氏より一部引用≫

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2013年(平成25年)5月15日付『マウンテン・デモクラット』に、地元の作家ジョアン・バーソッティによって書かれたオケイについての図書『オケイサン――ある少女のジャーニー』がエルドラド郡の小学校4年生の課題図書となり、「全国的、そして地元でも重要な歴史」について学ぶようになる、という話題が報じられている。この数年、とくに子供や若者を対象とした活動が目立っているといえよう。

2014(平成26年)年7月28日の『マウンテン・デモクラット』には、前年に引き続き「オケイサンの体験を学ぶ遠足」がワカマツ・コロニーで開催された模様が報じられている。エルドラド郡コミュニティ財団が管理するジョアン・バーソッティ記念基金と多くのボランティアの協力を得て、小学校4校の生徒(221名)が参加し、「オケイサン」の墓地での法要、オケイの丘での紙芝居、日本の伝統舞踊のレッスン、日本語の特訓レッスン、折り紙の手本、蚕に触る体験、日本刀の鑑賞、日本の服装や生活様式の展示見学を体験した。同記事は、143年以上前に少女オケイが体験したであろうことを理解するのが遠足の狙いだったとしている。

≪むすび≫

若松コロニーは僅か2年間しか存在しなかったため現地に残っている資料は少なく、存在自体もすっかり忘れられていた。その存在が表面化したのは「国司為太郎」と「竹田雪城」が「おけい」の墓を見つけたこと。それは「若松コロニー」が消滅し「おけい」が亡くなってから40年余が過ぎてのことだった。

150年前にアメリカ合衆国本土の人里離れた農村が日本と繋がっていたこと。そこには合衆国本土として初めて日本人の入植者がいたこと。さらに異国の地で望郷の念を抱きながら19歳の若さで亡くなった少女がいたこと。その跡地が今では沢山の人達に大切に見守られていること。

このカリフォルニア州エルドラド郡と我が蕨市は45年前から姉妹提携を結んでいるが「若松コロニー」と「おけい」のことは今回塾長からのミッションでブログに投稿することになり初めて知りました。

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本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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