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就労からリタイアした、又はリタイア間近な男性に読んでいただき、リタイア後も家にこもりきりにならないで社会と繋がりを持つための参考にしていただけたら嬉しく思います。

第4回オンライン公開講座「鉄道のはじまり」第一話 産業革命と鉄道の2回目

12月2日(水)に投稿しました第4回オンライン公開講座「鉄道のはじまり」第一話1回目の続きです。まだお読みになられていない方はこちらもご覧ください。

 

1.3 初めて汽車に乗った日本人・ジョン万次郎

日本人がはじめて鉄道というものを見て、そして乗ったのは1860年、いまから160年前のことでございます。

① 例外があります。中浜万次郎・ジョン万次郎です。初めてアメリカ本土で暮らし、帰国した最初の日本人です。

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② ペリーが2度目の来航の13年前、天保12年・1841年、土佐の漁師だった14歳の万次郎はカツオ漁の最中に嵐にあって難破してしまいました。

万次郎を救助したのはアメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号の船長ウイリアム・ヘンリー・ホイットフィールドでした。

万次郎が難破したのは鳥島の近海です。そしてハワイから南米の最先端を回って東海岸のフェアヘブンに入ります。

③ 船長は万次郎をアメリカまで連れて帰り、自宅から学校に通わせました。

実直な万次郎は家族や近所の人にも好かれました。

彼は学校で、数学や造船、航海術を学び、11年後に捕鯨船を乗り継いで帰国します。その後は幕府の通訳として大活躍します。

万次郎はアメリカで暮らしながらも、日本のこと、とりわけ土佐清水の母親のことがどうしても忘れられません。彼は日本への帰国を船長に相談します。しかし、帰国の旅費までは船長も余裕がありませんでした。

万次郎はどうやって帰国したのか、その資金をどうやって稼いだのか、この時代は西部開拓、ゴールドラッシュの時代でした。万次郎が住んでいたのは東海岸のワシントン、ニューヨーク更に北のボストン近郊のマサチューセッツのフェアヘブンという漁港です。

万次郎は、俺も西部へ行って、金を掘ってそのお金で日本へ帰ろうと決断します。

 金が採れるのは5,000km離れた西部です。

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万次郎がアメリカ西部のエルドラドへ行ったことがあるのではないかという仮説があります。

それは、

④ 万次郎は帰国の旅費を稼ぐために、西部開拓・ゴールドラッシュの土地カルフォルニアへ行きます。そこがエルドラドではなかったか。

エルドラド?どこかでお聞きになられた地名です。

45年前から蕨市と姉妹提携をしている所です。

エルドラドは、7年前のNHK大河ドラマ「八重の桜」に登場した会津の人たちが入植した所でもあります。

万次郎はその20年前に既にエルドラドへ入りました。エルドラドのゴールドヒルの丘に会津の伊藤おけい(OKEI)さんのお墓があります。

万次郎はどうやってアメリカの東部から西部へ移動したのか。この時代に西部へ行くには、西部劇でおなじみの幌馬車があります。幌馬車は速く移動できますが、料金が高く、インデアンに襲われる危険もありました。

万次郎は船乗りですので、木材船の仕事を見つけて、船に乗って東部から西部へ行くことを決断します。

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⑤ 1849年10月、22歳の万次郎はアメリ東海岸から木材船に乗り、南米の最先端ホーン岬を回って翌年5月サンフランシスコに入ります。

そこからサクラメントを目指して130㎞、川をさかのぼり、サクラメントから汽車に乗り、シエラネバダ山脈のふもとへたどり着きます。

実はこれが、万次郎が初めて汽車に乗った時です。すなわち、日本人が初めて汽車に乗ったのです。1850年ですから今から170年前のことです。

 

1.4 もう一つ記録があります 幕府の一行がアメリカで汽車に乗っています

① 万次郎がマサチューセッツ州のフェアヘブンでウィリアム・ヘンリー・ホイットフイールド船長一家と別れてから11年後、万延元年・1860年、万次郎が命の恩人と再会を果たすチャンスが訪れます。

② それは 日米通商条約批准書交換のために、幕府の外国奉行新美豊前守正興を団長とする一行がアメリカ合衆国に向けて品川沖を出発したのは万延元年(1860年)1月16日のことでした。

