笑楽日塾の事件簿blog

笑楽日塾の事件簿

就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

「戊辰戦争・エルドラド・若松コロニー・伊藤おけい」

以前の記事「鉄道のはじまり第一話 産業革命と鉄道の2回目」の中で、ジョン万次郎がアメリカに渡ってから11年後、日本に帰国する費用を捻出するため『ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアのエルドラドへ行った』と書きました。

この時「エルドラド」と「おけい(伊藤おけい)」のことについて触れていますが、「エルドラド」はNHK大河ドラマ「八重の桜」に登場した会津の人たちが入植した所でもあります。

今回の投稿は我が蕨市姉妹都市カリフォルニア州エルドラド郡のゴールド・ヒルに1869年(明治2年)、日本人が作った若松茶と絹の農場「若松コロニー(Wakamatsu Tea & Silk Farm Colony)」と、そのきっかけとなった戊辰戦争です。

 

戊辰戦争会津戦争

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戊辰戦争は明治の新政府と旧幕府軍との内戦で、勃発した慶応4年(明治元年)の干支が「戊辰(十干の戊と十二支の辰)の年」だったことが名前の由来。

会津戦争戊辰戦争の局面の中にある戦で、飯森山で自刃した白虎隊の悲劇は今なお語り継がれている。詩吟に合わせて舞う白虎隊剣舞はあまりにも有名で、飯盛山の白虎隊士墓前では会津高校の生徒による「白虎隊剣舞」が隊士の霊を慰めるため毎年奉納される。

≪歴史の経緯≫

1862年文久2年)9月24日会津藩松平容保京都守護職に就任し、新撰組を配下に置くなどして尊皇攘夷派の倒幕勢力を強引に武力で抑えた。このため容保薩摩藩長州藩土佐藩中心の、新政府軍からの恨みを一身に背負うことになってしまう。

1867年(慶応3年)11月9日:江戸幕府最後の将軍第15代徳川慶喜大政奉還により、250年以上続いた徳川幕府は終焉を迎えた。

1868年(慶応4年):会津藩松平容保会津で政府軍との戦に備え、交流のあった貿易商(武器商人)でプロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部)出身のジョン・ヘンリー・シュネルを軍事顧問に迎えた。シュネルは日本人女性「ジョウ」と結婚して子供が生まれたため、近くに住む大工の娘(桶屋の娘説もある)「おけい(伊藤おけい)」を子守りとして雇った。

1868年(慶応4年)1月27日:「徳川慶喜」を擁する旧政府勢力と、王政復古の後に明治新政府を樹立した薩摩藩長州藩土佐藩を中心とする「新政府軍」が争う戊辰戦争が勃発。「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに「江戸無血開城」や「会津戦争」等で新政府軍が勝利し続けた。

1868年(慶応4年)11月6日:鶴ヶ城開城。シュネルはゴールドラッシュに沸くアメリカ合衆国のカリフォルニアで金鉱を探し、農場を経営して『新天地に若松を再興しよう』『未来をアメリカで開拓しよう』と主君容保に提案。容保がこの壮大で無謀な計画に資金援助をしたということは、新政府の強引な締め付けにかなり切羽詰まっていたということか。

戦いに破れた会津藩士や農民・大工・その家族が開拓移民団に加わり、一行はカリフォルニア州エルドラドで金鉱を探しながらお茶や桑の木を栽培して、絹の産業を興す夢を持って横浜港から米国船「チャイナ号」で出航した。

1869年(明治2年)6月9日:シュネルは藩士を含めた会津の人々数十名(先発隊と後発隊あり)と共に、アメリカ合衆国本土には初めての日本人移民としてカリフォルニア州エルドラド郡のゴールド・ヒルに到着し、故郷の名前を冠にした「若松コロニー」と名付けた入植地を築いた。(アメリカ本土で暮らした日本人はこれ以前にもジョン万次郎や浜田彦蔵がいたが、彼らは海で遭難してアメリカの船に救ってもらったためで、移民として計画的に暮らしたものではなかった)。

会津でシュネルに子守として雇われていた「おけい」も開拓移民団に同行しており、「おけい」はシュネルの日本人妻「ジョウ」等と共にアメリカ本土への日本人初の女性移民となった。

1869年(明治2年)6月27日:新政府軍が「五稜郭の戦い(函館戦争)」で勝利したことによって、1年5ヶ月に渡る戊辰戦争はすべて終了した。

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シュネル一行がゴールド・ヒルに到着したのは、1869年6月9日(明治2年4月29日)で、箱館戦争が決着したのは、1869年6月27日(明治2年5月18日)。この時系列から見るとシュネルは会津戦争での敗戦から先を読み、函館戦争も勝てる見込みがないと判断して次の行動(開拓移民団)に出たものと思われる。シュネルの判断・決断・行動から推し量ると相当頭が良かった人物の様です。

1871年(明治4年)シュネル達が入植したゴールド・ヒルは、既にゴールドラッシュの最盛期は過ぎており、金の採掘で土地は荒らされ、水は汚染してしまい、お茶や桑の栽培には不向きであったことに加えて干ばつにも見舞われ、若松コロニーはすぐに資金繰りに行き詰まってしまいます。シュネルは『資金調達に行ってくる(行き先は日本説とドイツ説あり)』と言い残し、家族と共にコロニーを離れるが二度と帰ってくることはなかった。日本で秘密裏に暗殺されたとの説もある。

移民団はシュネルの帰りを待ちわびたがいつまで経っても戻ることはなかったため、手持ちの資金に余裕のあるものは夢見みて入植した新天地に別れを告げて日本に帰り、資金が底をついてしまったものはカリフォルニア各地に残るなどしてコロニーの入植者は散りじりになってしまった。(後年岩倉使節団として渡米した嘗ての敵、岩倉具視に頭を下げて帰国したものもいたとのこと)。

「おけい」と元藩士「桜井松之助」の2人はコロニーに残ってシュネルの帰りを待ち続けたが、ついに手持ちの資金が枯渇してしまい「若松コロニー」は隣の農場主ビーア・カンプが所有することになった。

行くあてもない「おけい」と「桜井松之助」の2人はカンプ家の使用人として働くことになり、「おけい」は家族全員に可愛がられて息子との結婚も望まれるようになった。幸せな未来の生活が見えてきたかに思えた「おけい」だったが、ある日突然高熱に冒され19歳という若さで死去してしまい、日本人女性として初めてアメリカ大陸に眠ることとなった。

10数年後に「桜井松之助」が現地に残った仲間に声をかけ、それぞれが苦しい家計の中からお金を持ち寄り、嘗ては夢を描いた入植地「若松コロニー」の見える丘に「おけい」の墓碑を建立した。

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カンプ家に残り「おけい」の最期を看取った松之助も日本に戻ることなく、カンプ家の使用人として67歳の生涯を全うした。最後までこの土地を離れなかったのはお世話になった当時の主君「カンプ家」への忠義心か。亡くなるまで会津の武士魂を忘れなかったものと思う。

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次回は、「おけい(伊藤おけい)」に絞ってもう少し書きます。

本ブログの内容は、著者の個人的見解も多く含まれており、著者の所属する笑楽日塾の意見、方針を100%示すものではありません。

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