一行は84名で、彼らはアメリカの軍艦ポーハタン号に乗って、太平洋を横断し、ハワイからサンフランシスコに渡りました。

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③ 実は、このときポーハタン号より数日早くサンフランシスコに入港していた船がありました。それは軍艦奉行木村摂津守喜毅・船将・勝麟太郎義邦等が乗り組んだ幕府の軍艦咸臨丸は福沢諭吉中浜万次郎ら96人を乗せてサンフランシスコに渡りました。太平洋を横断した最初の日本の船です。

こうしてポーハタン号の84名、咸臨丸の96名の侍達がサンフランシスコに集結しました。彼らはここから批准書交換のために、西海岸からワシントンのある東海岸へ抜けなければなりません。彼らはどうやって移動したのでしょうか。

④ 一行は西海岸から鉄道でアメリカ大陸を横断しました。当時、アメリカ横断鉄道は完成していませんし、パナマ運河も完成していませんでしたので、太平洋側から大西洋側 に出るには鉄道が必要で1855年に開通したパナマ鉄道でした。遣米使節の一行はこの鉄道を利用したのです。このとき中浜万次郎は既に汽車に乗った経験がありましたが、一行は初めて汽車に乗ったのです。それは1860年、160年前のことでした。

実はこの時、万次郎は密かに命の恩人との再会を夢見ていましたが、会えませんでした。万次郎はどんなにか船長と会いたかったことでしょう。何故なら、彼はワシントンまで来ています。万次郎が暮らした町フェアヘブンは、もう目と鼻の先にあるのです。しかし、万次郎は宮仕えの身で、勝手な行動は許されず、サンフランシスコで修理が終わった咸臨丸が5月に帰国することになり、ハワイ経由で帰国したのです。

万次郎がマサチューセッツ州・フェアヘブンで、命の恩人と再会を果たしますのは、明治 に入ってからです。明治3年・1870年8月、43歳の万次郎は新政府から命じられてヨーロッパ出張します。

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この時、太平洋を渡って、サンフランシスコからサクラメントへ、そこから完成したばかりのアメリカ大陸横断鉄道でニューヨークへ入り、その年10月28日、晩秋のマサチューセッツ州のフェアヘブンに入り、命の恩人ウイリアム・ヘンリー・ホイットフィールド船長と21年ぶりに再会します。船長が65歳になっていました。

⑤ 中浜家、ウイリアム家、両家の交流は今も続いています。万次郎の5代目が中浜京さん、船長の5代目はロバートソンさんです。

フェアヘブンの図書館に一振りの日本刀が飾られています。

万次郎が贈ったという説がありますが、実際は、万次郎の長男・中浜東一郎医学博士が大正7年・1918年7月4日アメリカ合衆国独立記念日に地元フェアヘブンに贈ったと The Morning Starという新聞が大きな写真入りで報じております。

 以上が、日本人が汽車に乗った記録です。

 

ここまでは第1話の2回目『鉄道の始まり(最初に汽車に乗った日本人は誰か)(ジョン万次郎と蕨とエルドラド)(咸臨丸でアメリカに渡ったサムライと鉄道)』で、6日(日)には第1話の3回目『鉄道の始まり(埼玉県人で最初に汽車に乗ったのは誰か)』、8日(火)は第2話『ロンドンへの密航から始まった日本の鉄道建設』、10日(木)は第3話『新幹線電車発祥の地』を投稿しますのでご期待ください。

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現在笑楽日塾では皆様がご自宅から参加できるオンライン公開講座(無料)『あなたの知らなかった世界への扉を開いてみませんか』を開催していますので、今までとは違った世界へ興味をお持ちの方は是非ご参加ください。

第5回オンライン公開講座は12月10日(木)20時より当笑楽日塾塾生が「弓道と真善美」と題して、日本人の精神文化に深い影響を与えた弓道の神髄についてお話しします。

この講座はわらびケーブルビジョン、テレビ11チャンネル『ウインクパラダイス』内で放送していただく予定です。蕨市内の方しか見ることは出来ませんが、朝10時からと午後8時からの1日2回放送予定ですので、是非ご覧になってください。

市外の方で第5回以降の視聴をご希望の方は是非オンライン講座にご参加ください。

なお、オンライン公開講座のご案内は下記『笑楽日塾』のホームページに記載されていますのでご一読ください。

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